徳川家康公の故郷で守り継がれた歴史的眺望「ビスタライン」

成瀬 友美

ここでは我が街、愛知県岡崎市にある歴史的に価値のある景観の1つ「大樹寺から岡崎城天守への眺望景観」通称ビスタライン(注1)を取り上げることにする。
ビスタラインのビスタとは英語のvistaで、特に両側に並木・山などのある細長い通景、見通しといった意味があるため、新宿御苑その他でも使用されている名称だが、ここでは大樹寺の本堂から三門と総門を通して約3km先にある岡崎城の天守閣が見えるという景観を指して使うこととする。
当ビスタラインを構成する大樹寺は市内鴨田町字広元5‐1に所在する浄土宗の寺院で、一方の岡崎城は市内康生町にある岡崎公園に所在しており、現在は約60年前に再建された岡崎城本丸がビスタラインを構成している。

大樹寺から望む岡崎城の写真が、岡崎市が発行している「おかざき市政だより」の表紙になったことがあるので、ご参照願いたい。(資料1)

この景観の歴史的意義に関しては後述するが、それだけでなく「景観法」が2005年に施行され(注4)、それを受けて「岡崎市水と緑・歴史と文化のまちづくり条例」(注5)の施行、「岡崎市歴史的風致維持向上計画」(注2)(資料2)の作成などがされるまでは長年にわたり住民の良心によって保たれてきたという点においても注目したい。昨今は自己中心的な動機の痛ましい事件などが多く報道されているが、このような時代に住民の良心が守ってきた歴史的な街の景観が現存するという事実を広く紹介できる機会があれば、微力かも知れないが社会に良い影響があるのではないかと思いたくなる。ましてや、天下泰平の世を創った江戸幕府初代将軍徳川家康と関連の深い歴史的意義のある景観となれば、なおさらである。

では、このビスタラインがいつどのように成立したのか、歴史的にどのような意義があるものなのかを述べるために大樹寺の興りから岡崎城との関連までを述べることにする。

大樹寺は、松平家・徳川将軍家の菩提寺で、文明7年(1475)松平家4代親忠により勢誉愚底上人が開山したとされている。(注3)
寺の名称になった大樹とは中国での地位の名称で日本の将軍に該当することから、松平の子孫から将来将軍が出るようにという念願を込めて付けられたとも伝えられている。

さらに、寺の言い伝えによると(注6)応仁元年(1467年)に起きた井田野の合戦で多くの戦死者がでたので千人塚(注7)へ祭ったことがあった。その後、戦死者達の亡魂が非常に騒ぎだして、塚から声が聞こえ、近辺には悪病が流行したので、亡霊を弔うために親忠が勢譽愚底上人を招いて 17 日間の別時念仏をしたところ、亡魂がおさまったという。
そのような出来事を受けて勢譽愚底上人によって開山されたのが大樹寺だといわれている。

その後、松平家9代が元康(後の徳川家康)となるが、ここでも重要な歴史的出来事が伝えられている。
桶狭間の合戦(1560年)の際、当時19歳の元康が大樹寺に逃げ込んだところ、追っ手に寺の周囲を囲まれてしまった。そこで元康は先祖の墓の前で切腹しようとすると13代住職、登誉上人が「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の教えを説いて、切腹を思いとどまらせたという。
さらに、追っ手を追い払うために、大男だったと伝えられる祖洞和尚がかんぬきを振り回し、元康を救ったとも伝えられる。
そのかんぬきは江戸時代中期に江戸でお披露目されたのを機に「立身出世の貫木神」として信仰を集めるようになり、現在でも大樹寺で祭られているのを見ることができる。

その他、徳川家代々の将軍の位牌が安置されているなど、松平・徳川家とのゆかりの深さは類を見ない。
現在、大樹寺を訪ねると、これらの実物を拝観しながら大樹寺職員からの説明を聞くことができるようになっているので、ぜひ訪れていただきたい。

一方、岡崎城の歴史についてであるが「岡崎市歴史的風致維持向上計画(注2)」によると「西郷稠頼は永享年間(1429~1441)に明大寺に屋敷城を築き、享徳元年(1452)~康正元年(1455)に菅生川(乙川)北岸の菅生郷内 龍頭山(現岡崎城)に砦を築いた。」次いで「享禄3年(1530)~4年(1531)に、家康公の祖父にあたる松平清康が明大寺の岡崎城から龍頭山の岡崎城に松平氏の本拠地を移した。」とある。

つまり、1530年頃にビスタラインが成立する位置関係になったことがわかるが、当時は南北を遮る山があり、ビスタラインが見通せなかったようである。(注8)
「岡崎市行政アドバイザー・レポート 岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために」によると、それらの山が削られたのは田中吉政が城主になった1590年から1600年の頃だったという。
田中吉政とは 天正 18 年(1590年)、徳川家康公が関東に領地替えになった後に岡崎領主となった人物で城下町建設や矢作川築堤を行い、近世岡崎の基礎をつくったとされる人物であるので、その一環として山が削られたとみられる。
そのうえ、吉政は最初の岡崎城天守閣を建造したとされているので、ビスタラインの眺望を成立させた張本人であるといえる。

ただし、吉政は豊臣家の家臣であったため「徳川家菩提寺大樹寺に対する特別の思い入れがあったとは思われず、眺望は偶然的に形成されたとみるべきであろう。」とも書かれていた。

