出羽三山と羽黒山伏について

佐藤 悦子

1.はじめに
久しぶりに地元に帰省したときに登った羽黒山で見かけた山伏の方々と、白装束を着て一緒に登っていた方々を見かけ、羽黒山が修行の場であったことを思い出し、羽黒山を含む出羽三山と山伏について考察した。

2.出羽三山と山伏の基本情報
【出羽三山】
羽黒山、月山、湯殿山の三山からなり、羽黒山が現世、月山が前世、湯殿山が来世を表すとされる。また羽黒派古修験道では死と再生の意味を持つ「擬似再生」をはたす、古来よりある日本三霊場の一つであり、開祖は第32代崇峻天皇の子である蜂子皇子と伝わる。父である崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、皇子の身も危険となったことで従兄弟の聖徳太子の勧めで出家し禁中を脱出、丹後の由良の浜より日本海を北上し鶴岡市由良の浜に着いた。そこでは8人の乙女の招きに誘われ上陸、観音の霊場羽黒山を目指すが、途中道に迷った皇子の前に三本足の八咫烏が現れ羽黒山へと導いた。そこで修行を行った後羽黒山を開き、続いて月山、最後に湯殿山を開いたとされる。(※1)
【山伏】
山伏とは山岳に登拝修行し、そこで体を張って会得した験力を使い、加持祈祷の呪法を行う行者である。服装は神聖視された山に登るためには清い身体でなければならない厳しい掟があり、浄衣として白衣と兜巾をつけ、脛衣に藁履をつけた姿であった。室町時代には山間や山麓に定着した山伏は、各地域の権力に依存し、檀家から十分な収益を上げるうようになった。檀家を訪れるには峰入り直後が効果を示すとし、檀那の代行者として峰入りするという考え方になっていった。そのため里に檀家を広く持つようになり、札を配ったり護摩を焚き真言の加持祈祷を行うようになる。また煩悩を焼き尽くし、仏陀の境地に入る真言を唱えつつ山で焚いた後の護摩の灰を檀那に配ることも喜ばれた。これは自ら峰入りせずとも、山伏を媒介し山の神霊に加護され、救済されるという信仰をもとにしたものである。後世になると、修験行者がもたらす護摩の灰がありがたがられ、支払われる礼金も破格となった。そのため山伏の衣装や持ち物に至るまで質素なものから華美を好むようになり、それは檀家巡りに重きを置くようになった証でもあった。(※2)

3.山伏のグループ化
教派的な組織化は明確ではないが、室町時代初期から戦国時代にかけ、グループが拡大していった。それにより山伏同士がさらにグループを結成し、大きな仲間を作るようになり、本山派と当山派の二大派閥が出来た。(※2)

①本山派・・・天台系の密教に依存する山伏たち
【成り立ち】
院政時代、熊野詣が盛んになるとこの山伏が増加し、組織化した。特に白河院の熊野詣の際に天台宗の中でも寺門派の僧が先達となって以来、熊野と寺門、すなわち園城寺(三井寺)の関係が密接となる。園城寺に属する僧徒は、顕教、密教、修験の三つを兼ねたことから、他の東大寺や延暦寺所属の者より優れたと言われた。
一方京都には同時代に、三井寺の末寺として聖護院が開かれていた。熊野方面に所領を持った静慧親王が聖護院に入ったことで、熊野との関係が出来た。熊野へ修験に行く山伏が聖護院に寄宿したり、聖護院に属する高僧たちも必ず峰入り修行を行うようになった。室町時代に入ると聖護院は、台密に依存しながら修験する山伏達の象徴となり、本山派が組織作られた。「本山」とは熊野三山を指す言葉である。(※2)
【特徴】
・開祖:役行者を修験道の開祖とする
・修行道:熊野を本山とするため熊野詣の順路に従い動き、大峰には南から北へ入るコース。
・髪型:有髪を認めた(※2)

