焼き物の街京都東山の歩み(京焼・清水焼)

藤田 多朗

はじめに

京焼・清水焼は「経済産業大臣指定伝統工芸品」及び「京都府知事指定伝統工芸品」に認定されている。

北から知恩院、八坂神社、清水寺、南では泉涌寺、東福寺などの社寺が連なる京都東山区は人口約37000人の京焼・清水焼の産地である。そんな陶器の街東山を考察してみた。

基本データ

◦ 京焼・清水焼の東山地区としては、泉涌寺地区、日吉地区、五条坂地区にわかれて
いる。

◦ 以下の各地域それぞれ団体がある。
・京都青窯協同組合(泉涌寺地区)
・京都日吉製陶協同組合(日吉地区)
・京都府陶磁器協同組合(五条坂地区)
・京都府色絵陶芸協同組合(五条坂地区)など

◦ 東山地域の主な陶器まつり
・3月28日、29日 日吉窯元まつり 今熊野日吉町一帯
・ 8月7日~10日  五条坂陶器祭り 五条坂から東大路五条の両歩道400軒
・ 11月22日~30日 泉涌寺窯もみじまつり 泉涌寺と東福寺の間の30軒余り

◦ 東山区には京焼・清水焼の伝統産業継承の施設である京都府立陶工高等技術専門校
が存在する。

◦ 著名な作家の施設として河井寛次郎記念館がある。

清水焼の歴史

五条坂清水焼の陶業のはじまりは諸説あり、1819年に茶碗坂の九代目音羽屋惣左衛門から大仏(方広寺)境内鐘鋳街の丸屋佐兵衛に窯が譲られ自宅の裏に移した説。
1613年、大仏の巨鐘鋳造の時、五条坂に移した説。
慶長の末に窯煙が豊公廟をおおうので五条坂に移した説、などがある。

明治末から大正中頃にかけて、粟田、清水から日吉、泉涌寺地区に広がりをみせる。
その後、今熊野(地元では蛇ケ谷とよばれた)と泉涌寺などで製造が行われ、五条坂では小売りや問屋が主流となる。五条坂近辺においても、登り窯が立ち並んでいたが製造の効率化(焼き上がりにムラがある)や地域の公害問題によって電気窯、ガス窯へと転換される事となる。現在、府内で唯一稼働している登り窯は宇治炭山だけである。

戦時中には、生活に根差したものではなく爆薬を作るための容器が作られていた。
他にも清水焼はセラミックとしての役割をかわれ、金属にかわる仏具や火鉢が作られるようになった。

評価

1.五条坂陶器祭りについて

京都五条坂陶器祭りは古来清水焼発祥の地で知られる東は東山通りから西は川端通りの東西の間に陶芸家、製造業、卸、小売業が約400軒もの出店が賑わう全国で最も大きな陶器市である。陶器市のはじまりは、初めは小さな市であったが戦後になると盛んになり大規模になっていった。以前は登り窯で焼かれていた為、二級品と呼ばれる粗雑なものや半端ものが多く出品されていた。電気、ガスの普及によって半端ものも少なくなり現在では著名な作家や現代風のデザインものが陳列している。毎年40万人の来訪者が朝の9時から夜22時の間に訪れる。

2.京都府立陶工高等技術専門校について

京都府立陶工高等技術専門校は五条坂南方に位置し、昭和21年(1946年)に創設された京焼・清水焼の伝統的作陶技術を習得する為の施設である。

1~2年にわたる授業内容は陶磁器の成形、絵付、釉薬、焼成、デザインなどの基礎技能を身に付ける為のカリキュラムが組まれている。

当行の卒業生であり現在独立されている梅山克氏に書面にて質問を行った。

学校には、高校、大学を卒業したての方から社会人を経験された方まで半数以上が他府県で未経験者であり、幅広い年代の方が来られていたとの事。卒業してからの進路は、職人として窯元へ就職される人、独立して作家活動される人、他方面へ進まれる人など様々。
学校生活はカリキュラムが詰まっていて忙しく充実した一年を過ごせ、また地域では、修了作品の即売会などをおこなったとの事である。

