横浜市大倉山記念館 ~施主と建築家の思いがこめられた歴史的建造物の存在価値~

田代 佳津子

1.はじめに
 横浜市北東内陸部に位置する港北区は、人口が市内一多く東京のベッドタウンである〔1〕。港北区の小高い丘に自然豊かな大倉山公園とレトロな西洋建築、横浜市大倉山記念館(以下 記念館)がある。
 筆者は港北区に20年以上住みながら2年前に初訪問し、身近に存在感ある歴史的建造物を見つけ驚いた。
 そこで横浜市指定有形文化財でもある記念館を調査し、文化資産として評価報告する。

2.基本データ
横浜市大倉山記念館(旧 大倉精神文化研究所本館)  
  所在地:横浜市港北区大倉山2丁目10-1(東急東横線大倉山駅より徒歩7分)
  竣 工:昭和7(1932)年4月
  施 主:大倉邦彦
  施 工:竹中工務店
  設 計:長野宇平治、荒木孝平
  構 造:鉄骨・鉄筋コンクリート造り3階建て
  面 積:延べ床 約820坪(2,709平方m)

3.歴史的背景
 建造物ができた昭和初期は、日清・日露戦争で国粋主義が広がり、関東大震災、昭和恐慌と続き、物理的にも精神的にも混乱した時期で、建築面では古典主義から次の様式へ変化しヨーロッパ建築様式の模倣から脱却する時代だった。建築家は欧州の新芸術運動や新様式の息吹を訪欧で直接目の当たりにすることも多く、新技術の採用とともに様式に変化をもたらした。〔2〕

4.記念館の成り立ち
 実業家で教育者でもあった大倉邦彦(1882-1971)(以下 邦彦)〔3〕は、社長として社員教育の必要性から発し国の教育界・思想界の乱れを憂え、大倉精神文化研究所(以下 研究所)の設立とともに私費を投じ本館を建築した。〔4〕
 研究所の目的は「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」〔5〕ことで、指導者育成のため一流研究者を集め学術研究や学生・教育者等の教育と附属図書館を開設する。〔6〕

 運営は邦彦の私財で賄っていたが戦後は財政難が続き、昭和56(1981)年に横浜市に土地を売却し本館を寄贈。研究所と図書館はその場に残った。横浜市は改修の上で保存を図るとともに文化施設として昭和59(1984)年に記念館を開設。地域に密着した催し物やロケ地に活用され、平成3(1991)年には横浜市指定有形文化財となる。

5.建造物の特徴
 古典主義建築の第一人者 長野宇平治(1867-1937)(以下 長野)〔7〕は研究所の「東西文化融合」を掲げた邦彦の理想に深く共鳴し、古典主義にとらわれず古代ギリシャ以前のプレ・ヘレニック様式という世界的に初めての建築様式〔8〕を用い、さらに東洋の意匠も取り入れた東西文化が溶け合う独特の様式美を持たせた〔9〕。記念館となった今もほぼ原形をとどめている。

本館の構成
・エントランスホール(中央館):2階
・ホール(講堂):3階
・東館(集会室10室、記念館事務室)、西館(附属図書館と研究所):1階から3階
・背面に中庭を囲んだギャラリー(回廊):2階

 外装は全体に白く〔10〕正面玄関のみ石が貼り付けられている。〔11〕。正面入口前の階段の上に4本の柱、その上のペディメントは中央に正倉院御物の八稜鏡を模した鏡〔12〕とその左右に向かい合う鳳凰のレリーフ装飾、見上げると四角い塔屋とその正面に6本の柱が見える。どの柱も下部が細くなる独特な円柱(プレ・ヘレニック様式)である。

 エントランスホールには正面に階段、吹き抜け天井からステンドグラスを通した黄金色の光がさす。ステンドグラスの下のテラコッタ製の16頭の鷲と獅子の塑像〔13〕のいずれかと見上げる者の視線が合うようになっている。床や壁、装飾がある階段手すりは素朴な荒削りの石〔11〕で仕上げられ寂寥感さえ漂い、掛け合わされ荘厳な趣がある。
 かつて「心の間」と呼ばれ、神の化身・使いと考えられていた鷲と獅子を配することで神や仏に見守られ誠の心に帰り神仏に近づく準備をし、続く殿堂(現ホール)に入る、という邦彦の考えを表現した場所である。

