新選組のふるさと日野宿
新選組のふるさと日野宿
はじめに私の故郷である東京都日野市JR日野駅周辺、都道256号旧甲州街道に沿った地域が『日野宿』である。近年発展し続ける隣の立川駅や八王子駅の方が規模も大きく有名で知っている人も多いかと思う。そんないってしまえば大きな駅に挟まれた、まだあまり世に知られていない土地が日野宿である。現在日野市は『新選組のふるさと』としてクローズアップされているが、『新選組』の原点や『日野宿』の発展と歴史的魅力について考察する。
①日野宿のなりたち
天正十八年(1590年)小田原の北条氏が豊臣秀吉に降伏し、代わって東海地方から転封された徳川家康が江戸に入り、江戸を中心とした放射状に交通の要所を結ぶ交通網の整備を開始した。その要である『五街道』と呼ばれる五本の道の一つ、江戸から八王子、甲府を経由し中山道の交差する信濃諏訪までを結んだのが『甲州道中』である。その甲州道中は18世紀はじめころ迄に整備されたと考えられる。日本橋から上諏訪までの間におよそ四十五宿がおかれた。
『宿場』とは古くは『駅家』『宿駅』と呼ばれ、街道上に一定の間隔でおかれ都と地方都市を結ぶ重要な役割をもっていた。元来は一定間隔で、人や馬を配置して都と地方都市を行き来する使節や物品、文書などが疲弊していない新たな人馬に継かえ迅速に目的地に到達することを目的に置かれていた。これは実は中国の制度に倣って古代律令制下で定められたもので、養老二年(718年)の養老令の「厩牧令諸道置駅条」では原則として街道の30里(約16キロメートル)毎に駅を設置することが定められている。江戸時代の宿場も同じように「旅人を休ませるところ」ではなく、人馬を入れ替え迅速に宿場から宿場へ素早く引き継ぐことが第一の目的。第二に参勤交代の大名などの宿泊所の確保が目的だった。このように留まるのでなく、人と人が行き交うのが本来の宿場の姿であった。
その宿場として日野宿は八王子、府中宿ほどの規模ではないが、多摩川に設けられた渡船場は日野宿が経営を任されていたので、他の宿場にはない重要な役割をもっていた。
日野宿が宿場として定められたのは貞享元年(1684年)に日野を宿駅と認めた「日野宿御伝馬証文」が老中からくだされた頃のことと考えられている。甲州道中の日野宿は村方としては「日野本郷」と呼ばれ幕府代官の直轄支配を受けた大村であった。日野宿の運営は問屋の上佐藤家と下佐藤家が勤め下に四十人の組頭がおり交代で問屋業務を補佐していた。また初めは八王子に集住とされていた八王子千人同心は時代を経て日野宿にも移住するようになり、代々組頭を務めた日野家、新選組六番隊組長井上源三郎を出した井上家がそれにあたる。日野宿は東西九町(1キロメートル)宿尻といわれる角から下宿・中央の中宿・上宿と続き中宿には日野本郷の名主と日野宿問屋を兼務して世襲する前述の二軒の佐藤家の屋敷があった。西側の佐藤隼人家(通称 上佐藤家)が大名、旗本や幕府の役人専用の格式ある旅館の『本陣』、また東側の佐藤彦右衛門家(通称 下佐藤家)が本陣に準じた格式の旅館の『脇本陣』を運営していた。この本陣建築は都内で現存する唯一のものである。また甲州道中で他に残っている小原宿本陣(神奈川県相模湖町)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の2つと比べても建築の規模や内容においては群を抜いている貴重な文化遺産である。
②日野宿と新選組の接点『天然理心流』
嘉永二年(1849年)日野宿の中央の農家から出火した火は折からの北風に煽られて風下にあった問屋佐藤彦五郎宅を襲った。消化作業にあたっていたその時に先年来あった騒動で彦五郎に恨みを残していた男が突如彦五郎に斬りかかった。彦五郎本人は難を逃れたが祖母と組頭一人が殺害されてしまった。消火にあたっていた人々は犯人を捕らえるため消火活動がままならず、宿内十数件を焼く大火となってしまった。この事件を通して彦五郎は宿場の治安や自己警護の必要性を感じ日野宿北原(日野本町四丁目)に住む八王子千人同心の井上松五郎、平介、源三郎兄弟が師事していた、天然理心流宗家三代目近藤周助のもとに入門し剣術の稽古をはじめた。その後彦五郎は庭先などでの稽古では飽き足らず自宅長屋門の一角を改造して道場を作り同士を集めて剣術稽古に励んだ。後の新選組副長土方歳三も親戚筋であった彦五郎宅を訪れる度に稽古を見学し自らも入門することになった。
