横浜のランドマーク・旧横浜正金(しょうきん)銀行本店本館・神奈川県立歴史博物館

九冨 由美

1.はじめに
私が居住する横浜市中区は「みなと町よこはま」として知られているが、その横浜港は1859年(安政6年)に開港して以来、常に日本を代表する国際貿易港として日本経済を牽引してきた。関東大震災、第二次世界大戦(横浜大空襲)といった危機を乗り越えてきた横浜の歴史的文化資産といえば横浜山手西洋館群、外国人墓地、中華街が有名であるが、なかでも特筆すべきは当時の街並みを色濃く残す馬車道エリアに点在する明治大正時代の歴史的建造物群である。ここではその中心部に位置する神奈川県立歴史博物館「旧横浜正金(しょうきん)銀行本店本館(エースのドーム)」に焦点を当て、文化資産としての価値を評価してみたい。

2.神奈川県立歴史博物館「旧横浜正金(しょうきん)銀行本店本館(エースのドーム)」
(1)基本データ
所在地 神奈川県横浜市中区南仲通り5-60
構 造 補強煉瓦造・石造3階地下1階 設 計 妻木頼黄(つまき よりなか)
起 工 1899(明治32)年3月25日 竣 工 1904(明治37)年7月
建 坪 2156 平方メートル(石堀内を含む)
延 床 7972 平方メートル(現状)
高 さ 軒高 16.5 メートル
ドーム高 16.5メートルっぷり
総工費 110 万円(当時の価格)明治時代の1円の価値は、現在の2万円ほどに相当する。
2万円×110万円=220億円という計算になる

(2)歴史的背景
明治時代に入り、文明開化と共に近代建築がはじまる。
日本には、特に横浜には明治初期より欧米からの文化が入ってきて、着物から洋装を取り入れ、和食から洋食を食べ、鉄道が走り、ガス灯で街は照らされて、欧米化が進んだ時代であった。
そして、建築も例外なく近代建築に変わるが、それまでの木造建築から石造りや煉瓦造りの洋風建築が建てられ、生産革命に伴い、鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の礎ができあがった時代である。

(3)設計者・妻木頼黄について
妻木頼黄(1859~1916年)は、辰野金吾・片岡東熊と並ぶ明治時代を代表する日本人建築家であり、大蔵小臨時建築部長を歴任した技術官僚であった。彼は明治9年(1876)に単身ニューヨークへ渡り、その後コーネル大学やドイツのシャルロッテンブルク大学で建築を学んでおり、その影響が大きいといえよう。
そして横浜正金銀行、本店のほかに、横浜新港埠頭の赤レンガ倉庫2号館(1911年設計:大蔵省臨時建築部)、日本橋(1911年、意匠設計) の設計にも関わっている。

(4)建物の特徴
ドイツのルネサンス様式の建築物である。この建物は、旧館と新館から成っているが、以下の特徴を有している。
① 建物は、歴史主義建築(19世紀から20世紀はじめごろの、西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築。例として、ギリシャ神殿のように列柱の並ぶボザール様式やゴシック様式)に属する明治30年代における代表的なドイツの近代洋風建築の影響を強く受けている。
② 外壁には石材を使用した煉瓦造りの地上3階地下1階建ての建築
③ コリント式の重厚な石造彫刻の柱頭飾りをもつ大オーダーで、1階部分はコリント式の列柱に囲まれ、天井の明かり採りが設けられた吹き抜けの構造になっている。また、柱の装飾は、溝が彫られた細身とアカンサス(Acanthus‐ハアザミ植物)で、アザミに似た形の葉は古代ギリシャ以来、建築物や内装のモチーフとされ、コリント式オーダーは、アカンサスを意匠化した柱が特徴である
④ 窓枠は、渦巻状の古代ギリシア建築様式で神殿建築様式中期の列柱頭部の渦巻き模様が特徴のイオニア式柱頭飾りと角柱に三角ペディメント(日本建築の破風)
⑤ 正面中央には、八角塔屋付に据えられた巨大なドーム
⑥ バロック様式の進化版であるネオ・バロック様式とされる威厳のある外観を構成
以上のことから、古代ギリシアの建築様式の一つであるヘレニズム・ローマ時代にかけてみられた列柱上部の複雑な装飾のコリント式とネオ・バロック様式から成る豪華な外観装飾の建築物を見ると、明治時代に銀行がどれだけの栄華の象徴であったかが伺える。

