祇園祭山鉾保存会の現状とその課題 ―綾傘鉾と岩戸山の保存会の比較を通して―

細見 昌代

祇園祭の起源は諸説あるが、『祇園社本縁禄』 (注1) によると貞観11年 (869) 神泉苑において鉾66本を建て、朝廷主催の鎮魂儀礼 「御霊会」を行った (注2) のが起源とされている。巡行は応仁元年 (1467) から明応9年 (1500) 迄、応仁の乱のため途絶えていたが (注3) 、度々の戦乱や大火にも関らず山鉾町の町衆は、巡行を支え続けてきたのである (注4) 。
しかし現在この地域は、和装産業の衰退化により居住者が減少し、地縁に限定されない仕組みを模索することが必要となってきた。この歴史から寄り町 (注5) の無い綾傘鉾と、寄り町数7の岩戸山を比較し、祭事継承の諸課題を考察する。

第一章  寄り町制度と現在の山鉾支援体制
寄り町制度は山鉾を出さない町が地の口米という税と人材を負担し、巡行を支える氏子の町を指す。制度の始まりは定かでないが豊臣政権により天正18年 (1590) 以降慶長6年 (1601) 頃とされている (注6) 。その後明治元年 (1868) 頃に山鉾の警備をしていた雑色から、京都市市政局 (1868年 京都府設立) に警備が移されたことにより終了した (注7) 。
元治元年 (1864) の大火からの山鉾復興は困難を極め、明治5年 (1872) 設立の清々講社は八坂神社の氏子町から金銭を集め山鉾巡行を支援した (注8) 。
山鉾は明治の行政制度により町内会から分離され、放下鉾が大正11年 (1922) 山鉾保存会 (以下、保存会) となった (注9) 。
山鉾は明治期から京都市の観光資源 (注10)として補助金を受け、大正12年 (1923) 頃に山鉾町連合会へと組織化された (注11) 。
山鉾巡行は平成28年 (2016) ユネスコ無形文化遺産に登録され、保存会はこの後公益財団法人保存会となる (注12) 。

綾傘鉾・岩戸山・その他の山鉾 (表1) の保存会活動を聞き取り調査し、後援会型・町内会支援型・家主企業型・複合型 (A・B) ・混合型 (複合型+後援会型) (表-2・表-3) に5分類し、山鉾支援団体の活動も町内会との関係から分類した。詳細は表-3の下部に記した。

保存会所有の町会所 (表-2) (注13) の家賃収入の有無は山鉾の運営に大きな影響を与えている。
白楽天山・南観音山・鶏鉾・橋弁慶山・放下鉾等が所有する町会所は家賃収入があり経済面で安定している。
白楽天山と太子山はマンションの新住民が祇園祭を人的、資金面で支え、新旧住民の地縁によるコミュニティーが生まれている。
放下鉾・大船鉾・綾傘鉾・岩戸山は後援会を立ち上げ、岩戸山は寄り町が復活している。
南観音山の囃子方には10年前から女性参加があり、女性理事 (南観音山・太子山・岩戸山) が運営に関与している。
今回調査した保存会では地縁関係に限定されない後援会組織や、クラウドファンディング・企業・経済団体等の協力を得て、山鉾巡行を支えている。

第二章 綾傘鉾と岩戸山の保存会活動と寄り町数の差について
綾傘鉾所在地は京都市下京区綾小路通室町西入善長寺町である。
綾傘鉾 (注14) (写真1・2・3) は元治元年 (1864) の大火で基材・懸装品(注15)を焼失し、昭和54年 (1979) の巡行復興は山鉾保存会連合会の要請であり、善長寺町内会の意志ではなかった。保存会発足は昭和52年 (1977) で、後援会発足は平成元年 (1989) である。
保存会と後援会で特筆すべきことは、ボランティア活動により運営され、対価の支払いが無い。保存会の理事会は運営の要となり、後援会制度は財政を支え会誌発行により広報を担う。後援会会員は巡行に参加可能 (要費用) の全員参加型の優れた制度である。
綾傘鉾の囃子方は重要無形民俗文化財の壬生六斎念仏講中  (注16) の奉仕で、綾傘鉾保存会囃子方として巡行を支えている。

