長崎アトリエ村「さくらが丘パルテノン」の商品開発の観点から見た評価

高橋 菜美子

 1930~40年代に旧長崎町(現在の要町、長崎、千早周辺)に、「長崎アトリエ村」(現在は芸術家たちが集った池袋の街を含め「池袋モンパルナス」と呼ばれることが多い。)と呼ばれた芸術家コミュニティが存在した。小熊秀雄(1901-1940)、寺田政明(1912-1989)、松本俊介(1912-1948)など、近代日本芸術化を代表する芸術家が数多く過ごしており、枚挙に暇がない。
 すずめが丘、つつじが丘、そして最大規模のさくらが丘パルテノンと、(ほかにも小規模のアトリエ群が複数存在した。)100軒を超えるアトリエ付き貸家住宅が建設された。
 多くの芸術家を育くんだアトリエ村ではあるが、芸術家側ではなく、家主側、特にさくらが丘パルテノンに焦点をあて論述する。アトリエ付き貸家といった、特殊な不動産賃貸経営は、どのように生まれ、拡大していったのかを過去の資料、談話を中心に調査、考察する。
 そこには、「顧客目線」の商品開発、デザイン思考の萌芽が見られた。
1. 基礎データと歴史的背景
1-1芸術学校開校と鉄道発展に伴う都市化
 1889年に東京美術学校が東京上野で開校、1904年太平洋画会、太平洋画会研究所が谷中に開設、1909年に川端画学校が小石川に設立されるなど、明治から大正にかけて、上野、谷中、田端周辺には、芸術家が集まり、居住していた。(1)
 1903年、日本鉄道豊島線、池袋―田端間(後の山手線)が開通、1915年に武蔵野鉄道、池袋―飯能間が開通し、武蔵野の田園地帯は宅地化が進んだ。関東大震災、第一次世界大戦を経て東京の都市化は加速し、大規模な住宅地造成も進み、田園調布や、目白文化村など、高級住宅街も誕生した。(資料1)
1-2アトリエ村の変遷 さくらが丘パルテノンの誕生
 1900年代初頭より、池袋、目白近辺では、学習院、豊島師範学校や立教大学など、教育機関が開設、移転されるなど、文化芸術を育む土壌がそなわっていた。
 地権者の奈良慶が孫の次雄のためにアトリエを建設、その友人のためにもアトリエ付き貸家を建設したのがアトリエ村のはじめとされる。普通の貸家より、利回りが良いとされ、(柱や畳が少なくてすむ)周辺でもアトリエ付き貸家を業として始める者が出現し「すずめが丘アトリエ村」と呼ばれるようになった。
 1936年より、初見六蔵、こう夫妻は、「さくらが丘パルテノン」を建設、運営した。区画は第一から第三まであり、順次増設していき約70軒の規模まで拡大した。
 第二次世界大戦中、出征、疎開などで、芸術家たちの多くはこの地を離れた。戦後も、アトリエ村に住み続ける者もいたが、資産税など(2)の影響で、地主が土地を手放し、アトリエ村は終焉を迎える。地主から、土地を買った芸術家たちは、そのままこの地に住み、芸術家の多く住む街となった。
2. 商品開発の観点から見たさくらが丘パルテノンの評価
 初見は、谷端川(現在は暗渠の下水道幹線)沿いの利用価値の低い低湿地帯を安く買い、(図表1-p.2)アトリエ付き貸家の経営を始めた。建設にあたっては、「奈良の借地でアトリエ付き貸家経営をしている親類の宗宮文治の事業を見て真似をした」「交流のある牧師から、アドバイスを受けた」「ある絵描が知恵を貸した」(資料2)などの証言があり、多方面から顧客ニーズを探っていることがうかがえる。入居者は、仕送りで家賃の支払いが確実な東京美術学校生徒(以降美校生)を主とし、差配(管理人)を置くなど事業の精度を上げた。まずは数軒建て、学校内に募集広告を掲示した。これはプロトタイプの提示と言える。美校生がポスターを作成、退去時には、入居者を紹介するなど、顧客と家主の連携、協業も見られた。家賃も安く、高い天井、北側の窓、作品搬入のための大きな扉などアトリエとしての機能を備えていた。浸水や、雨漏りがする安普請な造りで、周囲から「養鶏場」と揶揄されながらも、若い芸術家たちが入居を切望する人気物件となった。
 アトリエ村形成初期段階を見ても、奈良の孫やその友人へのアトリエ建設は顧客ニーズの発見、周辺の複数のアトリエ付き貸家建設はプロトタイプの提示、その完成形がさくらが丘パルテノンと言える。意識的とは言えないが、2回転の顧客目線のデザイン思考による循環型(以降循環型)の工程がなされていることで、商品の精度が高まっている。(図表3-p.5.6)
