三溪園 ーその価値の継承のためにー

水谷 彰男

三溪園 ーその価値の継承のためにー

1 はじめに
横浜市中区本牧三之谷58-1にある日本庭園「三溪園」は、明治39年の開園から百余年、国内外の観光客に親しまれ、四季折々の色を見せてくれる情緒あふれる庭園である。18㌶に及ぶ敷地に、京都や鎌倉などから秀逸な建築物を移築しこれらを庭園に配した。平成19年国の名勝に指定され、揺るぎない価値を与えられている。園を創始した原三溪という人物と合わせ三溪園の魅力に迫り、その「価値」について考察し、課題と展望を考える。

2 原三溪と三溪園
(1) 原三溪
三溪園の創始者である原三溪(富太郎)は岐阜出身で、学問を修める為17歳で上京し、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。傍ら、跡見女学校で歴史を教えていた。そこで横浜の豪商生糸売込商「亀善」(原善三郎)の孫娘屋寿と出会い原家に婿入りした。善三郎の死去後家督を継ぎ、合名会社に改組するなど急速に社の改革を推し進め商才を発揮した。
三溪は実業家としての才覚に留まらない多面的な魅力に富んだ人物であった。第一次大戦時、輸出が滞り日本の生糸が大暴落した。その際、自社の損失を被ってまでも生糸業の存続に尽くした。この時整理銀行として設立され初代頭取を務めたのが、現横浜銀行の前身である横浜興信銀行である。時に、関東大震災によって家を失くした市民に三溪園内を解放し、傷心の市民の拠り所となった。
南画家の高村杏村を祖父にもつ三溪は幼少期から優れた美術に触れ、その素養を培った。東洋・日本古美術の名品を培われた審美眼をもって数多く蒐集した。現在多くが国宝・重要文化財の指定を受けている。自らも絵筆をとり優れた作品を多数残している。また、多くの次世代の若き日本画の天才たちを発掘・支援・啓発した。三溪は彼らに蒐集した美術品を惜しげもなく見せ、その意欲をさらに駆り立てた。
近代数寄者の嗜みとして、三溪も茶会を営むようになった。茶室の「蓮華院」を自らの好みで作り、バビロンやペルシャの茶碗を用いて、そこで初めての茶会を営んだ。大正12年、三溪園内で2回目となる大師会茶会が催された。振る舞われた料理は異例に少なく来客を驚かせたが、どれも美味で皆が満足した。
三溪は、奉仕家として美術家及び美の養成家として、また数寄者として、横浜の日本美術の茶の、現在と将来を独創的かつ高い視座から見つめていた。

(2) 三溪園
三溪園は、自然の風情ある趣きを活かし三溪が精魂を傾けて造った日本庭園である。三溪園は原家の私庭でありながら「皆に愛でられる園」でありたいという三溪の願いから「遊覧御随意」の看板を掲げて無料で公開された(現在は有料)〔註1〕。近隣の子どもたちは、わが庭のように日々遊んでいた。
三溪園が他の庭園と比べ異彩を放つのは、関西や鎌倉などから蒐集した古建築物を園内の適所に巧みに配置したことである。入口の門をくぐるとまず大池が目に入り、丘の上に旧燈明寺三重塔〔写真1〕が見えて来る。池のほとりを進み「内苑」に入ると数寄屋の臨春閣〔写真2〕が現れる。さらに丘を上ると、月華殿、天授院、聴秋閣〔写真3〕と、外苑の開放的な明るさから徐々に侘びた空間へと変化していく。現在園内には重要文化財建造物が10棟、市指定有形文化財建造物が3棟ある〔註2〕。近代の自然主義に基づく風景式庭園として傑出した規模、構造、意匠をもち、加えて保存状態も良好であり、学術上、芸術上、鑑賞上の価値は極めて高い。
三溪は、禅僧で作庭家である夢窓疎石を作庭の範とし〔註3〕、それは園内随所、特に内苑の構成によく表れている。禅の思想には、その根幹を成す「空の思想」〔註4〕が存在する。三溪の篤行を見るにつけ、作庭は元より全ての身の処し方に禅の思想が通底していたと考えられる。残心たる心構えをもって、自らの審美眼を研ぎ澄まして造られた三溪園は原三溪作の芸術作品と言っても過言ではない。