 階段を上がった先のホールでは、四隅に檜でできた裾細り(プレ・ヘレニック様式)の太い二本一組の円柱、その上部の寺社建築の木組みを取り入れた斗栱や天井の木組み(東洋の意匠)、左右の窓や壁の意匠(プレ・ヘレニック様式)が違和感無く共存し重厚感を醸し出している。〔14〕

6.建造物の価値
6-1 様式
 一貫して古典主義建築を貫いていた長野の最晩年作の唯一無二の作品である。
 日本の近代建築の潮流から外れ、いわば規格外のため現代の建築専門家の評価は分かれるが〔15〕、施主の求めた東西両洋における精神性を見事に表現し、長野が行き着いたプレ・ヘレニック様式という点を評価する。

6-2 地域における役割
 市民が気軽に利用できる歴史的建造物であるだけでなく、地域の歴史・文化の保存・発展に貢献する研究所の研究活動〔16〕の場、及び専門図書館として、長く根付いていることは評価できる。
 建造物というモノが地域への文化貢献というコトを導く。施主の建築主旨「形式は信念の具象である」(形式は建物、信念は邦彦の使命感=研究所の目的)〔17〕という言葉はここにも生かされている。

 また、建造物の存在は人間に見えない影響を与える。世界的建築家の隈研吾(1954~)は幼少期に近所に住んでおり、当時はお化け屋敷として眺め影響を受けたという。〔18〕
 住宅地の公園の中にある存在は、第二第三の隈研吾を生み出す大きな可能性がある。

7.比較事例:精神修養の場「求道会館」
 東京都文京区本郷の求道会館は、浄土真宗の僧侶 近角常観 〔19〕(1870-1941)(以下常観)の信仰を伝える仏教の教会堂で、一般人の精神修養の場として大正4(1915)年に竣工された。常観の「寺院には見えない仏教施設」という要求に、建築家の武田五一(1872-1938)はヨーロッパの教会堂形式をとり内部の意匠は東西文化の折衷様式で応え、調和よく荘厳な趣をもたせた。〔20〕
 武田五一は長野と同じ世代の建築家で、主に関西で活躍し様々な様式の建築を残しているが、日本建築の良さを大切にした建築家である。〔21〕
 閉鎖していた求道会館は平成6(1994)年に東京都有形文化財に指定され、創建当初の形に修復後の平成14(2002)年に開館した。現在は講演会や演奏会、結婚式等の活用や、常観の哲学を後世へ伝える文化財で月1回の一般公開を行なっている〔22〕。

 記念館とともにユニークな施主の世界観を建築の諸所で表現し、東西文化を融合させた建築様式や意匠をとっている点が共通する。
 しかし、求道会館は常観死後、後継者不在で50年間閉鎖され荒れてしまった。
 一方、研究所別館は戦中には軍隊が入り戦後は進駐軍による家具の接収等で荒れていったが、補修できなくとも途切れること無く活かされ、記念館となった今は身近な歴史的建造物として広く一般に利用されている。

8.今後の展望と課題
 記念館は指定管理者制度の導入で管理者は任期5年で公募される〔23〕。認知度の低さは横浜市平成30年度文化施設指定管理者業務評価でも課題にあがり、「観光のためにわざわざ来場するレベルの魅力不足」という厳しい指摘もあった。〔24〕
 東京に目が向いている区民には、強いアピールや世界に通用するイベントでなければ魅力的に映らない。
過去には国内外の著名アーティストが多数参加したアート展や国際的評価を受けたライトアップフェスティバルの実績があった〔25〕が、現在は殆ど地域住民向けイベントである。

