建築家 伊東忠太の異形の塔、可睡齋護国塔-不戦・慰霊のメッセージを未来へ繋ぐ

鈴木 敬雄

はじめに
私の生家から東へ約1KMに可睡齋護国塔(静岡県袋井市)がある。昭和40年代までは、玄関前の県道から田畑越しの小高い山の木々の緑を突き抜けて白いドームと尖塔が見えた。それは、日々の暮らしの風景であった。当時は、護国塔の前庭には藤棚や売店があり、特に春や秋は多くの参拝者で賑わった。娯楽の少なかった私の幼年時代、慰霊塔とは知る由も無く、連れだって遊びに行ったことは、昔日の記憶の中に残っている。

1 可睡齋護国塔とは
萬松山可睡斎の開山は室町時代と伝えられる曹洞宗の古刹である。戦国時代に11代住職が、徳川家康と父親を戦乱の最中、救い出したことから、家康との親交が深く、当初は東陽軒であった寺名を「可睡斎」と家康が名付けたと伝わっている。
可睡齋護国塔は1911年(明治44)完成である。護国塔は日露戦争(1904~1905年)(明治37~38)の8万余柱の戦没者を祀る慰霊塔である。当時の住職、日置黙仙(1847~1920年)(弘化4~大正9)(註1)の発願により計画された。住職は、明治40年1月から3月の間に満州や朝鮮の戦跡を訪ね、墳墓に回向し、その地の土や砂を持ち帰り、護国塔の基礎下に納めたと伝えられている。
護国塔の当初案は石造であったが、費用等の関係から規模を約0.7倍に縮小し、黎明期であった鉄筋コンクリート造で造られた。着手後の変更や地方での資材調達と未経験のドーム構造などにより、困難を極め、工事期間は足かけ5年におよんだ。
設計者の伊東忠太(1867~1954年)(慶応3~昭和29)は、帝国大学工科大学造家学科、同大学院卒業。大学では辰野金吾(註2)やコンドル(註3)から欧米の建築を学んだが、日本の伝統建築にも着目し、明治31年に「法隆寺建築論」を発表して法隆寺が日本最古の木造建築であることを示し日本建築史を創始した。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。
構造設計の佐野利器(1880~1956年)(明治13~昭和31)は、伊東と同郷で同窓であった。日本おける建築構造学を確立し、耐震構造の第一人者である。
構造設計に関わった主な建物は、東京駅丸の内駅舎(1914年)(重要文化財)、神奈川県庁舎(1927年)(重要文化財)がある。

2 可睡齋護国塔の先進性と独自性
構造の先進性
鉄筋コンクリート造(註4)は19世紀末にフランスで発明された画期的な構造である。原材料であるセメントの国産化は1875年(明治8)である。現存する最古かつ本格的な鉄筋コンクリート造建築は旧横浜三井物産ビルで1911年(明治44)完成である。護国塔は国内における鉄筋コンクリート造建築の初期であることに加えて、その形を特徴づけるドーム構造の初期建築としても高く評価できる。
デザインの独自性
護国塔は、伊東が3年におよぶ世界旅行(註5)から帰国し、インドのサーンチー遺跡のストゥーパの原型とされる寺院にモチィーフをとり、最初に手がけた本格的な塔の建築である。塔身のデザインはガンダーラ式でその上部はチベット仏教を模している。入り口のアーチはインドの石窟寺院の形状で、ペルシャ式の支柱の上には牛の像が載る。階段の登り口の両側には一対の阿吽の獅子がある。こうした妖怪めいた像は、以降の建築にも度々登場し、伊東の独自のデザインとして知られている。伊東が護国塔以降の明治期から昭和初期にかけて設計した塔やドームがある建築としては、西本願寺伝道院(註6)、祇園閣(註7)、覚王山日泰寺仏舎利奉安塔(註8)、中山法華経寺聖教殿(註9)、築地本願寺(註10)などがある。護国塔は、その後の塔やドームをもつ建築の原点として位置づけられる作品である。