3 三溪園保勝会の取り組み及び新江ノ島水族館との比較からみる課題
新江ノ島水族館は、その前身である江ノ島水族館を全面リニューアルし平成16年に完成した。神奈川県のPFI事業として、水族館に「なぎさの体験学習館」〔註5〕を併設して運営が始まった。平成27年には183万人と過去最高の入場者数を記録した。旧館時代から蓄積された様々なアイデアとそれを可能にする技術やノウハウを生かし、学習と楽しさが両立する「エデュテインメント型水族館」(education〈教育〉とentertainment〈娯楽〉を組み合わせた造語)として、展示、ショー、物販・飲食を一体的な施設とサービス構想をもって具現化させていった結果である。アカデミックな志向が強く、大学など学術機関との共同研究も継続的に行っている。また、地元漁師との太い繋がりを保持していることで相模湾の生物に特化した展示を可能にしている。。
館は県立湘南海岸公園の中の「海洋総合文化ゾーン」に位置づけられており、「海洋文化や海洋環境の重要性を次世代に伝える海洋文化活動の拠点づくり」という目的が掲げられている。なぎさの体験学習館では、海で拾ってきた素材を材料にアート作品を作る子ども向けのワークショップが通年行われており盛況である。
蓄積されたノウハウ、アカデミックな取り組み、地域との連携、学習と楽しさの両立、これらがリンクし周密なコンテンツとなって提示されることで、来場者の感動を生み目的のための素地がつくられている。
私庭であった三溪園は、昭和28年財団法人三溪園保勝会に移行し、運営・管理が始まった。三溪の多くの篤行を肌身で感じ、無料で開放されていた当時と、三溪の与った功績や人格に通暁せず、有料となった現在の園を訪れる人々の価値基準が相違していることは想像に難くない。三溪園は、現在名勝指定を受け、その価値は揺るぎないものとなったが、いかに来園者にその価値を刻み続け、園を継承していくかを考えなければならない。
平成13年までの入場者数は年間50万人前後で推移していたが、その後、増減はあるものの40万人前後で推移している。園の永続のためにはより多くの収益が必要であるという。それを促すべく様々な催物が行われてきたが、課題も多い。旧来、「花」や「和」に関連した「定番催事」が通年行われてきているが〔註6〕、現代の利用者が求める情報・体験を利用者の文脈に適した形状で提示するといった「デザインされた」コンテンツへの昇華性やその連関性は乏しい。大学などの学術研究対象としての来園も継続性は無く学術的素材として確立されているとは言い難い。過去には、遠足で訪れる幼稚園・小学校も多くあったが昨今は数件のみである。また、園内に3軒ある茶屋の運営は園とは切り離されており、園が一体となって「食」で楽しませる取り組みは成熟していない。
両者は、その運営・経営母体の性格に懸隔があることは否めない。然りとて、三溪園保勝会の取り組みにおいては、明確なコンセプト、「人」や「こと」「もの」の連関・継続性が希薄であり、価値の伝わり方が断片的である。

4 公益財団法人移行後の動向
三溪園は平成24年、公益財団法人に移行し、新たな目的のもと〔註7〕取り組みが活性化されてきた。国内外の旅行会社への営業活動と園内貸し出しなどの収益事業の強化〔註8〕や、横浜市交通局市営バスの、横浜駅から園への直行便の新設(平成28年)によるアクセスの向上、特別夜間開催の「観桜の夕べ」「蛍の夕べ」「観月会」〔写真7〕の訴求力向上による浸透、加えて、アニメやゲーム関連の催物〔註9〕による新たな客層の誘致や、夏休みの期間子どもが無料になる「こどもパスポート」の発行などが奏功し、平成28年の入場者は48万人に達した。また、間門小学校〔註10〕が原善三郎の故郷の神川小学校(埼玉県)との交流をきっかけに三溪園の学習を取り入れている。来年には神川小学校の生徒たちを迎え、間門小の生徒がガイドをしながら園内散策をする予定である。
園では、課題を踏まえ「名勝」の価値にさらなる豊潤さを付与するための取り組みが始まっている。

