刀の存在―鎌倉古刀の再現に挑む刀匠松田次泰の活動についての考察―

江口 浩平

刃物は危ないのか?確かに危ない。しかし、反転して考察すると、危険なものから身を守る役割もあり、一口に「危ないもの」だけでは済ませられない面がある。ときに聞く話として、代々受け継がれてきた家宝の中に、「刀」を持っている家族がいた話。現代では使うあてがないということで、その刀を処分することに。しかし、処分したのちから、家族の体調に異変が出たり、経営していた会社が傾き始めたり、と物事の流れが変わり、悪い方へと導かれる、というケースがある。これは、見えない力ではあるが、「刀」がそういった要因を、断ち切って守ってくれていた、と考えられなくはないか?
さて、そのように守る力のある「日本刀」。我々の刀文化の軌跡を探るため、今回は、刀の最高峰といわれている「鎌倉刀」の再現に挑む、松田次泰氏の活動を追ってみたい。

1.基本データと歴史的背景
松田次泰氏
平成27年、千葉県無形文化財の保持者として認定された松田次泰氏は、北海道北見市にて昭和23年生まれ。本名松田周二。北海道教育大学特設美術科卒業後、刀匠高橋次平師に入門。昭和55年、作刀承認許可。平成8年、日本刀美術刀剣保存協会会長賞受賞(以後、特賞8回)。平成17年、文化庁長官賞受賞。翌年、高松宮記念賞受賞。平成21年、無監査認定。

・日本刀の歴史
日本刀の歴史を遡ると、平安時代中期頃になる。それ以前は、「上古刀」という刀身が真っ直ぐな刀が作られていた。大陸から日本にもたらされた大陸様式の直刀である。この真っ直ぐな様式が、反り(湾曲)を持つようになったきっかけは、当時、主に東北地方に住んでいた蝦夷(エミシ)との合戦においてである。蝦夷は「蕨手刀(ワラビテトウ)」という反りのある曲刀を武器にしていた。その威力は凄まじく、朝廷軍は苦戦を強いられていた。その蕨手刀の威力に勝つために、その湾曲した反りを取り入れ、現在日本刀と呼ばれるような形になったのが、最初である。
その後、鎌倉時代の自由な社会風土の中で、日本刀は黄金時代を迎える。この時代の刀の産地として、通称「五箇伝」と言われる、大和国(奈良県)、備前国(岡山県)、山城国(京都府)、相模国(神奈川県)、美濃国(岐阜県)の5箇所の各地にて多くの名工が輩出されている。
各時代(鎌倉初期、中期、後期、南北朝、室町、安土・桃山、江戸、幕末、明治)を経て、数々の名刀が作られてきた。後述する松田氏の話にも明記するが、特に、鎌倉時代に存在していた「鎌倉古刀」は、史上最高の刀として今でも評価は高い。
日本刀の鑑定ランクは、国が指定する、「国宝」「重要文化財」「重要美術品」と、日本刀美術刀剣保存協会が指定している「特別重要刀剣」「重要刀剣」「特別保存刀剣」「保存刀剣」がある。松田氏曰く「「国宝」として認められる品には、「他にはない品格」が備わっている(註1)」と言う。日本刀の要素として、「機能性」「美術生」「精神性」の3つがある。それらがバランス良く整うことで、「品格」というものが自然と滲み出てくる。鎌倉時代の刀を再現しても、この「品格」が備わっていなければ、やはり「国宝」とは認められず、”鎌倉時代の刀に匹敵する現代刀”という評価で留まる。
「日本刀はすべからく鎌倉に帰るべし」と宣言をしたのは、江戸後期の刀工・水心子正秀である。江戸時代後期に生きた彼は、自身の技術を書にまとめ、さらに弟子も多く育ててきた。現代の新々刀に繋がる重要な人物である。しかし、当時、鎌倉刀を作る技術は途絶えていたため、美しさと強さを兼ね備えた鎌倉時代の名刀に並ぶ刀を作る事ができなかった。

