「伝統武芸、豊田棒の手」-地域住民の願いと共に-
1、はじめに
私の住む豊田市北部には500年も前から存在した「棒の手」という伝統武芸がある。
幼い頃から慣れ親しんでいる「棒の手」が文化資産としてどのように評価できるのか、新たな価値の発見につなげたい。
2、豊田「棒の手」とは
2-1. 分布
尾張から三河(現愛知県西部~北部の限定される地域)において町毎に異なる流派が存在する。馬の塔(註1)の分布と重なる。(資料1)
2-2. 流派
豊田市に鎌田流、起倒流、見当流、藤牧検藤流の4つの流派がある。
最も近隣の地域に四郷棒の手保存会(天道鎌田流、下古屋藤牧検藤流、井上見当流、高町見当流、上原鎌田流)が存在する。
2-3. 発祥と復興
「天道鎌田流」天正3年(1575)岩崎城主(現日進市)丹羽勘助忠次の家臣、鎌田兵太寛信が農民を指導したのが始まりで、天明3年(1783)宮口村の深田佐兵満孫が三河鎌田流の開祖となる。昭和3年に一時中断、同35年に復興。
「上原鎌田流」同上。昭和33年に復興。
「下古屋藤牧検藤流」享保年間(1684~1687)に尾張今村(現瀬戸市)にて剣客僧、藤牧沙門が編み出し検藤流と高縄石清流と藤牧流を合流させたもの。篠原村(現豊田市篠原町)を経由し取り入れ習得、大正末期に中断、昭和37年復興。
「井上見当流」天文23年(1554)織田信照の家臣、本田游無が編み出した棒術。猿投地区に伝わる。これを習い昭和40年頃発足。
「高町見当流」井上地区から分離、昭和54年発足。
2-4. 構造、規模
下古屋、天道、上原、井上、高町保存会をまとめ四郷地区棒の手保存会として組織される。会長はじめ顧問、副会長、監査役、書記、会計、事務局長、以下実行委員(渉外、広報、警固、プログラム、遠征)がある。
平成29年現在、天道鎌田流75名、下古屋藤牧検藤流74名、上原鎌田流40名、井上見当流78名、高町見当流40名(八鎮6名、鉄砲隊9名、法螺貝隊3名、馬方6名含む)で構成される。(註2)(資料2)
2-5. 概要
四郷棒の手保存会は昭和36年に愛知県無形民俗文化財指定を受け復興した。
棒の手とは一対の人が六尺(1.8m)程の樫の棒、または木刀、真剣や薙刀、槍、鎌を持ち立ち合いをする武術の1つで棒術とも呼ばれる。定形的な短い動作の「手」(形)を基本として、これを組み合わせて1つの種目とする。町単位ごとに技の形が違う。毎年10月第2土日(旧9月9日)に八柱神社の警固祭りにおいて奉納される。練習は夏に始まり秋の祭りまで毎週月~金、夜7時から子供組、8時半から大人組が行う。
祭り当日に各家庭を訪問し演技を行うものを「門付け演技」という。「無病息災、厄払い」の意味で行われる。(註3)(資料3)
3、歴史的背景と由来
「棒の手」は今から500年前の戦国時代に尾張、三河の国(現愛知県)で発生した武術である。古くから熱田神宮(現名古屋市)へ馬の塔(献馬)を飾り奉納することが盛んであったが、これを農民たちが警固するようになり、後に道具を使い演じ猿投神社に奉納するようになった。五穀豊穣や武運長久の祈りであると言われる。
なぜ戦国時代において、農民達が武器を手にすることを許されたのか。豊田市棒の手保存会の会長は伝承の謎について熱く語られた。
三河の国、織田信長次男の家臣である中条将監の配下にあった猿投の地では、兵力として農民を訓練させていた。実際に戦に行き亡くなったものが多かったので、弔いや褒美の意味で戦国の世が終わっても棒の手の奉納を許されたのではないかと語る。また、棒の手を行うことで若者の力を発散させ、太平の世を望んだのではないかと推察する。
4、文化資産としての評価
4-1. 評価の視点
文化庁「無形文化財」の定義(註4)から考察し、本章では豊田「棒の手」が「歴史性」「地域性」「人の技として」の3点について文化資産としてどのように評価できるか考察する。考察に当たり、同じく戦国時代に発祥した杖道「神道夢想流杖」と比較することで豊田「棒の手」の特性を探るものとする。
4-2. 杖道「神道夢想流杖」の概要
「神道夢想流杖」は長さ四尺二寸一分(1m28㎝)の樫の丸棒を武器とし64通りの型を持つ武道である。相対して修行をする。
慶長時代に、香取神道・鹿島神流の奥義を窮めた夢想権之助勝吉によって創始された。
純粋に杖道を伝承するものが12代までが存在するが、普及よりも杖道の奥深い真価を極めた者だけが継承を望まれるため、流派の存続が風前の灯火であると言える。ただし、一方で九代白石氏が東京に於いて杖道を「全日本剣道連盟」に加入させた功績は大きい。型の一部を追加変更し現在も「全日本剣道連盟制定杖道」として広く普及している。
