熊谷和徳が開くタップ・ダンスの未来

高橋 大樹

1:基本データと歴史的背景
今回私が卒業研究として取り上げたいのは、タップ・ダンサー熊谷和徳の芸術・創作活動である。
熊谷和徳は、現在46歳の日本を代表するタップ・ダンサーであり、2020年の東京オリンピックのオープニングセレモニーにおいて、その自由なダンスで日本中を魅了した人物である。

熊谷は、タップの神様と呼ばれるグレゴリー・ハインズに魅了され、15歳よりタップダンスをはじめ、19歳で単身渡米。ブロードウェイのショー「NOISE/FUNK」のオーディションに合格後、活動の幅を大きく広げ、ストリートから、ニッティングファクトリーのような有名JAZZ CLUBで活動を行うなど、アメリカのタップ・ダンス界でもよく知られている。

私自身、何度か同氏にタップ・ダンスの基礎を教えていただいたことがあるが、同氏の才能は、日本のタップ・ダンス界の歴史を鑑みても、非常に稀有なものであると捉えている。

2:国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか
国内外の他のタップ・ダンサーとの比較、その優位性を語るには、まずはタップ・ダンスの歴史を語らなければならない。

そもそもタップ・ダンスの起源は、アメリカ南部の黒人によるとされている。18世紀、同国サウスカロライナ州において黒人奴隷による、労働後の楽しみとしてドラムが打ち鳴らされていた。しかし、1739年に同州にて黒人奴隷たちによる暴動が発生したことを機に、白人が集まる場でのドラム演奏が禁止されたのだった。その結果、ドラムを鳴らす代わりに、足を踏み鳴らし始めたことがそのきっかけとされている。その後、ニューヨークのスラム街「ファイブ・ポインツ」において、アイルランドからの移民と黒人奴隷の子孫たちがダンスバトルを行うなどすることで、ヨーロッパのダンスとアフリカのダンスの融合が進み、タップ・ダンスと呼ばれる形になっていった。

ただ、上記はあくまで起源的な話であり、日本国内のタップ・ダンスの歴史はまた独特なものだ。
タップ・ダンスに造詣の深い評論家、榛名静夫によれば、昭和5年に宝塚少女歌劇が、舞台「パリゼット」、「第三回東京をどり」、翌年の「タンゴ・ローザ」などで披露されたのが最初と言われている。ただ、このころのタップダンスは、あくまで全体のショーの中の一部であり、まさに添え物であった。

本格的にタップ・ダンスが国内で認知され始めたのは、アメリカ渡りのショー劇団による。ナイン・オクロック・レビュー団(来日1933年)、マーカス・ショー(同34年)、パラマウント・ショー(同36年)等が東京でショーを行い、特にマーカスはドラムに合わせて複雑なリズムのタップ・ダンスを披露し、観客は初めて熱狂したという。

そこから、いわゆるアメリカニズムを漂わせた芸人たちが、タップ・ダンスを自分たちの芸事に取り入れ始めたのである。例えば、ハワイ生まれロサンゼルス育ちを売りとする川畑文子は、日劇のこけら落とし公演「踊る一九三四年」にて、片足を自分の肩に担ぎ上げ、もう一方の足でタップを踏むという「アクロバチックタップ・ダンス」と呼ばれる独特のダンスを売り物とするなど、つまり、一種の曲芸技としての進化を遂げていくのである。

その後、タップ・ダンスが、いわゆる現代のような形になっていったのは、中川三郎というタップ・ダンサーの登場によってだった。昭和8~10年にかけて渡米しタップを学んだ中川は、帰国後、本場仕込みの洗練されたタップ・ダンスを披露し、世間に、いわゆる現代的なタップ・ダンスの形を浸透させていった。中川はその後、鈴木伝明監督主演の映画「歩道の囁き」に出演するなどし、これまでの芸人然としたタップ・ダンサーの印象をがらりと変えたのだった。

昭和11年ごろから、一部では「タップ・ダンス氾濫時代」と呼ばれる流れが起き、タップ・ダンス入りのレコードが急に一気に売れ出すなどの現象が起きた。これまで日本では社交ダンスの横にいるただのおまけだったタップ・ダンスに「タップ・ダンス界」という業界ができ、人気番付やゴシップ記事まで出てくるようになった。

その後、北野武監督の「座頭市」で一躍有名になるHIDEBOHが出現する。実は、HIDEBOHは、生粋のタップ・ダンサーではない。同氏が武者修行のためアメリカとの往復生活をしていた際に参加していたのが、リミキサー集団の「THE JG‘S」であった。同グループは、TRFのDJ KOOや、DJ HONDAなどが在籍していたグループであり、そこに在籍していたHIDEBOHに与えられた役割がラッパー兼ダンサーであった。その後、ダウンタウン司会のダンス番組「ダンス!ダンス!ダンス!」(1990年)に出演した際に、タップ・ダンサーとして紹介され、そのキャリアを固めていったという背景がある。