文久二年(1862年)十四代将軍徳川家茂は朝廷より攘夷を迫られ上洛することになった折、将軍警護のための浪士を募集した。近藤勇、山南敬助ら近藤道場の面々がこの募集に応じることになり、これを聞いた井上源三郎や日野に関係の深い沖田林太郎(沖田総司の義兄)も参加することになった。この浪士組が将軍上洛と共に京都に出向き新選組の誕生へとつながるのである。佐藤彦五郎は新選組の誕生から終焉まで一貫して外部にあってこれを支援し続けた。
③新選組と井上源三郎
八王子千人同心だった兄松五郎と共に将軍上洛の供をして京都に入った井上源三郎は普段は無口で温厚、人柄もよく人望も厚い人だったという。また思い込むと一途なところがあったと伝えられている。池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当し浪士数名を捕縛する活躍をみせ、近藤らに次ぐ報奨金を手にしている。このように仕事に対しても積極的に参加し忠実にこなしている。池田屋事件後も京都の治安維持に努めていた新選組であったが、時代は徐々に背を向けはじめ遂に王政復古の大号令が発せられる。そして戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いで源三郎は、味方は不利で大阪から引き揚げろという命令が出ているにもかかわらず少しも引かずに戦い、ついに敵の銃弾数発をうけ倒れた。同行していた日野宿八王子千人同心の家柄で源三郎の甥、井上泰助は源三郎の首と刀を持って、新選組隊士達と共に大阪へ退却したが、人間の首があれほど重い物とは思ってもみず、戦いに疲れたうえ首と刀を持ってよろよろ歩く姿を見て、同行の隊士が『泰助、その首と刀を持って一行からおくれると敵に捕まってしまうから、残念だが捨てろ』といわれ、仕方なく途中にあった寺の門前に埋葬して大阪に引き揚げたという。佐藤道場で稽古をしていたころから同門であった近藤勇や土方歳三とは固い信頼で結ばれており、常に彼らの傍にあってサポートし対外的な活動から資金援助の打診など多岐にわたり近藤、土方らを補佐していた。昨今大河ドラマやメディアでも新選組というと近藤勇、土方歳三、沖田総司の名が挙がることが多いが、井上源三郎はこういった表舞台の人間達を裏で支え続けたもう一人の陰の最大の功労者であった。
現在井上源三郎の五代目子孫 井上雅雄氏が日野本町で資料館を開いており、こういったエピソードなどを伝えている。このような近代の歴史的秘話を表舞台の話だけでなく現代に伝えているのは非常に珍しく内外共に貴重で特筆すべき点である。井上雅雄氏は「ご先祖様の正しい姿を伝えて、その役割や正しい価値を知ってほしい」と話してくださいました。
④これからの日野宿
さて現在の日野に還ってみると、日野市はこういった歴史的価値のある貴重な文化遺産を保存し近世の日野や多摩地域の歴史を学ぶ場として、また日野に住むものとしてのアイデンティティー活用の場としたいといっている。毎年5月に行われる新選組祭の開催や、ボランティアで新選組隊士の姿で地域のガイド実施している『散策隊』の活動も市内の人のみならず他県から参加にも支えられて継続されている。一方筆者自身も日野宿の端に当たる場所で珈琲屋を営んでおり地域の歴史に参画しながら営業活動を行っている。こういった人の繋がりから生まれた商品として、井上源三郎が六番隊の組長だった『六』に因んで六種類のコーヒーをブレンドした『新選組六番隊ぶれんど』というオリジナルブレンドも好評いただいている。井上館長とも散策隊を通じて商品のお許しやお話を伺う機会もあり、人と人の交わる中で何かがジャンルを超えて生まれてくるのは、古来人が行き交う場であった宿らしいと感じる。
こういった歴史的価値のある日野宿の貴重な近代歴史的文化遺産をもっと活用し、住んでいる人は元より行政も交えて、保存し後世に伝えていかなければならないのである。
参考文献
『新選組のふるさと日野-甲州道中日野宿と新選組-』新選組フェスタin日野実行委員会発行
『日野宿いろは ひののむかしの基礎知識』 日野市発行