2.事例のどんな点について積極的に評価しているのか
作刀における評価と問題点
松田氏の作刀における評価はどのような点にあるだろうか?私は、彼の"作刀における工程と素材への探究心"を評価したい。松田氏が平成8年に作刀した1本が、鎌倉刀に並ぶ出来の一本目。それが、苦労の始まりという。「初めて「古刀ができた」と思える一振りに出会ってから、完全に満足のいくレベルまで高めるのに、10年。ようやく高炭素量に耐えられる技術にたどりつきました。平成15年あたりから、匂口(刃紋と地との境目)が明るくなりました。この頃からずっと、納得できるいい作品を作れるようになったと思います。(註1)」
「再現」という言葉を聞いて、昔の人は「鉄」に秘密があると思ったそうだ。つまり、素材を再現することにより、鎌倉刀を作れるのでは、と思っていたのある。江戸時代後期に完成した、たたら製鉄では、大きな鋼の塊を作ることができた。しかし、それ以前の時代では、そもそも何トンもあるような鉄を割る技術がなかった。つまり現代の製鉄過程とのそもそもの違いがあると言うことになる。「昔の技術で割れるのは、「銑鉄」。銑鉄とは、炭素量4パーセントほどの粗製の鉄。それを脱炭して炭素量を低くして、鋼にしたのではないか?と言うのが今までの考え方。そこで、当時の刀工たちは自家製鉄して、銑鉄を作ることを考えた。(中略)ただし、実は今の技術では、炭素4パーセントほどの銑鉄を脱炭するのはいいにしても、それをどうやって日本刀を作るのにいい頃合いの玉鋼の1.5パーセントに下げ止めるか、その方法がわからない。(註1)」
松田氏の考え方は、「今の技術ならどうかを考える。そしてそれができてから、昔の方法を考える。」と言う。つまり同様の製法がわからない今、当時と同様の作り方を追っても闇雲に突っ込んでいくようなものであるから、今できることの中で、限りなく鎌倉刀に近づける。もしくは、そのものを作る。そして、そこから、製法について再考する。もうひとつ彼が発想のヒントを得ているのは、東京芸術大学を受験したときに触れた、「石膏デッサン」である。そのポイントとしては、「黒と白の間に十段階くらいのグラデーションを設定できるか」そして「それをいかにして使い分けるか」と言うことに尽きるそうである。「三次元の白い石膏像を二次元の紙の上に再現するためには、その陰影のグラデーションの違いを頭で考えて書いていきます。その陰影グラデーションを何種類くらい使い分けるかが、うまさの違いになります。(註1)」その考えをきっかけにして、「和鉄の発想を突き詰めて、いかに組織を作り分けるか」「石膏のグラデーションのように、どれほど使い分けられるか」と言う考え方に至り、鎌倉刀を再現するための基本的考え方になったそうである。この点については、もの作りの原点ともいえるのではないかと思う。自らの発想を、現時点での知識と経験の中で創意工夫し、失敗を重ねて目的物を追い求める。正に真白いキャンパスにどのような描くかを想像してデザインすると言う考え方そのものと言える。

3.国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか
古刀、新刀、新々刀、現代刀、軍刀と歴史がある中で、現実的な時を戻すのは不可能である。さらに、世代の若い刀工らの中には、古刀の再現に拘りすぎる嫌いもあると、鎌倉刀再現の動きに異を唱える人も出てきている。しかし、鎌倉時代の名刀以上の刀を、現代に存在させるべく、当時の素材、作刀工程、を自らの探究心において、再現可能な領域まで実現している点が、特に際立っていると思うのである。

4.まとめ
日本には、「守り刀」という伝統がある。かつて、天皇家、公家、武家では、子供が生まれると、健やかな成長を願って、「刀」を贈る習わしである。邪気を払い、「生きる力」を刀から頂戴する。しかし現代の一般的な感覚では、美術品としての存在が大きい。実用性という意味では、あまり一般家庭には馴染みがない。すべからく象徴的であると言わざるを得ない。とは言え、象徴であるが故、その「精神性」と「信仰性」という観点において、我々日本人が今一度「刀」、つまり「日本刀」を見直すべきときに来ているのではないかと考える。
松田氏も提唱しているが、「刃物を危ないもの」と捉える考えにより、「子供には触らせない」「持たせない」と存在を認識させることもしないという風潮が、現代社会の中で流れていると考える。それはつまり、日常的にも「カッター」「はさみ」「包丁」など、使い方を知らずに成長する子供がいるという事実である。「刃物は危ない」ということを認識させることは生きる上でとても必要なことではないか。「精神性」「機能性」「美術性」という日本人の刀文化を認識し、且つ、より強く「生きる力」を身に付け、日本人とてしての誇りを胸に掲げるために、今一度「日本刀」の存在を知る機会を増やしたい。
またこれは個人的な希望だが、松田氏の手による刀が、由緒ある神社などの神事で祀られることを期待したい。

参考文献

註1)松田次泰著『名刀に挑む-日本刀を知れば日本美がわかる-』PHP新書/2017年

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