②当山派・・・醍醐寺の三宝院を本拠地とした真言密教系の山伏たち
【成り立ち】
平安時代の仏教界において醍醐寺は由緒正しい権威のある大寺院であり、その中の三宝院も聖護院より遥かに有力であった。醍醐寺には金峰山に登るための忌籠りをする験者や、正統派仏教界の大寺院だったため多くの学僧が本拠地としていたが、その学僧たちと山伏たちは常に折り合いが悪く、醍醐寺の片隅に山伏が集まっていた状況であった。三宝院は武家との関係が密であり、北朝の持明院の院宣を方々に伝えたり、武家のために加持祈祷を行なっていたため、山伏の実力が高い時期でも、五分五分の勢力以上には伸びなかった。しかし、三宝院を拠点としていた山伏は必ず吉野から大峰へと入るコースを辿るため、吉野との連携が密であったと思われる。(※2)
【特徴】
・開祖:理源大師聖宝を開祖とする
・修行道:吉野から金峰、大峰に入る逆峰のコースをとる。
・髪型:仏教徒らしく、剃髪が多い(※2)

4.羽黒山伏
仏教の系統では天台系であるため、本山派の管下となるべきであったが、出羽三山という名のもとに教線を広げ、東北地方一帯のみならず、房総半島に至るまで檀家である霞を広げた。
羽黒派が独自の組織と明確に認められたのは、慶長19年奥州の相馬領で羽黒派の日光院と本山派の上之坊との間に争いが起こり、徳川家康が羽黒は独立のものと承認したことである。(※2)
【羽黒の修験者】
羽黒では三つに大別できる。
①清僧修験者(山内修験者)
羽黒山神域から生涯一歩も出ず、妻帯もせず、肉魚を絶ち、精進料理のみで修行を続けるもの。一生独身のため、法燈は弟子に受け継がれる。羽黒山中には坊が33ヶ所、安政5年の覚書には5〜600名の僧の名があったが、明治維新の神仏分離、修験道宗廃止で全て壊された。
②山麓修験者(妻帯修験者)
羽黒山山麓に坊を連ね、妻帯し一家を構え修験道に精進する山伏である。山麓の手向地区には、法燈を親から子へ世襲で受け継ぎ、血脈を保つ坊が今でも35軒ある。繁栄時は300近い坊と、約4000人の山麓修験者がいた。この山伏は東北地方では霞場、関東地方では旦那場と呼ぶ信者を回り、お札を配り祈祷料をもらった。現在でも山伏と宿坊の専業は約20軒であり、他はサラリーマンとの兼業である。
③末派修験者
秋の峰入りなど一定の修行を羽黒山で積み、霞状を羽黒山からもらい地域に住み、信者のために祈祷、呪術、悪霊払いなどを行い生活をした。(※3)

5.羽黒派古修験道
出羽三山の修験道では「春の峰」「夏の峰」「秋の峰」「冬の峰」という四つの季節、四つの場所での修行をひとつのサイクルとし修験道が構築された。入峰は山中を意味し、修行は胎内の行であるとされ、死霊が父の精を受けて母の胎内に宿り、その生命が修行を通して神の霊威をいただき成長し、生まれ変わるという死と再生の儀礼が行われる。
「冬の峰」は出羽三山の修験道と庄内という地域を深く結びつけている。庄内は庄内平野を擁する稲作地域であるため、稲もみや大小豆などの五穀に対し、祈りを捧げるのである。(※4)
【冬の峰の工程】
①9月24日より門前町手向地区より「位上」と「先途」と称する「松聖(まつひじり)」と呼ばれる山伏が選ばれ、朝夕の禊を行い、興屋聖(こうやひじり)と呼ばれる小さな祠に稲もみや大小豆などの五穀を入れ、稲霊の憑依を祈り、五穀豊穣を祈願する。
②「稲魂」を稲につけるため山上参籠の行を行う。
③12月30日は地元地区の若者が昇山し「位上方」と「先途方」に分かれ、悪魔に扮した「ツツガムシ」を象る2体の大松明を作る。以降の行事は全て位上方と先途方の優劣・遅速などの競争の形で進められる。
④50日後の大晦日の夜には冬の峰の満願日である松例祭が行われる。両松聖に属する12人の山伏により競争が行われる。五番法螺と同時に大松明引きが行われ、この時の遅速、火の燃え具合で来年の豊作や大漁を占う。午前0時になると、東国33ヶ国は羽黒領、西24ヶ国は熊野領、九州9ヶ国は彦山領と定めた検地の神事と、新しい年の新たな火を鑽り出す神事を行い、全てが終わり、両松聖が百日間祈願した稲魂を昇神する。(※4)