このように、言わば偶然できたビスタラインに意味を持たせたのが徳川三代将軍家光だとされている。

それについて岡崎市ホームページ(注9)によると「寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しています。また、歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼したとも伝えられています。」とある。つまり、我々岡崎市民がよく聞かされているビスタラインの由来は、三代将軍家光がもたらしたのだということである。

家光が祖父である家康に対して強い敬愛を抱いていたことはここで資料を引用するまでもない史実であるが、そのような家光の心が、徳川家の家臣である代々の城主にも伝わったのだと思うと感慨深い。

こうして崇敬の念により200年以上も守られていたビスタラインも廃藩置県(1871年)により、岡崎城が取り壊され、一旦は消滅してしまったが、昭和34年(1959年)に岡崎城が再建され、元の位置に天守閣が復元されたのでビスタラインも復活した。
しかも戦後の高度経済成長期であった上に、当時は景観を保護するための法整備もなされていなかったのにもかかわらず、ビスタラインを遮る建造物などが建てられることなく歴史的景観が保たれていたことは興味深い。

例えば、ビスタラインを守る実例として、ビスタライン上にある岡崎市立大樹寺小学校を紹介する。
この学校では校舎と体育館を結ぶ渡り廊下を造るとビスタラインを遮ってしまうため、渡り廊下の代わりに地下道が作られている。

また、ビスタラインの測量調査を実施して資料をまとめたり、前述の景観法などの法整備がされる動きがあったのと同時期に建設計画が立てられ、建設された建物に「岡崎市図書館交流プラザ」があるが、建設の際は建物の一部を低くしてビスタラインを遮らない工夫をし、建物内のビスタラインに該当する部分にはラインを入れるなどのデザインを施しており、平成22年(2010年)に「第17回愛知まちなみ建築賞」を受賞している。(注11)
今まで住民の良心に頼って守られてきたビスタラインだが、今後のことを見据えて法的に守れるようにする必要があるとの声が地元で挙がっていたことを受けての動きであったことも記憶に新しい。

さて、最近では2019年に岡崎城再建60周年を迎えたことを記念し、岡崎城再建60周年記念事業を岡崎市が開催した。

この催事の中にビスタラインをサーチライトで照らす演出があり、改めて貴重な歴史的眺望を確認することができたことも話題となり、SNS上では多数の画像が掲載された。

このような歴史的眺望に注目する催事が継続して行われると、観光資源としての価値も増すのだが、費用の捻出、だれが実施するのかなどの課題がある。

前述のように、長期間にわたり法の規制がなかったにもかかわらず良心だけで保たれていたビスタラインがあったという事実は覆されることがないので、その意義を忘れないようにして、美しい心の市民が昔から暮らしていた街なのだという誇りと、その景観を守り伝えることにより、先人への敬愛の心を見習い続けることができることを切に願う。

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  • 1_%e5%a4%a7%e6%a8%b9%e5%af%ba%e3%81%8b%e3%82%89%e5%b2%a1%e5%b4%8e%e5%9f%8e%e5%a4%a9%e5%ae%88%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%9c%ba%e6%9c%9b%e6%99%af%e8%a6%b3%ef%bc%88%e9%80%9a%e7%a7%b0%ef%bc%9a%e3%83%93%e3%82%b9 資料2)岡崎市役所都市整備部まちづくりデザイン課景観推進係作成資料「大樹寺から岡崎城天守への眺望景観(通称:ビスタライン)の保全に係る規制強化について」(平成30年4月)
  • 2_%e5%b7%ae%e6%9b%bf_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%992 資料1)撮影日: 2020年2月23日
    撮影場所:大樹寺 筆者撮影

参考文献

(注1)岡崎市ホームページ『ビスタライン』
2020年1月13日閲覧
https://www.city.okazaki.lg.jp/910/1765/p015078.html

(注2)平成31年4月1日版「岡崎市歴史的風致維持向上計画」ダウンロート゛版
https://www.city.okazaki.lg.jp/1550/1567/452000/p020134.html

(注3)文化財ナビ愛知2020年1月27日閲覧
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/shoseki/kensitei/0703.html

(注4)「不動産用語集」景観法とは
https://www.homes.co.jp/words/k4/525001436/

(注5)「岡崎市水と緑・歴史と文化のまちづくり条例」

http://webhp.city.okazaki.lg.jp/reiki/reiki_honbun/i504RG00000886.html#e000001892

(注6)「岡崎学~岡崎を考える」平成18年度講演録「厭離穢土 欣求浄土~家康公の平和思想~」
http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/okazakigakuindex.html

(注7)「岡崎市ホームページ」千人塚
https://www.city.okazaki.lg.jp/1550/1575/1662/p021898.html

(注8)新 行 紀 一 著「岡崎市行政アドバイザー・レポート 岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために」平成22年3月19日
https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1169/p006107_d/fil/report.pdf

(注9)岡崎市ホームページ「ビスタライン」
https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1169/p006107.html

(注10)岡崎市ホームページ「岡崎城再建60周年記念事業を開催しました」
https://www.city.okazaki.lg.jp/300/301/p024465.html

(注11)愛知県ホームページ「「第17回愛知まちなみ建築賞」の決定及び表彰式の開催について」
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/koen/0000029268.html

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