3-1 目白文化村の基礎データ
 新宿区目白、落合周辺は、明治時代後期(1900年頃)は、近衛家など、華族や資産家の別荘地であった。学習院や早稲田大学からも近く、文化人や芸術家の多く住む地域であった。
 目白文化村は、不動産会社の箱根土地(コクドの前身)によって、1922年から1925年に高級住宅地として、第一文化村から第四文化村まで(第四については第二の売れ残りの再分譲)分譲された。住宅開発の特徴として、有爵者からの払い下げ分譲、ガス水道下水道の完備、街路の擁壁に大谷石が使われるなど、都市的な統一ある景観が意識され、高級住宅地としてのブランドづくりを高めることを重視した。
3-2さくらが丘パルテノンと目白文化村との比較(以降パルテノン、文化村)
 教育機関が比較的近くにあり、教育関係者、芸術家、文化人が集まったという点は共通している。
 立地は、利用価値の低い低湿地帯と高台の高級住宅地と、土地の価値に雲泥の差があった。そのため、住んでいる人間の社会的な地位も大きく異なった。パルテノンの住人は仕送りで家賃を支払える美校生や収入の少ない若い芸術家であった。文化村の宅地は、会社役員や高級官僚、政治家など経済的、社会的に上位の者が購入した。
 パルテノンは、アトリエの空間デザイン、価格設定など顧客目線での商品開発がなされていた。個人が経営していくうえで、リスクを抑え、確実に入居者を確保するためにも顧客ニーズは重要であった。
 文化村は、大手ディベロッパーの土地開発で都市化による宅地不足といった需要に対した時代と社会の要請があった。顧客ニーズもほぼ一致しており、「個」への配慮をしなくても成立した企画構想に基づいた直線的な商品開発(以降直線型)と言える。(図表3-p.5)この方法でも、商品の問題点は次の開発の際に生かすことは可能である。しかし、需要や資金繰りを読み違えると、大きな損失を被ることもある。
 本稿の評価点は、初見は大きな資本によらず、循環型の商品開発、顧客との協業により、70軒余りのアトリエ群「さくらが丘パルテノン」を作り上げたことである。
 その結果、この場所に多くの若い芸術家や様々な人が集まり、突出した才能や支援者によらず、対等な関係の議論を通じ、新たな芸術や価値観を生み出した。(図表3-p.7)
4. 今後の展望
 豊島区は、地域で引き継がれてきた価値観として、『「池袋モンパルナス」に代表される活発な芸術活動を生み出し、多くの創造的な人材を育んでいく風土』を掲げている。(資料3)区は、地域の文化財として池袋モンパルナスについてホームページで紹介し、豊島区立郷土資料館では、長崎アトリエ村の模型を常設展示している。また、アートイベント「池袋モンパルナス回遊美術館」は毎年開催され、芸術家コミュニティや個々の芸術家への評価は一定程度得られている。
 池袋は、区立の芸術文化劇場が完成し、水戸岡鋭治(1947-)のデザインしたイケバスが走る、芸術文化都市(3)にふさわしい街になった。一方で、すずめが丘の跡地周辺には、個人の取組みから始まった子ども食堂があり、谷端川沿いには、空き店舗をクラウドファンディングで資金調達し、リノベーションした、クラフトビール工房がある。このような個人や地域に目を向けた取組みは、着実に広がっている。
5.まとめ
 今回、家主側に焦点を当てたことで、パルテノン形成のにおいて循環型の商品開発や、顧客との協業といった側面が浮き彫りになった。このような手法は、規模も小さく始められ、個人や地域の取組みとして非常に有効である。その反面、本事例のように、顧客が特異な性質を持つ場合、商品の広がりは、限定的である。コミュニティ形成についても、内部では開花したが、周辺住民とのかかわりは薄く、特異な集団とされていた。商品開発の際は、汎用性、周辺との調和、環境、社会に配慮することも必要である。
 顧客目線の循環型の商品開発の多くは社会問題を内包していおり、社会インフラ整備など直線型の商品開発に積極的に働きかけ補完しあうことにより、特色のある地域のデザインが形成されるのである。