4-3. 歴史性についての評価
「棒の手」の歴史は天道鎌田流が最も古く天正3年(1575)に豊田市伊保町に伝わる。伊保城主二代目丹羽氏信の家臣鎌田兵太寛信が四郷村天道から徴兵される農民に棒術として「鎌田流棒の手」を教えたと言われる。
一方、「神道夢想流杖」は実戦剣法の最も燗熟した慶長時代に、武士のみならず武士道を志す多くの人々に広く伝えられたという。
双方同じく戦国時代に発祥して栄えたが、農民だけでなく武士道を志す者に広く受け入れられた「神道夢想流杖」は大変優れているといえる。
しかし、豊田「棒の手」は農民に敢えて許された特権であるという誇りを忘れてはならないであろう。「棒の手」奉納を許されたことは城主からの信頼の証ともいえるのである。
4-4 地域性についての評価
棒術、剣術、杖術などの武術の継承を考える時、継承されるか止む無く消滅するかは、その普及方法により大きく左右される。
前述のように「神道夢想流杖」は他団体に形を変え生き延びた。しかし、正道の杖道は伝承の方法が道場においての一対一の師弟関係であるが故に、数多くの弟子は排出出来なかった。
一方、豊田「棒の手」はその組織がまちと共にあるため、消滅することがない。「棒の手」継承者43名のアンケート調査の内(註5)全員が、家族は協力的であると答えている。また、練習の継続は大変だが子どもから高齢者まで色々な年齢の人と話せて、家族以外の繋がりが持てて楽しい。祭りでは地域のたくさんの人に声をかけてもらえるのが嬉しい。年少者への教えはやりがいを感じる、としている。
現代において「棒の手」が地域の公共施設にて無料で習える事はお稽古事としての「杖道」とは根本的に違うスタンスがある。
近年、ご近所つきあいが薄れて行く時代に地域コミュニティの中で「棒の手」は欠かせない存在となっている。
4-5.人の技としての評価
棒の手は実際に間近で見てみると鋭い槍や鎌で竹の棒を素早く切ったり、相手の背中を本当に射てしまったかのように見えて驚くこともしばしばである。しかし、6、7歳の子どもが棒の手を始めた当初は型を整えることで精一杯で人として精神を整えるまでには至らない。一方、「神道夢想流杖」は14歳頃から開始するのがよいとする。西岡常夫は「真剣勝負とは生か死のどちらかだ。強い弱いではない。死に直面する覚悟は精神しかない」という。また、「形は型ではない」という。武術においてこの精神は究極の着地点ではないだろうか。絶対的な師の存在とそこに一歩でも近づきたいと渇望することが必要不可欠である。この精神が究極の修行を可能にするともいえる。
「棒の手」がこの境地を手に入れたとき武術として最強になるのではないだろうか。
人の技としての「棒の手」はこれからの課題が多い。
5、おわりに
「棒の手」を既存の地域の伝統武芸としてだけでなく、文化資産としての評価を試みることで、新たな問題点を見つけることが出来た。「人の技として」に関する課題は多い。極端であるが、こうありたいと渇望する絶対的な師の必要性、一方で、技の習得における評価への工夫を創出したい。5年に一度しかない目録伝授や教えの方法、学校での伝統武芸の扱い方、後進の育成方法において具体的な解決方法を考える必要性を浮き彫りにした。
本学で学んだ伝統とは、自らのルーツを探ることに等しい。
人が本来持つ、素朴で正直な生活の記憶を呼び起こし、気づき、知り、憶え、学び、静かになぞらえていく作業であることを学んだ。
自らの生活の場に自然とあるこの伝統武芸は、住民同士を結びつけ、いつでも自らの地域の誇りである。さらに近い時代に、豊田に住む者だけでなく広く内外の者がこの精神文化を評価するであろう。豊田「棒の手」は、いつか必ず、住民の望む「国の無形民俗文化財」となるにちがいない。
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「近世における馬の塔の分布」(豊田市棒の手会館展示物)にみる棒の手の分布 筆者撮影 2018/7/16
豊田市教育委員会 文化財課許可済 -
「献馬の行列」(豊田市棒の手会館展示物)にみる棒の手の組織 筆者撮影 2018/7/16
豊田市教育委員会 文化財課許可済
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資料3-1
八柱神社警固祭り1 筆者撮影 2017/10/8 -
資料3-2
八柱神社警固祭り2 筆者撮影 2017/10/8 -
資料3-3
八柱神社警固祭りポスター 2017版 サナゲ印刷(株)提供 -
参考資料
