―後世に残す登呂遺跡の意義と課題―

大石 舞

1. 基本データと歴史的背景
1-1. はじめに
古代の遺跡が出土したのち、発掘調査後、公園施設として活用される場合は多々あるが、実際に遺跡を知ってもらう役割を果たせている場所は多くない。そのような中で、公園化した遺跡の内のひとつである登呂遺跡は、静岡県静岡市駿河区にある、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に発見された弥生時代の遺跡であり、現在は登呂公園との名称でその門戸を市民に広く開いている。遺跡からの出土品や遺構を研究・展示する施設としては、同公園内に静岡市立登呂博物館(以降、登呂博物館)が存在しており、平成22年(2010年)のリニューアルオープン後は、体験できる展示を多く取り入れ、弥生文化に触れあう機会を提供している。この事例を基に、本レポートでは、登呂公園における登呂博物館が地域との関りの中で提供する役割について評価していく。

1-2. 基本データ
名称 静岡市立登呂博物館
所在 静岡県静岡市駿河区登呂5丁目2(登呂公園内)
主な展示物
① 復元建物(博物館外)
・住居 5棟
・高床倉庫3棟
・祭殿 1棟
② 復元水田
③ 体験展示(博物館内)
(ア) 水田稲作・住居体験
(イ) 弥生土器・農具・衣服展示
④ 常設展示
(ア) 登呂ムラ再現ジオラマ
(イ) 復元土器・他出土品
(ウ) 発掘調査関連資料
⑤ 企画展示

1-3. 歴史的背景
登呂遺跡は、第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に、軍需工場建設の現場で発見された。当時、貴重な弥生農耕集落の遺跡であると多くの学者がこの遺跡を訪れたが、戦時中という事もあり、第一次発掘調査は簡易的なものとなった。本格的な調査が行われたのは、終戦後の昭和21年(1946年)である。「静岡県郷土文化研究会」が発足され、物資不足の中調査が行われた弥生時代の水田跡の遺構が確認されたのは日本で初めてだったことから、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった。その後、遺跡は昭和27年(1952年)に国の史跡に指定され、昭和30年(1955年)に静岡考古館が開設、出土品が収集・展示された。その後、昭和47年(1972年)に現在の静岡市立登呂博物館となり、平成22年(2010年)のリニューアルを経て現在まで続いている。

2. 登呂遺跡博物館の評価点
・国内でも希少な遺跡であり、その歴史的価値の高さから特別史跡に登録されていることに加え、二千年前の田園風景を残しながら、弥生文化を実体験できることに加え、日本考古学の出発点である遺跡とその価値が十分に伝わる展示がなされていること。
・研究が進む中で、遺跡の存在が広く知られなくなっている課題を抱えながらも、地域との関係を密にしながら、様々な教育の機会を提供していること。
以上二点を積極的に評価する。

3. 国内の他の施設と比較した際の特徴
国内でも有数の遺跡公園である吉野ケ里歴史公園と比較し、論じていくと、その差から登呂公園の特徴が見て取れる。
そもそも、登呂遺跡は弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡であり、ひとつのムラに対して、吉野ケ里遺跡は弥生時代前期から後期にかけて、集落からムラへと発展していったことが分かる広範囲な遺跡ということから、同じ弥生時代遺構とはいえども、そのあり方は根本的に違っている。
また、年間に訪れる来場者数も異なり、遺跡を含む吉野ケ里歴史公園は令和2年度の時点で過去5年間の来園者数が年間約73万人である[1]のに比べ、登呂遺跡博物館の来館者は令和4年度の時点で年間16万人にとどまっている[2]。このように、規模や来館者の部分では、登呂遺跡より吉野ケ里遺跡の方が規模を上回っており、その知名度も桁違いである。実際、吉野ケ里歴史公園の来場者の中には関西や関東といった遠方からの来場者も多くいる[3]一方、登呂遺跡の来園者は7割が県内と近隣の県からであり[4]、近年、県外・市外の情報を積極的に展示に取り入れることで遠方からの観覧者を増やす活動がなされている。[5]