3.河井寛次郎記念館について

昭和12年に自宅を全面改築するにあたり建築を生業としていた家に生まれ育った河井寛次郎自身で設計を行うと共に家具・調度品のデザインも手掛けた。

建築は実兄の善左衛門を棟梁とする故郷の安来より大工を呼び寄せ、半年以上住み込みで自分の思い描いた家を建てた。この寛次郎の拠点は制作の場だけでなく、多くの人々のサロンのような役目を果たす事となる。寛次郎の器に盛られた妻つねの手料理を味わいながら素晴らしい談話が交わされた。

「美」を単独の「もの」としただけでなく、空間や環境、暮らしぶり、生き方にまで関わるものとして捉えようとした。そんな空間が河井寛次郎記念館として残されている。

特筆すべき点

京都には現在300件以上の窯元があり商社から個人事業主まで様々である。問題視される事は、大量生産品の流入による低価格化の他に、深刻な後継者不足が問題となっている。
京焼産地の生産状況では1990年をピークに50%以上半減している。
また京焼・清水焼が多様性のある理由として京都では焼き物の原料となる土や石があまり産出される事がなかった事と京都は料理、華道、茶道など最大の消費地であった為、様々な形態の焼き物が作られる事があげられる。
最近ではおもな製品は食器、茶器、花器が大半を占めており、各窯元が食器専門、茶器専門、花器専門とそれぞれの分野で製品作りが成されている。五条坂には窯元以外に上絵師、卸商が集中しており、卸商が窯元に白素地を注文し、それに上絵師が上絵付けを施す形態や窯元が上絵師に外注して上絵付けを施し、完成品を卸商に卸すといった分業制としている所もある。高級料亭や茶道、華道の家元の取引は卸商が仲介するのではなく、特定された窯元との取引が成されている。

他の焼物との比較

京焼・清水焼は野々村仁清(註1)によって御室仁和寺門前に本格的な色絵(彩釉を用いて上絵付けしたもの)陶器が始まる。色絵で言えば有田焼が日本初めて磁気(石もの)を作り、その絵付に赤を主体とした色絵が施された。京都においても奥田頴川(註2)によって赤絵を中心に色絵を施した磁気が作られる様になった。京焼・清水焼は他にも土ものの味わい深いものまで多種多様であるが伝統的にみて茶道具や懐石道具などに好んで用いられた薄手のロクロ成形による仁清の器や頴川の磁器など古い歴史から色付けされた器の印象は拭えない。また釉薬を用いず登り窯で高温で薪や藁による須恵器の焼成を源に発展した自然釉が主体となる備前焼、伊賀焼、信楽焼、丹波焼、常滑焼と比べ京焼・清水焼は施釉は勿論の事、絵付による華やかなデザインに彩られている。
京焼・清水焼では昔、地元の土が使われることもあったが、現在では信楽焼で有名な滋賀県信楽町、熊本天草などから土を仕入れている。

展望

現在、陶磁器生産は代替食器の登場や安価な陶磁器の輸入などによって国産陶磁器の需要は減退している。京焼・清水焼は食器、茶器、花器など優雅な絵付けで高く評価され高級陶磁器として位置づけられているが茶道、華道、料亭などからの注文は減少傾向にある。

しかし、外国からの来訪者によるインバウンド効果で京都は賑わいをみせている。それと共に文化庁京都移設に伴い伝統文化が見直されるきらいがある。このように世界が日本の生活文化を愛でる様な時代となっている。欧米に憧れるのではなく日本独自の目線で日本の伝統ブランドを発信させ、その中で京焼、清水焼の役割がどの様に創意工夫されるか試されている時期にきているのではないだろうか。また後継者不足で悩まされる産業ではあるが訓練校では京料理とのコラボや3Dプリンターによる形成の取り組みなど新しい試みが実施されている。
他にも職人という仕事に対して注目度が増している。行政のバックアップや産地組合として後継者を育成するなど新しい取り組みも始まっている。

