日本一の古書店街神保町の景観 ―過去からの連続性は景観に調和の美を宿す―
はじめに
東京都千代田区にある神保町は、日本一の古書店街として知られている。靖国通りに面して同業種が軒を連ねる景観は、ビルの狭間に残る洋風の看板建築や大正・昭和初期のスクラッチタイル装飾の建物を見ることができる。明治以降に形成された比較的新しい街並みであるが、近代以前の伝統的建造物群保存地区と同等の価値があると考える。
評価対象を神保町古書店街とし、景観の構成要素の一つである建築物に注目する。歴史的背景をふまえ、当時の社会情勢と人々の活動から生み出された文化的景観を考察する。
多様な建築形態が同時に現存する点と、人々の営み「古書店の生業」を評価し、比較対象を神保町に次ぐ古書店街「早稲田古書店街」(新宿区)とし述べる。
1ー1.基本データ
所在地:東京都千代田区神田神保町1丁目・2丁目界隈。
靖国通りを駿河台下交差点から西へ向かうと、約130店舗の古書店が立ち並ぶ。
1-2. 歴史的背景
1790年に学問所の祖と言われる昌平坂学問所が設立され、幕末には東京大学の前身である藩書調所が神田錦町に移設されたことから、学問と縁の深い土地柄であったことが伺える。
明治維新後、幕臣が多く住んでいたこのエリアは空き地となってしまったが、江戸期より学問の集積地だったこともあり、その跡地に多くの大学が設立された。
続いて、本が貴重品だった明治時代、教育関係者が多く住んでいたこの土地において、古書の需要が高まり、1875年の高山本店(古書店)が創業したのを皮切りに、1881年には三省堂書店、1913年には岩波書店が創業した。1913年に神田の大火や1923年の関東大震災に見舞われるがたくましく危機を乗り越え、1930年には小学館と集英社の移転もあり、古書店街は繁栄を続けた。その後、日本は太平洋戦争に突入し東京大空襲に見舞われたが、神保町エリアは奇跡的に空襲を免れることが出来た。その為、多くの貴重な資料が現存する。
2-1. 大正・昭和レトロな建物が現存する多様な建築形態
神保町の建築形態は、看板建築(煉瓦・モルタル・タイル・銅板張り)と、煉瓦からタイル移行期に多用されたスクラッチタイル装飾の鉄筋コンクリート造やシンプルモダン建築などの建築様式の重層化が見られる。
現代建築は、自然発生的な作品すなわち建築家不在の建築の魅力、時代の経過とともに様々な人の手によってつくられた類似のユニットが並んでいるときに見られる、真似のできない調和の美があると心理学者のルドルフ・アルンハイム【註1】は説く。いわゆる「建築家」ではなく、大工や棟梁、施主の意向などを交えて庶民が生み出した「ブリコラージュ」【註2】を実現している。
また、建築家のカール・ボーヴィルは、伝統的なその土地固有の建築は、複雑なリズムをもつ構造をみせており、それは秩序と意外性のフラクタル的な混合物であると説いている。【註3】そこで、多くの建物に設置されている庇テントが景観にもたらす「ゆらぎ」を調査し、限定された範囲でのゆらぎを確認できた。【資料3】
大火や震災や空襲等の災禍から一斉に復興すると、景観に断絶が生じるが、明治から古書店は一斉に建て直しをするのではなく、数軒が(各々が)建て直し、それ以外の建物は以前の外観を維持しているため建築様式が重層化し、景観に連続性が感じられ、調和の美が保たれていると言える。【資料4】
明治時代、靖国通りの拡張工事と1904年都電開通や、1913年大火復興後の古書店の移転が影響して、メインストリートは「すずらん通り」から「靖国通り」へ移る。【資料5】
1920年「準防火」方策の市街地建築物法が公布され、1923年関東大震災復興後は看板建築が出現した。戦前の都市計画は「防空」に重点が置かれ、耐火構造化が進み防空建築規制が強化された。技術進歩や建築材料の変化により鉄筋コンクリート造へと移行した。
書物を火災から守るために、既存の木造建築から準防火の看板建築へ、そして鉄筋コンクリート造へ移行した古書店街特有の防火と耐火の観点から形成された特徴をもつ建築群である。【註4】【資料6】
2ー2.人間の知的探求心に供する生業の評価