3 靖国神社と護国塔
明治時代に建設された全国規模の戦没者慰霊建造物として代表的なものは靖国神社(註11)である。
靖国神社は、1869年(慶応5)に明治天皇の勅命によって創建された東京招魂社が前身である。東京招魂社は幕末の志士や官軍の戦死者を祀ったものである。その後、1879年(明治12)に東京招魂社は靖国神社と改称され1887年(明治20)以降、陸軍及び海軍の管轄下となって他の内務省管轄の神社とは性格を異にした存在となった。靖国神社は天皇・国家のための戦争において戦死した者を「英霊」として顕彰して祀った国家的宗教施設である。戦後に靖国神社は単立の宗教法人となったが、「英霊」祭祀は、現在まで引き継いでいる。日露戦争は、熾烈な戦によって辛うじて勝利した戦争であった。その代償は甚大で戦没者は8万余といわれている。
護国塔の建設資金は全国の有志による浄財である。寄付金のうち、皇室下賜金は300円、不足額16万円は寄付金である。明治39年の護国塔建設趣意書の発起人・賛成者としては伊藤博文、大隈重信や板垣退助、東郷平八郎などの政治家や軍人と全国の著名人や財界人などの名前がある。護国塔の傍らにある高さ5m余の石碑「護国塔碑」の背面の寄付者名には、全国の数多くの市井の人々の名前も刻まれている。
護国塔は、一人の仏教者が、壮烈を極めた軍人を悼む心情を禁じ得ず、全国から有志を募り、宗派を越えて日露戦争の戦没者を慰霊するために建立されたものである。
そのデザインの源流は、広くアジアの仏教に求め、鎮魂を形にしたものであり、建設の経緯や資金においても靖国神社とは大きく異なり、特筆されるものである。

4 護国塔の課題と展望
2011年は護国塔建立100周年にあたり、私はその記念事業に携わり、多くを学んだ。この時、数十年ぶりに目にした護国塔は、周辺の木々も伸びて人影も見当たらず塔のみが孤独に建っていた。塔内の戦争の遺品などは整理されて、ガランとして往事を偲ぶことはできなかった。戦後65年を経て、遺族の高齢化と減少などによって慰霊に対する意識が大きく変化したことを実感した。2021/3/13の静岡新聞「戦没者忠霊塔、老朽化で解体へ 静岡市清水区、遺族会員らが神事」を読み、慰霊塔の実情に関心を寄せた。
現存する修理報告書は昭和54年版と平成10年版である。記録に残る2回の修理はいずれもドーム屋根の漏水が主因である。当時は黎明期であった鉄筋コンクリート・ドーム構造の防水技術が確立されていなかった時代であった。意匠上の制約の中での補修と補強は極めて困難であるが、すでに110年を経た構造体の劣化と漏水防止と耐震補強は急務である。
一方、全国に存在する戦没者慰霊施設が消滅しているという。(註12)担い手の減少と戦争の記憶の消滅である。担い手の減少を食い止めるには、語り継ぐことである。教育の場においては、年齢に応じたテーマを絞り、子々孫々まで語り継ぐことである。そして記憶の消滅を防ぐには、それを象徴する「モノ」を残し継承していくことが欠かせないのである。

5 まとめ
明治維新から現在までの戦争は、日清戦争(1894~95年)、日露戦争、第一次世界大戦(1914~48年)、日中戦争(1937~45年)、太平洋戦争(1941~45年)である。これらは、約51年間に起こされている。その中でも日露戦争の勝利は、その後の帝国主義へと繋がり、太平洋戦争への大きな契機となった。その結果、1945年(昭和20)に初めて敗戦国となり、国土は焦土と化し、全ての国民が国家による不条理を体験した。一般市民を除く戦没者総数は推計で300万人以上といわれている。
建立当初は「遠州可睡齋護国塔協賛会」が組織されて5周年記念式典を実施した。昭和7年には戦火の拡大を反映し「大日本忠魂護国塔奉斎会」が設立された。敗戦後は全国的な式典はなくなり、地域を中心とした慰霊法要式典が続けられている。しかし、近年は遺族の高齢化によって、護国塔への斜路が危険なために、法要式典は本堂内にて毎年9月29日に執り行われている。困難を極めた占領時代の後、先人達の努力によって驚異的な復興を遂げ、自由主義経済と民主主義により繁栄と自由平等を得た。
今を生きる私たちの使命は、過去5回の戦争において国家を護るために戦った人々に応え得る誇りある国家をつくることである。日本海や南方の海や島々、北方の極寒の地における苛烈な戦によって絶命した幾多の人々の覚悟を忘れてはならない。
敗戦後の私達が共有しなくてはならないのは「不戦と慰霊」である。これは表裏一体のものであって、不戦こそが慰霊である。現下の76年間の「不戦」を未来永劫とすることを全ての国民の共通の認識として、確実に伝えなければならないのである。