 そこで筆者はグローバルを念頭にしたイベントを提案したい。
 地域性を考慮し著名な出身者を使ったイベントを行う。例えば隈研吾に記念館の思い出を含めた講演と映像のインターネット配信等。
 また、邦彦と交友のあったインドのノーベル文学賞受賞者タゴール(1861-1951) 〔26〕をテーマにしたイベントは研究所と共催で行なわれているが、グローバルへの発信を視野に入れてみたらどうか。〔27〕
世界的に例が無いプレ・ヘレニック様式を世界中に発信し価値を問い認知を高めることは、地域の大きな誇りに結びつく。

9.まとめ
 建造物の魅力は、実際にその地に立ち見て感じてこそ分るものだが、存在の背景となる施主・設計者の思いを知ることで知的な興味や好奇心が増え魅力が膨らむ。
 大倉山駅の駅名が建造物竣工後に大倉山駅と改称したことを知る者は少ない。〔28〕
 多くの興味深い事実が未だ隠れている記念館〔29〕は、ただの箱物ではなく後世に残すべき生きた文化遺産であり、より認知度を上げるべき資産である。

  • 1 大倉山記念館の正面(2020年8月11日筆者撮影)
  • 2_1_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0001 添付(1)大倉山記念館の外観の写真と場所(地図)
  • 2_2_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0002 添付(2)平面図、正面の意匠の写真
  • 2_3_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0003 添付(3)エントランスホールの吹き抜け上部、プレ・ヘレニック様式の例の写真
  • 2_4_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0004 添付(4)ホールの意匠の写真
  • 2_5_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0005 添付(5)求道会館の写真
  • 2_6_%e6%b7%bb%e4%bb%981-6_page-0006 添付(6)その他(椅子、肖像画ほかの写真)