神保町古書店は、電子書籍やネット通販の台頭により苦戦を強いられる業界であるが、専門化による互いの競争回避と、東京都古書籍商業協同組合【註5】や自治会による組合の強固なネットワークの相互扶助により、書籍の収集と維持、進展を可能にしている。入手困難で貴重な学術的資料や絶版本に出会えるのも、特筆すべきことである。
「古本祭り」は、県外店舗の出店を設け新陳代謝を促し、近隣大学生と協働活動を継続し、日本一の古書店街として全国から認知され、多くの来場者数を誇る。
戦後の高度経済成長期やバブル期を経て今日まで、個を持ち続けた古書店街の店主たちは誇りをもって従事し個人の土地は守られ、小規模古書店の集積は維持できた。
ここで、可視化出来ない「紙の本」の価値について触れる。社会学者ブルデューは、多くの社会では、本には独特の社会的・文化的価値(象徴資本)が付与されていると説く。【註6】紙の本は、ただ読まれるものではなく、文化を知るバロメーターであり、社会を映す鏡なのである。
本を読む行為は、紙の匂いや本の厚みや手触りなどから、感覚を通しての情報も脳に刻まれ、感情・思考を刺激する。脳化社会の現代、その対極にある感覚的なものの一つである書籍を扱う古書店は貴重な存在であり、その営みは可視化できない事象がデザインされていると言える。
3.早稲田古書店街との比較
所在地:東京都新宿区西早稲田1~3丁目界隈、西早稲田交差点から早稲田通りを西へ向かい馬場口交差点までの区間。
江戸時代から田畑だった地に、1882年早稲田大学の前身が創立し、1920年大学認可され徐々に学生街として賑わい、1969年より古書店が増え始めた。【註7 】
早稲田古書店街の建築形態は、シンプルな看板建築と、タイル・シンプルモダン装飾の鉄筋コンクリート造が立ち並ぶ。洋風看板建築やスクラッチタイル外壁は見受けられないのが特徴で、戦後形成されたことが影響している。
よって、神保町古書店街は、明治以降のバリエーション豊かな独自の構成・装飾と戦後モダニズム隆盛時代のシンプルな装飾の建築が同時に存在する多様な建築形態であることが特筆される。
4.今後の展望
何世紀にも渡り継続してきた本の基盤は急速に転換し、書籍業界は、断絶と変化が訪れると予測される。また、建物も老朽化する。
成長期を終え成熟期にある日本は、モニュメンタルな建築ではなく、その土地に会った風景をつくるヴァナキュラーな建築や集落が受け入れられ、その都市の歴史や伝統の価値が注目されるようになった。また、「文化的景観」の重要性とその保護の必要性も高まった。既存建物の再利用にヒントを得て、従来の看板建築【註8】の内部を耐震補強した新しい看板建築の事例も見受けられる。スクラップアンドビルドの新築主義から脱却し、より豊かな建築との付き合い方を模索できる。
社会情勢からは、限りない成長を目指す資本主義と持続可能性に主軸を置くポスト資本主義のせめぎ合いが、今後の建築形態に反映され景観に影響を与えると推測する。
5.まとめ
このように、建物は老朽化し年月を経て新しく置き換わり街並みは激変していくが、丁寧に観察していくと、明治以降形成された街並みにも、特筆すべき歴史的文脈と文化的景観の価値を見出せた。
神保町は、古くから学問と縁の深い素地があった。近世から昭和に至る繁栄の基盤をもち、幾多の災禍や戦災などによる人々の書籍の放出と需要の高まりが繰り返され、それを商いとした当該固有の生業により形成された。昭和戦後は、高度経済成長期の華やかな時代であるとともに、近代への疑問がほころびとなって生じた時代でもあった。そうして形成された建築形態は社会関係を媒介する物理的空間の構築過程として、神保町の地域単位までの空間に反映されている。
火災や災禍から復興し、戦禍による書籍の焼失が奇跡的に免れたことと、過去から現在まで断絶することなく連続性を保ち続けた人々の経済的、文化的活動がデザインされており、その結果、小規模古書店が集積する場所性が生まれた。焼失から書物を守るために木造ではなく、防火・耐火にすぐれた鉄筋コンクリート構造建築へ移行した地表空間の特性は建築様式に重層化を生んだ。そして、その景観は調和とゆらぎを内包し、極めて複雑なその土地特有の文化的景観を作り出している。