3.同じ時代の建造物との比較
妻木頼黄(1859~1916年)と共に明治建築の三大巨匠といわれている人物の建造物を比較してみる。三代巨匠には、妻木の他に、辰野金吾(1854~1914年)と片山東熊(1854〜1917年)がいる。辰野は日本銀行本店と東京駅を建築した。日本銀行本店は国指定重要文化財で明治29(1896)年に竣工したネオ・バロック様式にルネッサンス的意匠を加味し、秩序と威厳が表現された建築でベルギーの中央銀行を模範に設計したといわれている。また、東京駅は、大正3(1914)年に竣工した赤レンガ造りの建物で南北ドームが特徴の英国建築のクイーン・アン様式で古典様式のスタイルを自由に組み合わせて建築である。片山は、ネオ・バロック様式を取り入れた赤坂離宮迎賓館を明治42(1909)年に竣工した。明治時代は文明開化に伴う西洋建築が世界中からとりいれられながら発展していったことがわかる。
神奈川県立歴史博物館「旧横浜正金(しょうきん)銀行本店本館」は、同じ時代の建造物と比較した場合、旧横浜正金銀行は明治の文明開化に伴う可憐な建造物というだけではなく、ランドマーク的だったのではないだろうか。
横浜港に入港してくる外国船には、方向を定める案内としての役割が必要だった。その役割を担うために、屋上に大型のドーム(のちにエースのドームと称されるようになった)を有している点にあると考える。また、地区外から見たときに、周辺街区の建物に埋もれず、視認される高さや特徴を持たせることでランドマーク性を創出していると感じる。地区内においても他の建築物との交点となり街の回遊性を 高めるための目印となっている点でも優れているといえる。

4.その後の建造物への影響
(1)明治から大正へ
時代は明治から大正へ変わったのちにも、横浜市中区の馬車道エリアには、当時のランドマークという考え方を引き継いだ建築物が次々と建設され、今でも現存している。
・横浜市開港記念会館(1917年大正6年竣工)のちにジャックの塔と称される
・煉瓦と花崗岩でできた建物で東南隅に時計台、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームをあげている。
(2)昭和初期
・神奈川県庁本庁舎(1927年昭和2年竣工) のちにキングの塔と称される
フランス風ネオ・バロック様式
・横浜税関(1934年昭和9年竣工) のちにクイーンの塔と称される
ロマネスク様式
(3)そして現代へ
レーダーや無線誘導という技術により、「ランドマーク」そのものが過去の遺産となった現代
においても「みなと町よこはま」にはランドマークの名称はきちんと引き継がれている。
・横浜ランドマークタワー(1993年平成5年竣工)
・地上70階、高さ2964メートルに超高層ビル

5. 今後の展望
以上のように旧横浜正金銀行本店本館(神奈川県立歴史博物館)のエースのドームは、横浜港のランドマークとしての役割を終え、博物館として活動の振興や学術文化の進展、それに伴い学校での博物館見学の実施や、市民の憩いの場となり生涯学習の場として利用されていく必要がある。今後、博物館事業の充実を図るためには、博物館資料の充実のため美術品の購入、寄贈、寄託、借用が不可欠で、今後も国指定の重要文化財や史跡を後世へ守り続け神奈川県と地域による市民の協力が大切だ。そして後世に伝承していく使命が私たちにはあるだろう。

参考文献

神奈川県立歴史博物館2015 リーフレット
世界大百科辞典第2版
神奈川県博物館50周年記念プロジェクト(2017年)
神奈川県立歴史博物館年報(平成30年度)
美術手帳帖 .辰野金吾没後100年展示企画
日経アーキテクチュア
迎賓館赤坂離宮/東京の観光公式サイト
世界史の窓

年月と地域
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