綾傘鉾には寄り町が無かった理由を以下の3点より考察する。
1 綾傘鉾の地の口米 (注17) は天正19年 (1591) 頃は8斗であり (注18) 、『八坂神社記録』 天保14年 (1843) には7斗とある (注19) 。地の口米や金銭の基準の詳細は明らかでないが、他の鉾町と比較して各段に低い (表4-1・2) 。
今回比較検討した結果、善長寺町は片側町で町内の戸数も少ない (注20) 。片側町の山鉾は地の口米も低く寄り町も少ない (表4-1・2)  (表5) 。善長寺町の東西の角家は善長寺町内でなく、隣接の両側町 (注21)(表5) に属し、善長寺町隣接の4町 (両側町) は山鉾町で寄り町にはなれない。間口の大きさも地の口米に関係する (注22) 。
戸数という点では、税を課される寄り町がないことも地の口米を下げた一因である。寄り町の無い綾傘鉾の地の口米は町内の戸数より差し出す (注23) とあり、綾傘鉾の地の口米は他の山鉾より各段に低いのである。

2 人的支援
綾傘鉾の囃子方は壬生六斎念仏講中 (以下、講中) の奉仕で、費用負担が無い。他の山鉾では囃子方を育成し、太鼓や笛、鉦、衣装を負担し、寄り町からも囃子方を募る (注24) 。
また壬生村郷士は綾傘鉾に神事役で関わり、綾傘鉾からは壬生村郷士へ地の口米7斗の支払いがある (注25) 。
祇園社の氏子は 「西ハ野限壬生村辺」と享保2年 (1717) 『京都御役所向大概覚書』 に記され、壬生村は祇園社の氏子という認識である (注26) 。
上記より綾傘鉾と講中は囃子方、氏子という祭縁であり、講中と郷士は綾傘鉾の支援組織である。

3 小型である
綾傘鉾は小型の曳鉾で囃子方は鉾に乗らず、鉾の前で囃子方が囃すという特徴がある。従って基材・懸装品が大型の鉾より少量で、鉾建てや曳き手も少人数で済み全体の費用負担が少ない。『八坂神社記録』 によると善長寺町の居住者は質素であるから懸想品も華美ではない (注27) 。
以上1~3より、寄り町なしで巡行可能であったと考察する。

岩戸山保存会活動
所在地は京都市下京区新町通仏光寺下る岩戸山町である。
保存会(注28)は平成27年 (2015) に公益財団法人となった。
町内居住者は5軒で戸数は30軒あり、全てが保存会員で町内会と一体で保存会運営をしている。祭り期間は町内の個人宅を借り町会所とし、お飾りや囃子方の稽古場としている。
特筆すべきは岩戸山寄り町であった中野之町 (注29) は、現代の寄り町として平成27年頃から岩戸山の祇園祭りに123年ぶりに参加を決め、巡行に参加していることである。注目すべきは中野之町から3名が保存会会員となっていることである。
岩戸山 (写真) は平成28年 (2016) からネット会員 「ソーシャル寄り町」 を募集し、ネット会員20人程で懸装品の飾り付けや粽作り、後片付けをする。ネット会員は保存会会員ではないが実働部隊で、将来の人材育成も兼ねている。 「こどもカミ遊び」 は能楽師が子供に舞を教え、宵山に舞を披露する。これも人材育成である。
岩戸山の寄り町は7ケ町で地の口米は、米4石9斗5升である。両側町で税も高く戸数も多い。囃子方のある大型の山は人手を要し費用負担が大きい。

第三章 みえてきた課題と提案
課題は人材と資金である。
山鉾町居住者は寄り町制度の廃止から、地縁関係により祭事の人材・資金を支え続けてきた。しかし居住者の変化により (注30)(注31)(注32) 地縁に限定されない支援が必要となった。
綾傘鉾は寄り町による支援を要することなく、壬生村からの人的支援を得て巡行をしてきた歴史がある。町内の地縁に限定されない後援会制度により人材・資金の支援を得て、祭事には持続可能な取り組みであったと評価する。しかし後援会や理事会の祭縁だけではやがて衰退すると危惧し以下の事を提案したい。