-
[資料1:出典◆国土地理院撮影の空中写真:https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1875795 (2019/08/08撮影)
東京都都市整備局(IX-LD18-1 29-12 北の丸公園)東京都地形図1:2500(平成25年7月現地調査)
を加工して筆者作成2023年6月30日] - [資料2:神保町靖国通り古書店街写真 2023年6月30日筆者撮影]
- [資料3:出典・日本建築学会編『建築・都市計画のための空間学事典』、p110を参考に筆者が庇テントの高さを実測して作成、2023年6月30日]
-
[資料4:出典・写真①文房堂HP写真朝日グラフ所蔵昭和51年11月15日号よりhttp://www.bumpodo.co.jp/company/history.html、
②岩波写真文庫68東京案内p24、③筆者撮影2023年6月30日、文献を参考にイメージを筆者作成2023年6月30日] - [資料5:出典・『神田神保町書肆街考』p350、能勢仁著『明治・大正・昭和の出版が歩んだ道』p112、を使用して筆者作成2023年6月30日]
- [資料6:出典・佐藤洋一著『地図物語 あの日の神田・神保町』、火災保険特殊地図から抜粋し筆者作成2023年6月30日]
- [資料7:出典・東京都都市整備局(IX-LD18-1 29-12 北の丸公園)東京都地形図1:2500(平成25年7月現地調査)をもとに神保町1丁目・2丁目界隈の建物外観(現在)を筆者が目視で確認・分類し、加工して作成、2023年6月30日]
- [資料8:出典・東京都都市整備局(IX-LD07-3 28-10 高田馬場)東京都地形図1:2500(平成25年7月現地所調査)をもとに早稲田通り(西早稲田交差点から馬場口交差点までの区間)の建物外観(現在)を筆者が目視で確認・分類し、加工して作成、2023年6月30日]
参考文献
【参考文献・註】
【註1】ルドルフ・アルンハイム『建築形態のダイナミクス 下』乾正雄訳、鹿島出版会、1980年、p48-52。
【註2】フランスの民俗学者・人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(1908~2009)が打ち出した言葉。ブリコラージュ的才能をもった人々の手になる構築物は記号であり、概念とは違い「ゆらぎ」や「ずれ」が含まれるとしている。
【註3】カール・ボーヴィル『建築とデザインのフラクタル幾何学』三井直樹訳他、鹿島出版会、1997年、p170。
【註4】佐藤洋一著『地図物語 あの日の神田・神保町』、火災保険特殊地図、株)ぶよう堂、2008年。
【註5】佐古田亮介編『東京古書組合百年史』、東京都古書籍商業協同組合、2021年、p64ー66。
【註6】ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンⅡ』石井洋二郎訳、藤原書店、1990年、p833ー858、第三部:階級の趣味と生活様式。
【註7】五十嵐智編他『五十嵐日記 古書店の原風景』、筑摩書院、2014年、p310。
【註8】宮下潤也著『看板建築図鑑』、大福書林、2019年、看板建築の定義はp9に記載されたものとする。
【参考文献・書籍】
川添善行著『空間にこめられた意志をたどる』芸術教養シリーズ19 私たちのデザイン3、京都芸術大学 東北芸術工科大学出版局藝術学舎、2014年。
田村明著『まちづくりと景観』、岩波書店、2005年。
田村明著『美しい都市景観をつくるアーバンデザイン』朝日選書573、朝日新聞社、1997年。
藤森照信『日本の近代建築(下)大正・昭和篇』、岩波書店、1993年。
芦原義信著『街並みの美学』、岩波現代文庫、2001年。
松原隆一郎著『失われた景観』、PHP研究所、2002年。
野口徹著『日本近世の都市と建築』、法政大学出版局、1992年。
渡辺俊一『「都市計画」の誕生』、柏書房(株)、1993年。
吉見俊也著『都市のドラマトゥルギー』、河出書房新社、2008年。