猿投地区50周年記念式典 棒の手演技 筆者撮影 2018/3/24(非公開) -
参考資料
東京キャラバンin豊田 筆者撮影 2018/7/22
参考文献
参考文献
猿投町誌編集委員会著『猿投町誌』豊田市役所猿投支所内猿投町誌編集委員会、1968年
豊田市棒の手保存会編集発行『郷土の棒の手』、1979年
愛知県棒の手保存連合会編集発行『愛知の馬の塔と棒の手沿革誌』、1993年
豊田の棒の手県指定50周年記念事業実行委員会編集発行『棒の系譜「衰退から復興、そして未来へ」』、2008年
四郷・下古屋誌編集委員会発行『四郷・下古屋誌』、2000年
豊田市郷土資料館編集『特別展 献馬大将 とよたのお祭りと源氏の伝説』豊田市教育委員会、2004年
小栗鉄次郎文書『豊田市文化財叢書 猿投村に関する口碑伝説集』豊田市教育委員会発行、1980年
旭町の棒の手保存会編集発行『旭町の棒の手』、2005年
長久手町史編さん委員会編集、長久手町役場発行『長久手町史 資料編 民俗・言語』、1990年
小牧市教育委員会編集発行『小牧の文化財・第十六集 小牧の棒の手』、1997年
国際交流基金発行『デトロイト 遠征報告書 豊田市棒の手保存会』、2018年
西岡常夫著『武道試論 杖道自戒』島津書房、1989年
石田博昭編集『杖の品格』愛杖会、2008年
村上勝美著『琉球棒術の秘』」愛隆堂、1995年
水越ひろ著『合気鉄扇術』愛隆堂、1997年
赤羽根龍夫著 赤羽根大介著『武蔵と柳生新陰流』集英社、2012年
戦国剣豪伝 歴史群像シリーズ『乱世を切り裂く無双の撃剣』学研、2003年
SAKURA BOOK『剣 日本の流派 歴史に息づく古流の剣』笠倉出版、2014年
参考URL
文化庁 無形文化財
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/mukei/
註1
棒の手は古くから熱田神宮(現名古屋市)へ馬の塔(献馬)を飾り、馬を奉納することが盛んであった。馬の塔の起源については諸説ある。(年占いの競馬からの発祥、大須観音などの観音信仰の関連、降雨祈願の成就お礼)棒の手とはこれを農民たちが警固するようになり、後に道具を使い演じ、猿投神社に奉納するようになったものである。そのため、これらの神社のまわりを取り巻くように発達した。
馬の塔と棒の手の関連は次の記録が残る。
1, 豊田市宮口区有文書、明応2年(1493)の献馬の記録。
2, 日進市岩崎区有文書「猿投山記録」、天文22年(1553)における岩崎村・本郷村の猿投祭への出始めの記録。
3, 元和2年辰9月吉日の「右の村々、年々9月9日、三州猿投大明神祭礼馬、鉄砲、槍、長刀、鎌、太刀にて相勤め可申者也」という記述。
註2
「棒の手組織」は年齢別で役割毎に構成される。行列の順は次の様である。
八鎮・・二列縦隊の両先頭、案内役、役人帽、役人袢天を着る。
大先・・合属の代表者、陣笠を被る、陣羽織(現在は紋付羽織)扇子に杖持参。刀持参。風切り(胸当て、豪華な刺繍あり、役名を記す)
掛合役・・祭礼役場との調整役。大先と同じ装束。
鉄砲隊・・火縄銃の一団。若連と同じ装束。
中割・・行列の指導役。棒の手演技の進行役。細かい指示を与える。大先と同じ装束。
杖つき(老連)・・50歳以上(現在60歳以上)行列に重みを添える。
子供連・・木刀を持つ。警固はんてんに色のたすき、色鉢巻き姿。赤地に紋の風切り。
若連・・棒、木刀、槍、薙刀、長柄鎌、傘など持参。一文字笠に色鉢巻き。昇竜の風切り。
中老・・30歳~50歳、若連の後につく。
おさえ鎌(馬がこい)・・行列の万が一の混乱に備えて護衛のために太い長柄鎌持参。
たすきに鉢巻き姿。中老の屈強があたる。護衛役。
註3
棒の手を奉納する者は何日も前から別火の生活をして心身を清める。奉納する場所も塩をまいて清める。汚れや邪悪を祓う呪文を伝える流派もある。
棒の手を伝える者は若者組の青年とされるが、練習を重ね、技量・人格を認められると師匠から口伝と巻物を受け次代の師匠となる。
註4
文化庁「無形文化財」の定義では「演劇,音楽,工芸技術,その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上または芸術上価値の高いものを無形文化財という。無形文化財は,人間のわざそのものであり,具体的にはそのわざを体得した個人または個人の集団によって体現される」と表されている。
註5
2018年2月~4月に四郷棒の手保存会(井上、天道、下古屋、高町)会員の方(継続年数3年~45年)にアンケートを配付し回収した。43名の方から有効な回答を得られた。