綾傘鉾
① 後援会会員や新規住民にバックヤード形式 (注33) で準備作業 (鉾建て・粽作り) を公開する。準備段階の参加を促し、新規の地縁者を掘り起こす。
②  理事会メンバーはワークショップ形式 (注34) を取り入れ、多様な意見を集約し課題解決に繋ぐ。例えばアプリ作成等で収益を上げる等は、資金解決の一助になる。
③  理事会は後援会会員からの入会を促し、理事会入会のハードルを下げる。

岩戸山
地縁者以外から保存会員の増加を計りバーチャル会員との交流を促す。

山鉾保存会
口伝と共に映像と文章をデータ化し残すことを提案したい。

まとめ
保存会は神事・祭事を通じ、町内等の地縁関係に限定されない新たな社会関係を創設し活動を支えている。
今後は持続可能で多様性に寛容な 「新社会関係」 が祇園祭りを支え、発展していくことを期待する。
本論文は綾傘鉾と岩戸山の経済基盤の違いや、綾傘鉾が寄り町なしで巡行可能であった理由を論じ、保存会の課題と解決の方策を提示した。

  • %e4%bf%ae%e6%ad%a3 表1 山鉾保存会活動聞き取り調査表、山鉾名、日時、聞き取り先氏名(氏名公開了承済)
    聞き取りにご協力いただいた山鉾町の方々にこの場をかりまして厚く御礼申し上げます。
    筆者作成による。(2022年7月5日)
  • %e3%80%80%e5%90%84%e5%b1%b1%e9%89%be%e4%bf%9d%e5%ad%98%e4%bc%9a%e8%b3%87%e6%96%99%e3%80%80%e3%80%80%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e6%b8%88%e3%80%80%e3%80%80%e3%80%87 表2
    山鉾保存会の町会所の有無と囃子方について。町会所の家賃収入の有無は山鉾の運営に
    大きな影響を与えている。
    表3
    山鉾を支援する保存会の型と支援内容 (町内会との関係より) 
    表2・3は、各山鉾保存会役員からの聞き取りにより筆者作成。(2022年7月5日)
  • %ef%bc%94%e5%af%84%e3%82%8a%e7%94%ba%e7%9f%b3%e9%ab%98%e7%94%ba%e5%9e%8b%e3%80%80%e5%8d%92%e8%ab%96%e6%8f%90%e5%87%ba%e7%94%a8_page-0001 表4-1・2
    寄り町と地の口米 及び町型 (片側町と両側町) とその所在地  筆者作成(2022年7月5日)
  • %ef%bc%95%e3%80%80%e7%89%87%e5%81%b4%e7%94%ba%e3%83%bb%e4%b8%a1%e5%81%b4%e7%94%ba%e3%80%80%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e6%b8%88%e3%80%80%e3%80%87-%e4%bf%ae%e6%ad%a3%e5%88%867-15
  • %ef%bc%95%e3%80%80%e7%89%87%e5%81%b4%e7%94%ba%e3%83%bb%e4%b8%a1%e5%81%b4%e7%94%ba%e3%80%80%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e6%b8%88%e3%80%80%e3%80%87_page-0001 表-5
    山鉾配置図 (片側町図-1・両側町図-2)
    所在地より筆者作成。(2022年7月10日)
  • 81191_011_31786044_1_5_%e7%b6%be%e5%82%98%e9%89%be%e3%80%80%e7%b2%bd%e5%85%a5%e3%82%8c 綾傘鉾写真1
    仏教大学生や保存会会員による袋への粽入れ。粽は京都の北部、花脊や大原の農家の人々により笹で作られ、山鉾町に納められる。この後、蘇民将来の厄除けの札と共に、粽を袋に入れる。袋入れはボランティア活動による。
    保存会理事長の寺田氏宅ガレージにて筆者撮影 2022.06.26 
  • 81191_011_31786044_1_6_%e7%b6%be%e5%82%98%e9%89%be%e3%80%80%e9%89%be%e5%bb%ba%e3%81%a6 綾傘鉾写真2
    仏教大学生や保存会会員による鉾建て、すべてボランティア活動である。器材や懸想品は神泉苑からトラックで運ばれてくる。
    2022.07.13 日 筆者撮影
  • 81191_011_31786044_1_7_%e7%b6%be%e5%82%98%e9%89%be%e3%80%80 綾傘鉾 写真3 
    宵山の鉾、曳き山であるから、台車の上に傘が建てられ、曳き手が曳く。