参考文献

【註釈】
〔1〕
・人口
:横浜市制作局総務部統計課情報課「横浜市人口ニュースNo.1129(令和2年9月1日現在)」によると、人口、世帯数ともに港北区が一番多い。(横浜市の人口/世帯数:3,757,630人/1,731,071世帯、内港北区:356,368名/173,189世帯)
(推計人口・世帯数【最新】https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/jinko/maitsuki/saishin-news.html 2021年1月28日閲覧)
・ベッドタウンの表現
:横浜市調査季報vol.175(2014/12)「港北区・定住層を呼び込むには~区の人口動態・地域から考える~」」でも使われている
(竹ノ内真行、松本貫之 「《7》区別人口動態分析 2.港北区・定住層を呼び込むには~区の人口動態・地域から考える~」、『調査季報175号・特集/横浜の人口を読む』、横浜市、2014年https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/shien/tyousakihou/175.html  2021年1月28日閲覧)
〔2〕新技術や様式の変化
・鉄筋コンクリートの骨格の上に多種多様な建築様式
・日本の伝統が見直され、西洋様式一辺倒では無く和洋折衷の自由な様式の採用 等
〔3〕大倉邦彦
<事業家の側面>
:起業家の大倉孫兵衛は出版業や洋紙問屋と製陶業で事業を成功し、その長男和親は日本陶器(ノリタケ)・大倉陶園・東洋陶器(TOTO)・日本碍子(日本ガイシ)等、近代製陶業の基礎を築きあげている。洋紙問屋の大倉洋紙店は孫兵衛の養子の大倉文二が引き継ぎ、邦彦は大倉文二に見込まれ養子となり、社長となって企業を発展させた。
戦後はA級戦犯容疑者となり容疑が晴れ釈放されるまで時間を要したため会社からは一旦退いたが、会社の危機に請われて復帰し復活させる等、企業経営者の手腕は優れていた。日本能率協会の元会長 森川覚三氏(1896-1974)は、邦彦に惹かれ戦後の座禅会に参加している。能率協会の経営哲学懇話会である一隅会の名称は邦彦が名付けた。
邦彦は孫兵衛の哲学に影響されたこともあり、真の経済活動は利益追求ではなく個人の成長の上に会社の発展があり、国家が反映し、自分の活動は天から与えられた使命事業と考える。
<教育者としての実績>
:研究所設立の前には自邸内に第一高等学校生徒や慶応義塾の学生、アジアの留学生を寮生活させての教育、出身地の佐賀県で農村工芸学院(職業訓練女学校)を設立と教育、自邸近くに富士見幼稚園の設立等を行なっている。
研究所設立後は、請われて東洋大学の学長を2期勤め(1937-1943)、研究所所員の応援もさせ無償で大学経営の立て直しに尽力し基盤整備を行った。
〔4〕場所は当初、自宅近くの東京都中目黒に土地を購入したが、周辺が開けてしまい趣旨に合わなくなり、昭和3年に横浜市の土地一万坪を五島慶太から購入した。土地代と建築費で約70万円といわれている。
研究や教育の場の本館のほか、広い敷地内に研究所員の住宅、学寮、宿、弓道場や神社、禊場まで作っていった。
〔5〕引用元:大倉精神文化研究所ホームページ(沿革 設立の主旨)(2020年12月20日閲覧)
http://www.okuraken.or.jp/zaidan/enkaku/
〔6〕研究所の活動内容
・研究活動では古文書古記録の副本作業や『神典』(古事記/日本書記/風土記/万葉集等をまとめたもの)『大日本精神史』の編纂刊行等、戦後は『日本思想史文献解題』の編纂出版、飛鳥から近代までの閣時代の精神文化の研究や実用の学の研究
・図書館経営
・実践活動として修養会の開催、戦後は神道講習会や座禅会、講演会等
〔7〕長野宇平治:辰野金吾(1854-1919)の弟子として知られ全国の日本銀行等の重厚で格調高い建築を数多く手がけている。
設計者として長野宇平治の名前で紹介されることが殆どであるが、実施設計は長野の弟子の荒木孝平が行なっており、邦彦の依頼で長野宇平治の名前が表に出ることになった。
(安田徹也『大倉精神文化研究所の建築史研究』横浜国立大学博士論文、P59)
〔8〕長野が採用したのは、古代ギリシャを遡るクレタ・ミケーネ文明の建築様式で、これをプレ・ヘレニック様式と名付けた。
クレタ・ミケーネ様式と表現した論説(勝又俊雄「大倉精神文化研究所の建築の研究」『大倉山論集』 第47輯、大倉精神文化研究所、2001年)もあるが、本稿ではプレ・ヘレニック様式で統一する。
〔9〕東西文化が溶け合った独特の様式美は、当初の長野の設計図には無くプレ・ヘレニック様式でも無かったが、邦彦の要望に応じ長野が変更していったことが分る設計図等が残されている。(安田徹也『大倉精神文化研究所の建築史研究』横浜国立大学博士論文)