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  • 1_2_%e9%95%b7%e5%b4%8e%e3%82%a2%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%a8%e6%9d%91%e5%88%86%e5%b8%83%e5%9b%b3%e3%81%bb%e3%81%8b_page-0002 図表1 長崎アトリエ村分布図ほか
  • 1_3_%e9%95%b7%e5%b4%8e%e3%82%a2%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%a8%e6%9d%91%e5%88%86%e5%b8%83%e5%9b%b3%e3%81%bb%e3%81%8b_page-0003 図表1 長崎アトリエ村分布図ほか
  • 2_%e5%b9%b4%e8%ad%9c_page-0001 図表2 年譜
  • 3_1_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0001 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_2_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0002 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_3_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0003 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_4_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0004 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_5_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0005 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_6_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0006 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_7_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0007 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要
  • 3_8_%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%8c%e4%b8%98%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%86%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%81%a8%e7%9b%ae%e7%99%bd%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9d%91%e3%81%ae%e6%af%94%e8%bc%83_page-0008 図表3 さくらが丘パルテノンと目白文化村の比較概要

参考文献

参考文献
資料1 豊島区立郷土資料館編『豊島区立郷土資料館常設展図録』豊島区教育委員会、1984年
資料2 豊島区立郷土資料館編『豊島区立郷土資料館調査報告書第三集 長崎アトリエ村史料』豊島区教育委員会、1987年
資料3 豊島区都市整備部都市計画課編『豊島区都市づくりビジョン』豊島区都市整備部都市計画課 2015年
資料4 尾﨑眞人編『池袋モンパルナスそぞろ歩き 培風寮/花岡謙二と靉光』オクターブ、2013年
資料5 佐藤和男、大垣晏己、高頭秀雄「戦後住宅税制史概説」『土地総合研究2009年夏号』土地総合研究所、2009年

豊島区史編纂委員会編『豊島区史 通史編二』東京都豊島区、1983年
週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社、1988年
佐田勝『異端の画家たち』造形社、1969年
宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社、1990年
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溝口禎三『文化によるまちづくりで財政赤字が消えた』めるくまーる、2011年
豊島区立郷土資料館編『えきぶくろ~池袋駅の誕生と街の形成~』豊島区教育委員会、2004年
アトリエ村資料室の会編『池袋・椎名町・目白アトリエ村散策マップ』豊島区文化商工部文化デザイン課、2010年
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アトリエ村資料室『アトリエ村資料室のあゆみ2004~2011』豊島区 アトリエ村資料室の会、2013年
『池袋モンパルナス アトリエ村の若い芸術家たち』新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館実行委員会、2015年
池袋モンパルナスの会編『池袋モンパルナスそぞろ歩き 池袋モンパルナスの作家たち〈洋画篇〉』池袋モンパルナスの会、2004年
池袋モンパルナスの会編『池袋モンパルナスそぞろ歩き 〈池袋モンパルナス〉の童画家たち』明石書店、2006年
赤澤康宏編『池袋モンパルナスそぞろ歩き 池袋モンパルナスの作家たち〈彫刻篇〉』オクターブ、2007年
豊島区教育委員会社会教育課編『豊島区収蔵美術作品展』豊島区教育委員会社会教育課、1990年
土方明司、新明英仁、江尻潔編『-池袋モンパルナス―小熊秀雄と画家たちの青春展』練馬区立美術館、北海道立旭川美術館、足利市立美術館、読売新聞東京本社、美術館連絡協議会、2004年
弘中智子、高木佳子編『池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!』板橋区立美術館、美術館連絡協議会、2011年
小林未央子、清水智世編『豊島区所蔵美術作品目録1 2008-2015』豊島区、2017年
板橋区立美術館、共同通信社文化事業室編『東京⇔沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』共同通信社、2018年
野田正穂、中島明子編『目白文化村』日本経済評論社、1991年
新宿区地域文化部文化観光課『落合の追憶 落合に生きた文化人』第6版 新宿区地域文化部文化観光課、2016年
近藤富枝『田端文士村』中央公論新社、1983年
『田端文士村記念館田端文士芸術家村しおり』北区文化振興財団田端文士村記念館
早川 克美『私たちのデザイン1 デザインへのまなざし』藝術学舎、2014年
エリック・リース『リーン・スタートアップ』井口耕二訳、日経BP社、2012年