  • 1 可睡齋護国塔(静岡県袋井市)静岡県指定文化財   2021/09/23  撮影筆者
    ドーム部分には、すでに筋状の変色があり、老朽化が懸念される。
  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 西本願寺伝道院(京都市)  2011/09/19  撮影筆者
  • 3 築地本願寺(東京都) 2011/07/13 撮影筆者   
    忠太が設計し現存する鉄筋コンクリート造寺院としては最大である。忠太らしいデザインが随所にちりばめられている。
  • 4 護国塔開塔式の報道:静岡民友新聞:明治44年4月2日

参考文献

註1 日置黙仙  鳥取県北栄町HP   閲覧 2022/01/15
 http://www.e-hokuei.net/2198.htm

註2 辰野金吾 1854~1919年( 嘉永7~大正8) Britannica online JAPAN   閲覧 2022/01/15
 https://japan.eb.com/rg/article-07061900

註3 ジョサイア・コンドル(1852~1920年) Britannica online JAPAN  閲覧 2022/01/15
 https://japan.eb.com/rg/article-04428800


註4 鉄筋コンクリート造 Britannica online JAPAN  閲覧 2022/01/15
https://japan.eb.com/rg/article-07811500


註5 伊東忠太 野帳  日本建築学会建築博物館
 (第1巻から13巻までが世界旅行中に描かれた野帳・デザインや妖怪、風俗など) 閲覧 2022/01/15
 http://news-sv.aij.or.jp/da2/yachou/gallery_3_chuta2.htm

註6 西本願寺 伝道院(京都市・重要文化財) 1912年(明治45)
 当時の西本願寺門主、大谷光瑞との出会いが生んだ建築である。伊東が世界旅行の途中、中国で偶然出会ったのが大谷探検隊であった。その後の築地本願寺などへと繋がった。
https://www.hongwanji.kyoto/see/keidai.html  閲覧 2022/01/15
 

註7 (サライ 2017/7/23) 祇園閣(京都市) 1927年 (昭和2) 閲覧 2022/01/15
https://serai.jp/hobby/221068

註8 覚王山日泰寺 仏舎利奉安塔(名古屋市) 1918年(大正7)
https://www.nittaiji.or.jp/12shise/#photo_1-1  閲覧 2022/01/15
 タイ王国から送られた仏舎利を納めるために創建された寺院の納骨塔である。
 納骨塔は大理石造でチベット仏教の塔がモチーフで多様な曲線が用いられ、基壇の四隅には獅子がいる。


註9 中山法華寺 聖教殿(千葉県市川市)1931年(昭和6)  閲覧 2022/01/15
https://hokekyoji2101.wixsite.com/nakayama/blank-1?lightbox=dataItem-io26dwky
 日蓮の真跡である国宝・「立正安国論」などを保管するための塔である。
 可睡齋護国塔と共通するデザインがちりばめられている。正面の両側には一対の阿吽の獅子、左右の柱頭には馬と牛、周囲を取り囲む付け柱の上にも象、羊、鳥、馬、獅子などが経典を護っている。

註10 築地本願寺(東京都・重要文化財)1934年(昭和9)   閲覧 2022/01/15
  https://tsukijihongwanji.jp/


註11 靖国神社 閲覧 2022/01/15   https://www.yasukuni.or.jp/

註12  NHK 戦跡 薄れる記憶
 「もう支えきれない 戦没者の慰霊の場が全国で消えていく」  閲覧 2022/01/15
https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_101.html

『東京人 特集 伊東忠太』 2012年12月号 都市出版 編集:高橋栄一

『可睡齋護国塔保存修理報告書』 2013年 可睡齋 静岡県袋井市教育委員会

可睡齋護国塔建立100年展記念誌『可睡齋護国塔物語』
   護国塔100年展実行委員会 発行・編集 平成25年(2013)発行

『伊東忠太を知っていますか』 2003年4月12日発行   王国社  編著者:鈴木博之

静岡新聞 2021年10月29日   戦没者忠霊塔、老朽化で解体へ 静岡市清水区
 https://www.at-s.com/news/article/local/central/870252.html

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