おわりに

最近のテレビニュースで信楽焼の陶芸家がアニメのフィギュアを陶器で焼いている場面に遭遇した。京都東山は民藝運動(註3)によって名を馳せた河井寛次郎が東山五条に窯をかまえたり、八木一夫率いる走泥社(註4)が五条坂に存在した土地である。昔ながらの伝統と共に前衛的な空気も感じられる。そんな新しい動き、新しい試みによって私達を魅了して欲しい。
新しい動きと共に、伝統を重んじこれからも親しみのあるそんな品々が世にをおくり込まれる事を願う。

参考文献



(註1)野々村仁清 野々村仁清は生没年は不詳とされているが、京都府南丹市美山町大野に誕生し、名を清右衛門と名付けられた。若くして京都粟田口、尾張瀬戸で修行し、京都御室の仁和寺前に窯を構えた。仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を取って「仁清」と名乗る事となる。代表作には、国宝「色絵藤花文茶壺」や「色絵月梅図茶壺」などがある。

(註2)奥田頴川 1753-1811年(宝暦3-文化8) 江戸中期の陶工、京焼中興の祖。建仁寺の南、大黒町五条上ルに居住し当時流行した南画や煎茶を中心とする中華趣味に触発され、天明年間(1781-89)ころから製陶を志す。門弟には青木木米、仁阿弥道八らの名工がいる。

(註3)民藝運動 1925年、民衆の生活のなかで使われる工芸品に美を見出した柳宗悦が富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司との連名で翌年「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、全国に民藝運動が展開されることとなった。

(註4)走泥社 戦後の“前衛”の先駆けとなったのが昭和23年五条坂で結成された走泥社である。
メンバーは八木一夫を筆頭に鈴木治、山田光等20名によって結成された。
当時の新聞の八木の言葉によると「面白がってカッサイしてくれたのは、貧しい画学生と新聞記者ぐらい。さんざんな成績の旗上げだった」との事。前衛者が背負わねばならぬ宿命とはいえ、五条坂界隈ではまさに気狂い扱いだった。昭和29年、彼は自らの作品をオブジェ焼と命名し、国際的に評価を受け世に知られる事となる。

参考文献

成美堂出版編集部『やきもの事典』(成美堂出版、2004年)
藤平長一・北沢恒彦『五条坂陶工物語』(晶文社、1982年)
八木一夫『オブジェ焼 八木一夫陶芸随筆』(講談社文芸文庫、1999年)
河井寛次郎記念館偏『河井寛次郎の宇宙』(講談社カルチャーブックス、1999年)
『美術手帖』(美術出版社、2019年vol.71NO1075)
『陶工だより』(京都府陶工高等技術専門校、2019年25号、26号)
『京都府陶工高等技術専門校』パンフレット

梅山克氏書面で受け答え

参考URL

京都陶磁器協同組合連合会2020年1月10日アクセス
京都府立陶工高等技術専門tokgs>2020年1月13日アクセス
京都・五条坂~陶器まつり2020年1月13日アクセス
京都青窯会協同組合2020年1月13日アクセス
四季の美2020年1月7日アクセス
京都市東山区役所2020年1月7日アクセス
青木英一著 京焼産地における生産流通構造と需要変化への対応、敬愛大学研究論集2008年第74号 2020年1月8日アクセス
河井寛次郎記念館2020年1月15日アクセス
走泥社2020年1月17日アクセス
野々村仁清とはコトバンクword>野々村仁清>2019年8月10日アクセス
奥田頴川とはコトバンクword>奥田穎川_40013>2020年1月14日アクセス

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