5 おわりに
園に40年勤務する川幡参事は、三溪園は原三溪の作品であり、なるべく原初の状態を保つことが園の命題である。そのなかで、来園者に造作物は元より三溪の生き様を併せて案内し続けていくことが何より大切であると語ってくれた。
物理的な空間造形と、そこに宿る三溪の思いとを「デザインされた」コンテンツを触媒として紐付け、「知」と「体験」の相乗を生むことにより、それぞれのアイデンティティに組み込まれ、「価値」は色褪せることなく未来に引き継がれるであろう。

  • 0001 註釈
  • 0002 註釈
  • 2jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真1】旧燈明寺三重塔(きゅうとうみょうじさんじゅうのとう、重要文化財)  三溪園のシンボル的存在であり、園内のほとんどの場所から仰ぎ見ることができる。大正3年、現在の木津川市加茂町の燈明寺から移築された。三溪は幼いころ過ごした岐阜の神戸の日吉神社三重塔の記憶から、三重塔を園内に据えることを切望していた。全体の意匠は純粋に伝統的な「和様」式である。第二次世界大戦による損傷が大きかったが、修理担当者の推理の集積により、原初のかたちに変更を加えながらも見事に復元されている。
  • 3jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真2】臨春閣(りんしゅんかく、重要文化財)  聴秋閣と合わせ、三溪園内の建物のなかでの白眉である。大阪の春日出新田の八洲軒と呼ばれる建物を明治38年頃に購入し、三溪園の地で大正4年から着工、大正6年完成。内苑の池に面して建つ数寄屋風書院の建物で、第一屋から第三屋までの三棟からなり、第一屋に玄関が付属する。第三屋だけ二階建てで、残りは平家である。屋根は檜皮葺き、庇部分は薄板を使った杮葺きである。「東の桂」と称され、よく桂離宮と比較される臨春閣だが、重厚な桂離宮のイメージに対し、庇を深く大きく取って、母屋を小さく見せたり、大阪時代は瓦葺きであった屋根を檜皮葺きにするなど、移築に際し、三溪自らのアイデアで軽快に見せる変更が加えられている。
  • 4jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真3】聴秋閣(ちょうしゅうかく、重要文化財)  元和9年、将軍家光上洛の際、佐久間将監に命じて二条城内に造らせた建物である。その後の経緯は多くの謎に包まれている。大正11年、二条厚基邸から三溪園に移築された。杮葺きの二階建てで、二階には大きく窓をとり、手摺りを廻らせて眺望を楽しむ作りになっている。非対称形の外観は変化に富み奇想の建築である。紅葉に囲まれた奇想の建築は見事に自然に溶け込んで、園内建築の白眉と呼ぶにふさわしい。
  • 5jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真4】旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん、重要文化財)  明治40年、駆込寺として名高い鎌倉東慶寺から移築された。身舎(もや、主体部)は桁行三間、梁間三間、これに裳階とよぶスカートがつく。「方三間裳階付き」という形式である。屋根は寄棟造の茅葺き、裳階は杮葺きである。正面の中央に棧唐戸を入れ、その両脇にやや簡素化した棧唐戸が入っている。正面両脇には格子窓、背面は中央一間が板唐戸、両脇は格子窓、両端は板壁。側面は板壁で、火灯窓と板唐戸がある。このデザインは禅宗様と呼ばれており、建物は基壇の上に建ち、内部に床を張らないなどの特徴がある。
  • 6jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真5】旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく、重要文化財)  昭和35年、岐阜県大野郡壮川村岩瀬から移築された。昭和32年、御母衣ダム建設に伴い水没することになった矢箆原家の住宅を救うべく、三溪園が譲渡希望を申し入れ、同33年当主からの無償譲渡が決まった。一重三階、屋根は入母屋造茅葺きの合掌造の民家である。東面にくれ板葺きの下屋を出して厠、湯殿、縁側を付け、北面に土庇を出し、南面には水屋を付属させる構成である。規模は桁行十一間、梁間八間、建坪は九十一坪余りと非常に大きい。屋根が大きく屋根坪は二百二十二坪五合。現在も定期的に囲炉裏に火を入れて、茅を燻している。
  • 7jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真6】旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう、重要文化財)  三溪園内での最初の移築建築である。天正22年、豊臣秀吉が母の大政所のために京都大徳寺の天瑞寺に建てた寿塔が、明治24年に洛北瑞光院に移され、さらに同33年に大徳寺黄梅院に移された。同35年、三溪園に移築された。梁間三間、桁行三間、屋根は入母屋造りの本瓦葺き、正面中央の観音開きの扉やその上の欄間には彫刻が施され、唐破風の下、虹梁の上には彫刻付きの蟇股がある。彫刻は風雨にさらされ彩色が落ち、ほとんど色が見えないが、唐破風奥の蟇股の鳥や桐の葉にはわずかに色彩が残っている。かつて、この彫刻はすべて鮮やかな色彩で飾られて、実に華やかな雰囲気だったはずである。
  • 8jsessionida350216cdeb917b08a6d442e2fd961c4 【写真7】「観月会」での三溪園。旧燈明寺三重塔がライトアップされ、中秋の名月と相まって幻想的な雰囲気を醸し出している。園内に街灯がほぼないことがこの風景を際立たせる。写真には入っていないが、三重塔の向かって右側は、過去、すぐ裏手の海岸まで行ける谷があり今より広がりのある景観があった。高度経済成長期、海岸が埋め立てられ石油コンビナートが造られたことで景観を損なったため、築山が造られた。