プレ・ヘレニック様式の意匠例写真:添付(3)
〔10〕外装の白さ:建築当初は三色斑入り白セメント吹付という塗装仕上げで、日本初の吹付塗装が行なわれた建築だった。(現在は異なる。) 写真:添付(1)
(小俣一夫『NSK50周年記念:吹付けの歩んだ道』、日本建築仕上材工業会、 平成27年)
〔11〕凝灰石。商品名は石川県小松産の千歳石
〔12〕正面入口のペディメント  写真:添付(2)
(星原大輔「白亜の殿堂 大倉山に現る」『大倉山論集 第64輯』、大倉精神文化研究所、2018年)
〔13〕塑像は東京美術学校(東京芸術大学)教授で彫刻家の水谷銕也(1876-1943)作。プレ・ヘレニック様式とは異なるが、長野作品の装飾彫刻の多くを担う。 写真:添付(3)
〔14〕寺社建築の木組みを取り入れた斗栱  写真:添付(4)
〔15〕建築家の評価の例
・できそこないの古典もどき。安物のポストモダン建築といった印象。キッチュな魅力
(井上章一『現代の建築家』、エーディーエー・エディタ・トーキョー、2014年11月、28ページ)
・異様な空間をかもしている。しかし、洋の東西にかかる多用な様式を折衷しながら、他の折衷建設がおちいりやすい珍奇、軽さ、雑駁感はみじんもなく、力強い統一感に貫かれている。
(藤森照信『日本の建築「明治大正昭和」3国家のデザイン』、三省堂、昭和54年2月20日、7~8ページ)
・出版記念フォーラム(2007年6月に書籍「都市の記憶3」を記念したイベント)でのコメント
http://www.officebldg.jp/images/report/report_18.pdf (2020年12月27日閲覧)
建築史家の鈴木博之:当時の建築家のありとあらゆる教養を組み合わせて作った不思議な建物。ケチのつけられない建物
建築家の藤森照信:長野の古典的素養がすごかった、他の人がやったらもっとめちゃくちゃになる
〔16〕研究所附属図書館は哲学・宗教・歴史・文学等が中心の専門図書館で、公立図書館と同じように誰でも利用できる。
また、研究所の研究の中の地域の歴史・文化の保存・発展に貢献する研究活動の例では、港北区発行の情報紙「楽・遊・学」の「シリーズ わがまち港北」で港北区内各地の郷土史や地域の文化・伝承などを無償で毎月執筆(1999年~2018年まで計232回)し、その内容は3冊の書籍となり電子版も最近発行された。
https://wagamachi-kohoku.jimdofree.com/
区内の図書館や小中学校に配布され、執筆した現所長で歴史家の平井誠二氏は港北区民表彰を受けている。
〔17〕建築主旨「形式は信念の具象である」:研究所本館開所式の挨拶で邦彦が述べたことば。
〔18〕隈研吾『ひとの住処1964-2020』新潮社、2020年2月、25~32ページ
〔19〕近角常観(ちかずみじょうかん)(1870-1941)
:真宗大谷派の僧侶。若き日の欧州留学の体験を踏まえ、青年学生と寝起きを共にし自らの信仰体験を語り継ぐ場としての求道学舎を本郷の地に開き、隣接地に広く公衆に向けて信仰を説く場として求道会館を建設する。 仏教界のみならず幅広く同時代の知識人に大きな影響を与えた。
〔20〕求道会館:煉瓦造り一部鉄筋コンクリート造りの二階建て。キリスト教の礼拝堂のような形式となっているが、正面壁面に六角堂が鎮座する。純和風の白木による銅板葺屋根のこの小さなお堂は内部に仏像も安置され、この空間だけ見ると純然たる仏堂の意匠である。 写真:添付(5)
〔21〕武田五一:大学で西洋建築を学びながらも卒業論文に茶室建築をテーマにしいる。
〔22〕求道会館事務局に2021年1月15日に電話取材による
〔23〕現在の指定管理者は日比谷花壇・西田装美共同事業体で2016年4月~2021年3月(コロナ禍で2022年まで1年延長予定)
〔24〕横浜市の平成30年度文化施設指定管理者業務評価 (2021年1月10日閲覧)
https://www.city.yokohama.lg.jp/business/kyoso/public-facility/kaku- katsuyou/bunka/gyoumuhyoka/30bunkahyoukakekka.html
〔25〕実施を知っている人はおらず資料は殆どなかったが、実施したという情報は次の調査季報より判明
齋藤文人「2.地域の歴史と市民の活動 (2)大倉山記念館の保存と活用」、『調査季報97号・特集/まちの特徴づくり―歴史、文化とのかかわりのなかで』、横浜市、1988年3月
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/shien/tyousakihou/97.html (2021年1月28日閲覧)