    2022.07.16 日筆者撮影
  • 81191_011_31786044_1_8_%e5%b2%a9%e6%88%b8%e5%b1%b1%e3%80%80%e5%b7%a1%e8%a1%8c%e5%89%8d%e3%80%80%e6%b8%85%e3%82%81%e5%a1%a9 岩戸山写真 巡行 清め塩
    出発前に保存会会長が鉾を清め、車方のよ~いよいえんやらやーで囃子方が囃し始め、それを合図に出発する。
    2022.07.17 日筆者撮影

参考文献

(注1・2) 富井康夫 同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 Ⅴ祇園祭の経済基盤』 ㈱法律文化社 昭和46年5月31日 p192 祇園祭り起源
(注3)河内将芳 『祇園祭の中世』 ㈱思文閣 2012/05/25 p199 巡行停止期間
(注4)秋山國三 同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 1条坊制の「町」の変容過程について』 ㈱法律文化社 昭和46年5月31日 p59、1-8表
火災の表―戦乱は応仁の乱、応仁元年(1476)・文明の乱、文明9年(1477)・蛤御門の変(1864年)、大火は宝永5年(1708)・天明8年(1788)・元治元年(1864)等。
(注5) 富井康夫 同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 Ⅴ祇園祭の経済基盤』 ㈱ 法律文化社 昭和46年 p205  寄り町制度の寄り町は山鉾を出さない町が巡行費用や地の口米(税)を出し、山鉾町を支援する制度である。
(注6)川嶋将生 『祇園祭り』 ㈱吉川弘文館 2010/12/01 p22~29  寄り町制度は豊臣政権により1590年頃から1601年迄に作られたとされ、山鉾巡行を寄り町が地の口米という経費の分担や人的な支援を行う氏子の町を指す制度である。
(注7) 富井康夫 同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 Ⅴ祇園祭の経済基盤』 ㈱法律文化社 昭和46年5月31日 p205・雑色は山鉾巡行の警備にあたる役人である。
(注8) 伊藤節子『近代における祇園祭山鉾巡行の継続に関する考察-清々講社を中心に』 「観光研究」 2017.9 日本観光研究学会機関紙 p33  清々講社
(注9) 編者 谷直樹・増井正哉 『まち祇園祭すまい』 思文閣出版 1994/07/01 p170
大正11年 (1922) 放下鉾保存会発足は町会所の権利関係のトラブルから組織を独立させる必要が生じた。町内会からの分離。
(注10) 伊藤節子 『近代における祇園祭山鉾巡行の継続に関する考察-清々講社を中心に』 「観光研究」 2017.9 日本観光研究学会機関紙― p36  観光資源
(注11) 米山俊直 『ドキュメント祇園祭』 日本放送出版 昭和61年7月15日 p6
山鉾町連合会へと組織化された。
(注12)無形文化遺産 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)   2022/05/10  ユネスコ
(注13) 編者 谷直樹・増井正哉 『まち祇園祭すまい』 思文閣出版 1994/07/01 p178・179 町会所はお飾り所、寄り合い所となり、期間以外はご神体収納や賃貸に出す。
(注14)綾傘鉾 -綾傘鉾保存会- (ayakasahoko.or.jp)  2022/06/07
(注15)祇園祭 山鉾を飾る絢爛豪華な懸装品 (xn--1lqp7d4w5fidg.jp)  2022/06/06
(注16)壬生六斎念仏講中 (cloud-line.com)  2022/05/21
(注17)川嶋将生 『祇園祭り』 ㈱吉川弘文館 2010/12/01 p80
地の口米は巡行費用でもあるが雑色へ支払われる税も含む。
(注18)祇園祭山鉾連合会田中常雄 『近世祇園祭山鉾巡行史』 祇園祭山鉾連合会
 昭和49年6月20日 p15 地の口米が米8斗  天正19年(1591)頃。