これがいわゆる、戦後から現代にいたるまでの日本のタップ・ダンスの歴史である。

3:事例のどんな点について積極的に評価しているか
話を元に戻すと、上記のような日本タップ・ダンス界において、なぜ熊谷和徳を積極的に評価するかというと、まず理由の一つ目は、同氏が「世界から評価されている」ことである。日本のこれまでのタップ・ダンス界は、国内の芸事として消費されてきた。それは上の歴史を見ても間違いないことだろう。一方の熊谷は、タップの神様グレゴリー・ハインズに師事し、地道にその実力を高め、2006年にはその活動と実力を現地で認められ、「米ダンス・マガジン」において「観るべきダンサー25人」に選出されるなどしている。完全なる国際的な日本人タップ・ダンサーである。

二つ目は、タップ・ダンスを主軸とした芸術活動の広さである。現代的にいえばコラボレーションの幅だ。タップ・ダンスはその起源からもわかる通り、基本的には「ドラムの代わり」なのだ。ダンスであるとともにリズムであるということは、当然ながら、他の芸術・舞台活動と相性が良い。ただそれでも、一般的な国内外のタップ・ダンサーは、例えばJAZZバンドとの連携などはするものの、さらに広い幅のコラボレーションは多くは見られない。

しかし、熊谷の活動は圧倒的に幅広い。2006年には、MIHARA YASUHIROミラノコレクションの音楽をすべてタップダンスの音で演出、コラボレーションする音楽も、ジャズからポップ、クラブミュージックまで様々であり、音楽家の日野皓正、coba、上原ひろみ、金森穣、ハナレグミ、DJクラッシュなどとセッションをしている。私自身もそのほとんどを現場や動画で観たことがあるが、いわゆるタップ・ダンスという形式を飛び越えたイメージを視聴者にもたらしてくれる、素晴らしいショーである。2010年には東京フィルハーモニー交響楽団と共演「REVOLUCION」を演奏し、その後、上記のような幅広い活動が評価され、2012年には文化庁の助成を受けてニューヨークで活動を始め、2014年、ニューヨークで毎年開催される「NATIONAL TAP DANCE DAY」にて、日本人初のフローバート賞を受賞するなどしている。この幅の広さが、特筆すべき項目の二点目だ。

4:今後の展望について
同氏は現在、中目黒に自身のタップ・スクールを運営しつつも、相変わらずニューヨークを拠点として多くのコラボレーションを企画、実現し、多くの人の心を掴んでいる。さらには、自身でバンドを組み、外部のコラボレーション先としてのタップ・ダンサーではなく、自分たちで主体的に曲を作り、音楽活動を行おうとしている。この活動は、タップ・ダンスの未来を開拓する大きな流れであると考えている。

5:まとめ
私は、現在でも国内のタップ・ダンス界は、国内の愛好家によって消費される、いわゆる”ニッチな業界的アート”だと考えている。事実、アートや創作活動に興味のない多くの人々に、タップ・ダンスを見せたところで、強い感動を与えることはできないのではないだろうか。しかし熊谷和徳の活動は違う。海外(いわゆる本場)に拠点を持ち、タップ・ダンスという業界を飛び越え、人気の舞台活動・芸術活動・芸能活動と軽々とコラボレーションし、その上でタップ・ダンスを世に広めていく強い力を持っているのである。

  • 熊谷和徳氏のアーティストフォト
    ソニーミュージックウェブサイト(https://www.sonymusic.co.jp/artist/KazunoriKumagai/)より(非掲載)

参考文献

里中哲彦・ ジェームスMバーダマン『はじめてのアメリカ音楽史』 筑摩書房、2018年。
相倉久人『新書で入門―ジャズの歴史』新潮社、2017年。
マルセル ブノワ ・ ノルベール デュフルク 『西洋音楽史年表 古代から現代まで』白水社、2012年。
菊地成孔・ 大谷能生 『東京大学のアルバート・アイラー : 東大ジャズ講義録・歴史』メディア総合研究所、2005年。
若杉実『ダンスの時代』リットーミュージック、2019年。
瀬川昌久『ジャズで踊って-舶来音楽芸能史-』清流出版、2005年。
ボナヴェントゥーラ・ルペルティ『日本の舞台芸術における身体-死と生、人形と人工体-』晃洋書房、2019年。

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