・神奈川「芸術-平和への対話」展
:1986年に国連国際平和年を記念して「芸術ー平和への対話展」実行委員会が神奈川県・横浜市との共催で実施。当時活躍中の国内アーティスト約100名、ドイツ人アーティスト約50名の作品を展示した他、パフォーマンスやコンサート講演会などが行われた。
展覧会の会期中に記念イベントとして行われた現代作家ナム・ジュン・パイク(白南準)とピアニストの山下洋輔のジョイントコンサートは、作品化されたピアノと共に映像記録として展覧会実行委員長だった若江漢字氏夫妻の私設美術館(カスヤの森美術館)で公開されている。(2021年1月に若江漢字氏夫妻に直接取材)

・ライトアップフェスティバル「ArtMove’87」:1987年に実施され国際的評価を受けた(上記の調査季報より)
※展示会の様子:「夏の野外展から-2-大倉山アートムーブ’87--夜はさらに美しく(展覧会)」、『美術手帖』586号、美術出版社、1987年
〔26〕ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)
:アジア初のインドのノーベル文学賞受賞者
タゴールが昭和4年に訪日した際に邦彦の自邸で一ヶ月間滞在し交流を得たことがきっかけとなり、邦彦は「東西文化の融合」を掲げと考えられている。タゴールは帰国後のお礼として自署を邦彦に送り、のちにタゴール記念会の図書と逢わせ、タゴール文庫として付属図書館に収蔵・公開されている。
〔27〕インターネットによる情報発信は、記念館がFacebookを行なっているが、内容はあくまでも地域向けイベントのご案内のみ。 https://www.facebook.com/okurayama.memorial.hall/
〔28〕大倉山駅は大正15年(1926)、東急横浜電鉄(現 東急)神奈川線開通時に農村地帯の太尾に太尾駅として開業。研究所開設後は名の無い丘が大倉山と呼ばれるようになり、昭和7年(1932)東横線全線開通に合わせ大倉山駅に改称される。
名称変更は東急が邦彦側に駅名候補を募り、候補の中から東急が決定した。そのやり取りの書簡が残っている。当時の駅周辺は田畑のみしかなく、研究所以外の駅の利用者も殆どいなかった。地名は2007年以降に太尾から大倉山に変わっている。
〔29〕例えば、武者小路実篤(1885-1976)の描いた邦彦の肖像画、建設時に購入された大きな法隆寺の日本画等、直接関係無さそうな絵画であっても東西文化が合わされた記念館の理解の一助になる。
また、パイプオルガン設置計画がありホールに設置のための改修跡まで残っており、昭和6年にドイツのワルカー社の最終見積依頼書も残っている。財政が許せば設置していたと考えられる。(安田徹也『大倉精神文化研究所の建築史的研究』横浜国立大学 博士論文、学位授与年月日2010-03-25)
ホールは仏教や神教が中心の殿堂として使われていたが、そこに並んでいた椅子は教会の椅子としか思えない形態であり、また実際にオルガンが設置されていれば更に不思議な空間であった。 
写真:添付(6)
・殿堂に並んでいた椅子(ロビー等に置かれている)
・邦彦の肖像画:伊香賀隆「武者小路実篤が描いた大倉邦彦ー研究所所蔵展ー」、『大倉山論集 第56輯』、大倉精神文化研究所、2010年3月
・法隆寺絵画(名称不明、作:越田勝治氏、昭和4年12月30日付で300円の領収書が残っている)