6.考察
山伏がグループ化され二大派閥として鍛錬している時に、地方の山伏たちは独自で切磋琢磨していた。その筆頭が出羽三山の山伏たちだったと考えられる。本山派や当山派の山伏たちが山岳信仰を元に祈願や武家の祈祷などを行っている間、羽黒の山伏たちは地元に特化した祈願を行い、稲作の稲魂を種に付けることに修行の成果としていた。それらは修験道が始まった頃は山に籠り修行を行っていた山伏たちが、近代に近づくにつれ山の麓まで降りてきて里を作り、近くで暮らしている村人との関係の近さの結果ではないかと思う。当山派の山伏が祈願をしていたのが武家だった所空も分かるように位の高い人が多く、一般的な民衆向けではなかったのではないかと感じる。そしてその考え方の違いが、争いが起きた原因の一つなのではないかと思った。
しかし同じ地域で修行をしている羽黒修験道者の中でも区別がつけられており、完全な縦社会が発生していた。これらは明治維新の神仏分離の時点で修験道が廃止されたことで、清僧修験者は完全に居なくなったが、残った山麓修験者によって今も山伏修験は残り、後世に伝わってきた。また四季の峰入りは完全な女人禁制であったが、近年ではそれも解き、女性でも修験道が体験できるようになった。(※5)このことから羽黒山伏の修験道が今後も積極的に残っていくための策として、門戸を広げ多くの人を受け入れる方向に舵を切ったと考察し、時代に即した形で柔軟な姿勢が見られたと感じた。

  • 81191_011_31885016_1_1_3264bb6f-b83f-44b3-9dbe-ef908fadb9e9 資料1 出羽三山と山伏の概要
    日本遺産 出羽三山〜自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」
    https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/(2022/7/28閲覧)
  • 81191_011_31885016_1_2_c34b62dc-f96c-4ab7-989b-aca0a66553d7 資料2 羽黒山について
    出羽三山 羽黒山境内図:鶴岡市〜羽黒地域まち歩きマップが完成しました
    https://www.city.tsuruoka.lg.jp/shisei/shiyakusyo/infomation/haguro/kanko/machiaruki.html (2022/7/28閲覧)
    写真:2021/8/9筆者撮影
  • 81191_011_31885016_1_4_b41b6b21-f60b-4f21-a13f-e03f316f1b6e 月山神社
    日本遺産 出羽三山〜月山神社 https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山神社/(2022/7/28閲覧)

参考文献

※1 出羽三山神社HP〜御由来 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/6/(2022/7/28閲覧)
※2 和歌森太郎 『山伏 入峰・修行・呪法[復刻版]』、中央公論新社、2013年
※3 山形新聞HP〜【羽黒の山伏】血脈を保つ三十五坊
 https://www.yamagata-np.jp/feature/fuzisawa_feature/2-2-8.php?gunre=furusato (2022/7/28閲覧)
※4 出羽三山神社HP〜四季の峰 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/76/(2022/7/28閲覧)
※5 出羽三山神社HP〜神子修行道場 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/43/(2022/7/28閲覧)

参考サイト
羽黒町観光協会 https://hagurokanko.jp/(2022/7/24閲覧)
ショウナイズカン〜羽黒山宿坊「大聖坊」13代目 羽黒山伏 星野 文紘
 https://www.shonai-zukan.com/(2022/7/24閲覧)
一般社団法人出羽三山羽黒山伏会 http://haguroyamabusi.sakura.ne.jp/index.html (2022/7/24閲覧)
千葉県立中央博物館〜平成23年度企画展「出羽三山と山伏」
 http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/ex_old/special_ex/2011dewa3310/contents.htm (2022/7/24閲覧)
産経新聞〜出羽三山神社の女山伏(下)荒沢寺では男女一緒に寝泊まり 奈良・大峰山は今も女人禁制
 https://www.sankei.com/article/20141115-UK3QNMMVCJMOTIQBTEUXALZ6QM/(2022/7/28閲覧)
本山修験宗総本山聖護院 http://shogoin.or.jp/index.html (2022/7/28閲覧)
醍醐寺 https://www.daigoji.or.jp/index.html (2022/7/28閲覧)

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