(注19)八坂神社文書編纂委員会 『八坂神社記録』 ㈱臨川書店 平成28年3月30日 p447 地の口米が7斗  天保14年(1843) 地の口米の差は時代により変化した可能性がある。
(注20)秋山国蔵  同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 1条坊制の「町」の変容過程について』 ㈱法律文化社 昭和46年5月31日 p63 1-13図 片側町は12世紀中頃から、条坊制の四面町が形成され、その後四丁町に解体し、片側町を形成した。
(注21)秋山国蔵 同志社大学人文科学研究所編 『京都社会史研究 1条坊制の「町」の変容過程について』 ㈱法律文化社 昭和46年5月31日 p70 1-15図 
両側町は片側町形成後に都市経済の基本単位の一つとして形成された。
(注22)川嶋将生『祇園祭り』  吉川弘文館 2010/12/01 p80  間口の大きさで税が決まる
(注23) 八坂神社文書編纂委員会 『八坂神社記録』  ㈱臨川書店 平成28年3月30日 p448  地の口米は町内の戸数から差し出す。
(注24)八坂神社文書編纂委員会 『八坂神社記録」』 ㈱臨川書店 平成28年3月30日 p476  寄り町から囃子方を募る。
(注25) 八坂神社文書編纂委員会 『八坂神社記録』 ㈱臨川書店 平成28年3月30日 p447 壬生村郷士へ7斗
(注26) 川嶋将生 『祇園祭』 吉川弘文館 2010/12/01 p12 壬生村西限
(注27)八坂神社文書編纂委員会 『八坂神社記録』 ㈱臨川書店 平成28年3月30日 p445  町内は質素である
(注28) 公益財団法人 岩戸山保存会 (iwatoyama.jp) 2022/05/22
(注29)所在地は松原通室町東入る中野之町。岩戸山寄り町数㈦の一つであった。
修徳学区に属し、この地の歴史編纂のため、町内在住の近森氏が岩戸山の寄り町であった史実の確認の為、岩戸山保存会と連絡したことから、岩戸山側から支援の要請があり、町内合議の上、新寄り町として、保存会に参加した。
(注30)京都市の人口2020sokuhou.pdf (kyoto.lg.jp) 2022/05/08 表‐1
(注31)京都の地価F資料2 結果概要①ver4 2 (pref.kyoto.jp) 2022/05/08
(注32)地価調査京都市 06 jikeiretsuR2 (pref.kyoto.jp) 2022/05/08
京都市下京区商業地の平成13年の地価下落率は-10.2%、平成30年の地価上昇率は20.8%である
(注33)バックヤード(backyard)の意味 - goo国語辞書2022・06・20閲覧
(注34)安斎勇樹・塩瀬隆之 『問いのデザイン』㈱学芸出版 2021/11/10 4章 ワークショップのデザイン
会議を「ワークショップ形式」にしてみたら…意見が出る出る!話がまとまる! | WebNAUT2022・06・20閲覧
参考図書
納屋嘉人 『祇園祭り温故知新』 ㈱淡交社 2020/04/07 p35~39・p135
本田健一 『中近世京都の祭礼と空間構造』 吉川弘文館 2013  p262
編集公益財団法人四条町大船鉾保存会『祇園祭り大船鉾復興の軌跡』蒼穹社 2015/05/01
 佐藤弘隆 『京都祇園祭の山鉾行事における運営基盤の再構築』 人文地理 第68巻3号 2016/08/02 3章・5章
 つちもとよしかず 洛中地子赦免と町屋 (jst.go.jp) 5/8日閲覧 p59~
 樋口博美 『伝統的都市の祭礼にみる共同性の維持と創造』 2014/02 社会関係資本研究論集 2継続してきた町外祭縁
 堀口利枝・宮崎清『絵巻物に描かれた[傘]」の意匠』Japanese Society for the science
 of Design 2009/03/23 4-傘の意匠
 渡邊秀一 『天正期の京師町割りと「本町のつきぬけ」』 佛教大学 歴史学部論集 8号 2018/03 (2)東洞院以東における町割りと町の成立状況

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