ジェイン ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』山形浩生訳、鹿島出版会、2010年。
日本建築学会編『建築・都市計画のための空間学事典』、井上書院、1996年。
太田博太郎著『日本建築史序説』、株)彰国社、1947年。
鈴木博之監修他『新建築 建築20世紀PART2』、株)新建築社、1991年。
三井秀樹著『美の構成学』、中央公論新社、1996年。
高安秀樹著『フラクタル』、朝倉書店、1986年。
武者利光編他『ゆらぎの科学2』、森北出版(株)、1992年。
ロバート・E・パーク他『都市 人間生態学とコミュニティ論』大道安次郎訳他、鹿島研究所出版会、1972年。
イーフー・トゥアン『トポフィリア』小野有五訳、ちくま学芸文庫、2008年。
アーサー・コーン『都市形成の歴史』星野芳久訳、鹿島出版会、1968年。
陣内秀信編著他『建築史への挑戦』、鹿島出版会、2019年。
株)地理情報開発編『昭和の大学町編』、光村推古書院、2014年。
泉麻人編他『新宿文化絵図』、新宿区地域文化部文化国際課、2007年。
能勢仁著他『明治・大正・昭和の出版が歩んだ道』、出版メディアパル、2022年。
能勢仁著他『平成の出版が歩んだ道』、出版メディアパル、2020年。
五十嵐日記刊行会・五十嵐智編他『五十嵐日記 古書店の原風景』、筑摩書院、2014年。
養老孟司著『遺言』、株)新潮社、2017年。
寺田寅彦著『天災と日本人』、角川学芸出版、2011年。
石田頼房著『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、1987年。
鹿島茂著『神田神保町書肆街考』、筑摩書房、2017年。
ルドルフ・アルンハイム『視覚的思考 創造心理学の世界』関計夫訳、美術出版社、1974年。
クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976年。
建築思潮研究所編『45・保存・再生ーまちづくりの核を仕組む創造行為』、建築資料研究社、1994年、p196ー199。
Michel Basker編他『オックスフォード 出版の事典』植村八潮訳他、丸善出版(株)、2023年、p73。
神田消防署監修『神田の火消』、神田消防署新庁舎特別事業実行委員会、2004年。
ジャン=イヴ・モリエ『ブックセラーの歴史』松永りえ訳、株)原書房、2022年。
若林幹夫編他『社会が現れるとき』、東京大学出版会、2018年。
川本三郎セレクション『岩波写真文庫68東京案内』、岩波文庫、1950年、p24。
【参考文献・論文】
・恒松良純 船越徹 積田洋、「街並みの「ゆらぎ」の物理量分析」、『日本建築学会計画系論文集』、第542号、p137-144、2001年。
・山田等、岡崎篤行、樋口忠彦、「まちなみ景観と建築物の調和に関する研究ー金沢都市美文化賞建築物を対象としてー」、『2001年度第36回日本都市計画学会学術研究論文集』、34、p199-204、2001年。
・山崎賢悟、津々見崇、「28.「本の街」神田神保町にみる成熟した専門店街の変容」、『社)日本都市計画学会 都市計画論文集』、No.42-3、p163‐168、 2007年。
【Web閲覧】
・http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/3931/ 大川友成 「エルププロムナードの歩行空間におけるデザインの有用性について」、『京都芸術大学通信教育課程、芸術教養学科WEB卒業研究展』、(2023年1月2日閲覧)。
・https://www.engineer-architect.jp/specialissue/cate/場所の履歴と向き合う空間デザイン/(
2022年9月11日閲覧)。
・https://www.zennama.or.jp/building/、全国生コンクリート工業組合連合会 全国生コンクリート協同組合連合会、(2023年1月27日閲覧)。
・http://www.bumpodo.co.jp/company/history.html、文房堂HP(2023年7月1日閲覧)。