このような違いがあげられる登呂公園と吉野ケ里歴史公園であるが、敷地内の博物館で行われている展示を比較すると、登呂遺跡の特徴が見て取れる。それは、遺跡からの出土品だけでなく、それらを発掘調査した人々についても詳しく展示されている点である。登呂遺跡の発見は、当時の考古学的常識を覆すものであったため、調査には考古学に関する専門家だけでなく、植物学、建築学といった様々な学問分野の専門家が協力して行われた。また、それに加え、専門家だけでなく一般の人々も登呂遺跡に強い関心を持っており、多くのボランティアが発掘に携わったことが、展示から見て取れる。一見、その展示内容は、発掘調査の際に発行された領収書や学生が用意した旅のしおり、現場に落ちていた発掘調査に使用する道具といった土器や出土品と比べるとあまり重要ではなさそうな展示品ばかりである。しかし、その時代の人々が実際に登呂遺跡に夢を持ち、遠い地からも発掘に訪れた証拠であり、発掘に携わった人々を身近に感じることができる展示となっている。つまり、発掘に携わった一人ひとりの想いが繋がれ、今に続いていることがわかる展示は、古代の魅力だけでなく日本考古学自体の価値を十分に伝えるものとなっていると言える。
二つ目は、地域に根差した、ここでしかできない教育体験を提供している点である。登呂遺跡は、1年を通して、様々なイベントや体験講座を催している。休館日でなければいつでも体験ができる火起こし体験や土器炊飯体験に至っては、同様のイベントが吉野ケ里遺跡に隣接する弥生くらし館でも行われていた。しかし、このような単発の体験講座だけでなく、4月から11月まで行われる登呂の田んぼで赤米づくり体験や、1か月かけて行う弥生土器づくりといった何度もこの場に足を運んで活動してもらう体験が用意されているのだ。単発で行うことができない体験講座は、申し込みが必要であったり、全講座出席が条件であったりと参加するハードルが高い。しかし、現在、登呂遺跡博物館は上記でも述べた通り来館者の7割が市内もしくは近隣の県から訪れているわけであり、その人たちに登呂をより深く知ってもらうことに繋がる活動であると言える。
このように、館の特徴を最大限に生かしつつ、市民と繋がりを持ち続ける活動を取り組むことで、子どもたちの教育に携わり、その活動がひいては次世代の「シビックプライド」に繋がっていると考える。市民に誇れる存在にならんとして、イベントが企画・運営されているのだ。

4. 今後の展望
これまで、吉野ケ里遺跡にまつわる二つの館と登呂博物館を比較してきた。小規模でありながらも、地域と連携を取り、工夫した運営が行われている登呂博物館は、そこにしかない魅力を十分持っていると言える。
しかし、上記でも述べた通り、吉野ケ里遺跡に訪れる年間来園者数と登呂遺跡への来館者数には圧倒的な差が存在する。これには、この場所を訪れる人々の目的の違いがあると考えられる。実際、登呂公園に訪れた場合、そこには復元された住居と倉庫しかなく、無料で入れる1階部分は、体験展示室とカンファレンスルーム、小規模な土産物屋のみとなっている。一方、吉野ケ里歴史公園に関しては、その広大な土地から遺跡や博物館だけでなく、アスレチック広場が設置されていたり、弥生文化を感じられるレストランが設置されていたりと、遺跡を見たり、学んだりするといった目的以外にも訪れたくなる要素が設置されている。つまり、学ぶために訪れるのではなく、遊びに来たら自然と学ぶ形となっていると言える。
この要素は、現在の登呂公園内には乏しい。自由に使用ができる公園といったイメージより、史跡としてのイメージが強くなってしまっているからだ。
憩いの場として人々に利用してもらう要素としては、飲食可能な休憩スペースの確保、屋外の復元住居を座って眺めることができるベンチの設置、公園内をより通り抜けたくなるような歩道の整備、といった項目が改善点としてあげられる。規模が違う分予算も違うことから、比較対象と同じ規模の設備を設置することは難しいが、遺跡に興味のない人でも、より親しみを持ってもらえるよう工夫をすることが、今後も必要とされると考えられる。また、これによって登呂公園は、登呂遺跡を後世に伝える役割をより発揮していくと言えよう。

  • 81191_011_32183248_1_1_卒業レポート_画像資料_? 登呂博物館並びに復元遺跡画像資料
  • 登呂博物館内部の展示状況画像資料
    (非公開)
  • 登呂博物館内で行われている来館者調査資料
    (非公開)

参考文献

[1][3] 令和2年度第3回九州地方整備局事業評価監視委員会 国営吉野ケ里歴史公園 事業完了後5年以内の事業(配布資料)
[2]『令和4年度 館報 第29号』、静岡市立登呂博物館、2022、p8
[4]『平成29年度第2回静岡市立登呂博物館協議会 会議録』、静岡市立登呂博物館、2017、p10
[5]『令和5年度第1回静岡市立登呂博物館協議会 会議録』、静岡市立登呂博物館、2023、p3

岡村渉「静岡県登呂遺跡の再発掘調査」『日本考古学 9巻13号』、日本考古学協会、2002年
静岡市立登呂博物館HP『登呂遺跡のあゆみ』、https://www.shizuoka-toromuseum.jp/toro-site/history/ (最終閲覧2024/01/28)
吉野ケ里歴史公園HP『公園概要』、https://www.yoshinogari.jp/information/overview/ (最終閲覧2024/01/28)
国土交通省九州地方整備局HP『事業評価』https://www.qsr.mlit.go.jp/s_top/jigyo-hyoka/index.html (最終閲覧2024/01/28)

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