ウェブサイト
豊島区公式HP 池袋モンパルナスとよばれたまち 2020年12月24日閲覧
https://www.city.toshima.lg.jp/artculture/brand/art/index.html
豊島区公式HP 谷端川北緑道 2020年12月28日閲覧
http://www.city.toshima.lg.jp/340/shisetsu/koen/042.html
経営を学ぶ 4世代のイノベーションモデル 2021年1月14日閲覧
https://keiei-manabu.com/strategy/4generations-innovationmodel.html
イノベーションモデル 2021年1月14日閲覧
http://www.jaist.ac.jp/coe/library/jssprm_p/2000/pdf/2000-2A11.pdf
要町あさやけ子ども食堂公式HP 2021年1月19日閲覧
https://www.asayake-kodomoshokudo.com/
散歩の達人HP 2021年1月24日閲覧
https://san-tatsu.jp/articles/28204/
ビアクルーズHP 2021年1月19日閲覧
http://beer-cruise.net/beer/190531.html
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https://travel.willer.co.jp/ikebus/
東京建物 Brillia HALL(豊島区立芸術文化劇場) 2021年1月23日閲覧
https://toshima-theatre.jp/about/
豊島区公式HP 豊島区国際アート・カルチャー都市構想 2021年1月23日閲覧
https://www.city.toshima.lg.jp/artculture/toha/kousou.html

訪問・参加
豊島区郷土資料館 2021年1月5日訪問
新宿区立中村彜アトリエ記念館 2020年10月4日訪問
新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館 2020年10月4日訪問
田端文士村記念館 2020年10月18日訪問
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム 2020年12月24日訪問
豊島区文化カレッジ 美術でたどる旧長崎町の面影 ボランティアガイドによるまち歩き
2019年11月17、24日参加


(1)上野、谷中、田端周辺
1889年、上野に東京美術学校が開校されると、その周辺に芸術家たちが住むようになる。小杉放庵(1881-1964)、板谷波山(1872-1963)など芸術家達が住むようになり芸術家村、絵描き村と言われるようになる。1914年、芥川龍之介(1892-1927)が転入、その後、室生犀星(1889-1962)も住むようになり、二人を中心に文士が集うコミュニティが形成され文士村と言われるようになった。北区田端にある田端文士村記念館で、当時の資料などを閲覧することができる。
(2)資産税など
 財産税は、1946年に創設、国民の全財産に対し財産価額に応じ1回限り課税するもので、税率25%から最高90%とする累進税率を採用した。
 戦後の混乱期、非戦災者特別税法、不動産税(固定資産税)などが創設され、不動産保有者への税負担が増加した。(資料5)
(3)芸術文化都市
 豊島区は文化芸術によるまちづくりを推進しており、2009年に文化庁より「文化芸術創造都市」として表彰された。2015年には「国際アート・カルチャー都市構想」を策定した。2020年内閣府より、「SDGs未来都市」および「自治体SDGsモデル事業」に選定され、文化芸術を通して誰もが主役になれるまちの実現を目指している。
(4)培風寮
 1920年、歌人花岡謙二(1887-1968)が池袋にある「ミドリヤ書店」を池袋に開業した。まだ無名だった前田寛治(1896-1930)などの個展も催している。(資料4)芸術家、文化人との交流は、その後の培風寮経営へとつながっていく。関東大震災後、書店経営が窮迫、書店を売却し1924年池袋近隣の長崎村の高台に下宿屋、「培風寮」を開業した。当初、下宿人として立教大学に通う地方学生を想定したが、芸術家の卵や文学青年のたまり場となった。培風寮の住人として最も有名なのは、靉光(1907-1946)である。

年月と地域
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