参考文献

新井恵美子著『原三溪物語』神奈川新聞社 2003年
石毛大地著『横浜の歴史を彩った男 —原三溪別伝—』自主出版 2016年
大山邦興編『週刊日本庭園をゆく第28回配本 時を超える禅の世界 夢窓国師の庭』株式会社小学館 2006年
斎藤清著『原三溪 偉大な茶人の知られざる真相(すがた)』株式会社淡交社 2014年
白崎秀雄著『三溪 原富太郎』株式会社新潮社 1988年
西和夫著『三溪園の建築と原三溪』株式会社有隣堂 2012年
枡野俊明著『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』日本放送出版協会 2005年

公益財団法人三溪園保勝会 事業課羽田雄一郎編 資料『三溪園の維持・保存についてー庭園整備を中心にー』2016年
公益財団法人三溪園保勝会編集・発行 園内パンフレット『三溪園』発行年不明
公益財団法人三溪園保勝会編集・発行 園内パンフレット『2017年三溪園 花と行事』2017年
公益財団法人三溪園保勝会編 資料『公益財団法人三溪園保勝会の概要』2014年
公益財団法人三溪園保勝会編 資料『平成27年度事業計画書』2014年
財団法人三溪園保勝会 川幡留司著 寄稿文『原三溪』寄稿先原本、寄稿年不明
財団法人三溪園保勝会編集・発行『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ ー今と昔、変わらないこと・なくなったものー』2003年
財団法人三溪園保勝会編集・発行『原三溪と美術—蒐集家三溪の旧蔵品』2009年
財団法人三溪園保勝会編集・発行『三溪園写真集』1993年

www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/toukeisho/new/t161612.xlsx『第95回横浜市統計書』2016年
www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sanrosen/ 横浜市交通局『ぶらり観光SAN路線』2016年
www.enoshimamarine.com/enosui.html 株式会社江ノ島マリンコーポレーション『新江ノ島水族館』
www.enosui.com/history.php?category=1 新江ノ島水族館『歴史』
www.itmedia.co.jp/business/articles/1609/28/news036_7.html ITmediaビジネスONLINE『過去最高!新江ノ島水族館がV字回復したワケ』2016年
www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/020601/files/2014091000229/02zengo.pdf 『資料 全国水族館リニューアル(新設)前後の入館者数』2013年
www.sankeien.or.jp/index.html『三溪園』
www.sankeien.or.jp/pdf/honkoku24(8-3).pdf『公益財団法人三溪園保勝会平成24年度決算・事業報告書』2013年
www.service-js.jp/modules/spring/?ACTION=hs_data&high_service_id=162 SPRINGサービス産業生産性協議会『新江ノ島水族館(第6回受賞企業・団体)』

【取材協力】
公益財団法人三溪園保勝会、同会参事・川幡留司氏、総務・岩本美津子氏、職員・島崎哲氏