【参考文献】
・青木祐介『開港150周年記念 横浜建築家列伝』、横浜都市発展記念館、2009年
・石田潤一郎「武田五一 日常の中の前衛建築家」、『日本近代建築家列伝 生き続ける建築』、鹿島出版会、2017年
・朝日新聞横浜支局編『残照 神奈川県の近代建築』、朝日新聞横浜支局、昭和57年
・五十嵐太郎、菊地尊也『天井美術館』、グラフィック社、2019年
・井上章一『現代の建築家』、エーディーエー・エディタ・トーキョー、2014年
・大倉精神文化研究所編『講演集 大倉邦彦と精神文化研究所』、大倉精神文化研究所、2002年
・大倉精神文化研究所編『大倉精神文化研究所 沿革史稿本』、大倉精神文化研究所、1996年
・大倉精神文化研究所編『大倉精神文化研究所 沿革史稿本 第二冊』、大倉精神文化研究所、2000年
・大倉精神文化研究所編『大倉邦彦傳』、大倉精神文化研究所、平成4年
・隈研吾『ひとの住処 1964-2020』、新潮社、2020年
・神代雄一郎『近代建築の黎明 明治・大正を建てた人びと』、美術出版社、1963年
・田原幸夫 『建築の保存デザイン』 学芸出版社 2003年6月
・平井誠二『わがまち港北』、「わがまち港北」出版グループ、2009年
・平井誠二、林宏美『わがまち港北2』、「わがまち港北」出版グループ、2014年
・平井誠二、林宏美『わがまち港北3』、「わがまち港北」出版グループ、2020年
・藤井恵介 他『カラー版 日本建築様式史』、美術出版社、1999年8月
・藤森照信『日本の建築「明治大正昭和」3国家のデザイン』、三省堂、昭和54年
・藤森照信『近代建築〈下 大正・昭和篇〉』、岩波書店、1993年
・藤森照信『建築探偵神出鬼没』、朝日新聞社、1990年
・藤森照信『近代日本の洋風建築 開化編』、筑摩書房、2017年
・藤森照信『日本の近代建築(下)-大正・昭和篇-』、岩波書店、1993年
・文京ふるさと歴史館編『近代建築の好奇心 武田五一の軌跡』、文京区教育委員会、平成17年
・松波秀子「長野宇平次 悔い無き建築人生」、『日本近代建築家列伝 生き続ける建築』、鹿島出版会、2017年
・村松貞次郎『日本近代建築の歴史』、日本放送出版協会、昭和52年
【論文】
・伊香賀隆「武者小路実篤が描いた大倉邦彦-研究所所蔵展-」、『大倉山論集』第56輯 大倉精神文化研究所、平成22(2010)年
・勝又俊雄「大倉精神文化研究所の建築の研究 補遺」、『大倉山論集』第49輯、大倉精神文化研究所、平成15(2003)年
・勝又俊雄「大倉精神文化研究所の建築の研究」、『大倉山論集』第47輯、大倉精神文化研究所、平成13(2001)年
・林宏美「大倉山記念館のデザインと設計者長野宇平次展」、『大倉山論集』第63輯、大倉精神文化研究所、平成30(1013)年
・平井誠二「竣工後の大倉精神文化研究所本館」、『大倉山論集』第56輯、大倉精神文化研究所、平成22(2010)年
・安田徹也「大倉精神文化研究所の設計過程」、『建築史学』第50号、建築史学会、2008年
・安田徹也『大倉精神文化研究所の建築史的研究』(横浜国立大学 博士論文)、学位授与2010-03-25"
・星原大輔「白亜の殿堂 大倉山に現る―新発見の資料から読み解く―」、『大倉山論集』第64輯、大倉精神文化研究所、平成29(1017)年
【雑誌】
・「改修:長野宇平治の遺作を修復 大倉精神文化研究所」、『日経アーキテクチュア』227、日経BP社、1984年
・平井誠二「一隅会と大倉邦彦の思想」、『JMAマネジメントレビュー』Vol.16No.9、日本能率協会、2010年
・平井誠二「形式は信念の具象である-精神文化図書館の建設-」、『専門図書館』No.266、専門図書館協議会、2014年
・松波秀子「特集1 新・生き続ける建築 長野宇平治  悔い無き建築人生」、『LIXIL eye 』2015年02月号、LIXIL、2015
【Webe閲覧】
・横浜都市発展記念館ホームページ
『ハマ発Newsletter』第12号、「昭和の横浜をつくった建築家たち」2009年
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/hamaN.html (2020年12月29日閲覧)
・三幸エステートホームページ
「日本のクラシックホール」―出版記念フォーラム 
https://www.sanko-e.co.jp/read/memory/classic-hall/ (2020年12月27日閲覧)
・LIXILホームページ
「文化財のリノベーションー求道会館」『第4回リノベーションフォーラム』
https://forum.10plus1.jp/renovation/forum/004chikazumi/004lec03.html(2021年1月12日閲覧)
・大倉精神文化研究所ホームページ http://www.okuraken.or.jp/ (2021年1月28日閲覧)
・大倉山記念館ホームページhttps://o-kurayama.com/ (2021年1月28日閲覧)
・求道会館ホームページ http://www.kyudo-kaikan.org/top.html(2021年1月28日閲覧)

年月と地域
タグ: