里山に想いが響く 手賀ばやし
はじめに
千葉県柏市手賀[1]は手賀沼[2]を見下ろす高台にある。集落の中心にある興福院[3、図1-①②]では「あんばさま[4]」という神事[5]で無病息災・五穀豊穣を祈願し、初囃子と本囃子(以下、夏祭り)が行われる。神事を盛り上げるのが、代々継承されてきた「手賀ばやし[6]」ある。過疎化・少子高齢化[7]が進むなか、人々は手賀ばやしをどのような思いで、どのように継承しているのか、手賀の取り組みを取材・報告し、今後について考察する。
Ⅰ-Ⅰ 手賀ばやし
「手賀ばやし」は、お囃子と奉納舞いを行うところに特色がある。手賀ばやしを継承する「祭りばやし保存会(おはやし連)」は会長S・K氏(70代)[8]と70代以上の男性6名、30代の男女6名である。楽器は大太鼓1、付け太鼓2、鉦1、笛1、大拍子太鼓が使われる。夏祭りには、山車の上で「大笑い」の面をつけたヒョットコ踊り[図1-③]を手賀ばやしが景気づける。曲目は、オハヤシ、ニンバ、カマクラ、シチョウメ、ショウデンの5曲で[9]、シシとキツネ[図1-④]、ヒョットコとオカメ[図1-⑤]、眠り獅子などが演じられる。大拍子太鼓は三番叟と式三番[10、図1-⑥]で使われる。
1989(平成元)年、「地域の伝統文化を考える機会」とするため柏市立手賀東小学校中村幸夫校長(当時)の要請に答え、手賀の古老とS・K氏が毎週学校に出向き子供達と手賀ばやしの練習を重ねた[11]。練習は一時途絶えたが1998(平成10)年、同校林禎紘校長(当時)が再開し新校長に引き継がれた(現在は行われていない)。現在、手賀ばやしを継承しているのは社会人となった当時の子供たちである。2003(平成15)年、手賀ばやしは柏市指定無形文化財に指定された[12]。
Ⅰ-Ⅱ 夏祭りのようす
2019(令和元)年7月7日、興福院を訪ね夏祭りの様子を取材した。当日12時30分から、祭りを運営する世話人代表・世話人[13]が境内に居並び御祈祷とお祓いを受ける[図2-①]。山門から大人神輿・子供神輿が出発する。最後に、お囃子連を乗せた山車[図2-②]を20名前後の引き手が綱を持ち引き進めていく。山車は地区を巡り[図2-③]、畑の道に出て村境の兵主八幡神社[図2-④]まで進むと祠にお参りし手賀ばやしを奉納する。帰路を折り返し、手賀東小学校入口、ガソリンスタンド[図2-⑤]、金村商店各所で休憩とふるまい(スイカ・キュウリ・飲み物・菓子など)[図2-⑥]を受ける。各所で手賀ばやしを演奏・奉納舞いを行う。オハヤシと「大笑い」の面をつけたヒョットコが披露され、集まった住民を楽しませて賑わっていた[図2-⑦]。手賀ばやしの音につられ、家の奥から走り出てくる人、玄関の前で揃って待つ家族、山車の後ろを踊りながらついて回る父子[図2-⑧]など地域の人々が思い思いに祭りを楽しんでいる姿がみられた。「図3-①②」
興福院の境内に戻ると山車の前にしつらえた舞台で、再び手賀ばやしと奉納舞いが披露される(2019年は降雨のため舞いのみ急遽中止された)。5軒のテントには焼きそばやワタアメなどの売り場が並び、親子連れが祭りくじを楽しんで解散。片付けを終え公民館で直会となった。
Ⅱ 祭りの背景
手賀ばやしの発祥は不明である。あんばさまは、兵主八幡神社に大杉神社[14]の石祠があり江戸時代1757(宝暦7)年建立の銘が事から、あんば大杉信仰の流れを汲む神事であるとされている。あんばさまとは茨城県稲敷市阿波(あば)に鎮座する大杉神社の守護神である。あんば大杉信仰は航海守護・水難除け・疱瘡除け[15]に御利益があるとされ、人々に篤く信仰されていた民間信仰である。とりわけ享保年間から幕末まで[16]は、疫病が流行ると悪魔祓いの大杉囃子[17]が江戸市中にまで大流行した。大杉囃子は、佐原囃子や手賀ばやしの原型と考えられるが、佐原囃子が都市芸能化したのに対し、手賀ばやしは地域内で継承された素朴な旋律を残しているところに違いがある[18]。
Ⅲ 手賀の取り組み 評価点
手賀ばやしを守るため、地域内の関係にとどまらず地域を越えて伝統行事を継承している事を評価する。
1.担い手として女性や子供も協同して取り組むことになった。手賀ばやしは代々長男だけに継承されていたが小学校での継承活動を行なったことで手賀ばやしに触れる子供が増え、女性を含めた現在の担い手を育てる事となった。S・K氏は自身の思い出として「手賀ばやしは大人が演奏するもので子供は楽器に触らせてもらえなかった。早く大人になって太鼓を打ちたいと憧れていた」と語った。小学校での活動後は「いつまでも鎖国をしていては…黒船が日本にきた時代ではないと思っています。(2003年)[19]」と想いを述べている。代々続いたしきたりを変えることは大きな決断であったが、大きな転換点ともなった。
2.柏市指定無形文化財に指定されたことで、地域で親しまれていた「あんばさまのまつり」を、手賀ばやしを特色とした「手賀のまつり」として取り組むようになった[図4-①]。以後、柏市ではHPで「手賀ばやし」として夏祭りの開催を紹介している。
3.「子供を中心とした祭り」へとイベント化した。1月30日・7月1日に行われていた神事を両日に近い日曜日にし、運営者・参加者など誰もが参加しやすくなるよう変更した。子供神輿・樽神輿[図4-②上]や子供向けの催しを用意したことで、]8月のお盆に帰省していた家族が友人・知人を連れ、7月の祭りに合わせて帰省するようになり[[図4-③]、祭りの日は地区全体が盛り上がるようになった[20]。地域内で行われていた祭祀の門を外に開いたことで、地区外の子供たちも手賀ばやしに触れる機会となっている[図4-④下]。
Ⅳ 八坂神社の若白毛ばやし
比較対象として、柏市若白毛の八坂神社で継承されてきた「若白毛ばやし」を挙げる。1876(明治9)年勧請した八坂神社には、夏の例祭(7月23、24日)で奉納される若白毛ばやしが継承されていた。楽器は太鼓1、小鼓2、鉦1、笛で構成され、獅子舞でお清め、悪魔祓いをした後、狐・ひょっとこ・オカメ、大黒などの面をつけ舞う。神輿や山車が賑やかに下の宿まで往復していた[21]。
若白毛ばやしは、後継者不足により一度廃れていた。1989(平成元)年、柏市立手賀西小学校石田誠教頭(当時)の尽力により、若白毛の古老と手賀のおはやし連の指導を受けた同校の子供たちによって「若白毛の子供囃子」として復活した。しかし、教員の異動、児童数の減少、指導者が失われた[22]事で2004(平成16)年より再び中断し、神前の御祈祷のみ厳かに行われている。
Ⅴ おわりに
手賀ばやしの継承に小学校の取り組みは大きかった。子供たちは手賀ばやしの練習を経て地域の文化を知り、地域との絆を深め、成長を遂げた。また、地域の人々が手賀ばやしへの新たな取り組みを始めるきっかけになったともいえる。とはいえ、次世代への後継者問題が解決したわけではない。貴重な文化財としての記録をアーカイブに保存することも急がれる。今後必要となる山車やお囃子の面・衣装の補修については、クラウドファンディングなどを提案する。
少子化が進み、小中学校での取り組みを期待することは難しくなっている。「お囃子」という伝統文化に触れる機会は少ない。そこで、夏祭りに「手賀ばやし」の一日体験を提案する。継承や習得には遠く及ばないが、笛や太鼓に触れる経験してから子供神輿を担げば、子供たちの耳に響く手賀ばやしはBGMからリアルな体験に変わるのではないかと考える。未来への小さな種を撒くことになる。
手賀の人々の手賀ばやしへの思いは深い[23]。名称を変え、形はイベント化しても行事の中心は「あんばさま」を基とする神事であり、手賀ばやしを継承する大きなモチベーションとなっている。過疎化・少子高齢化の進む手賀では、祭りの継承は風前の灯ともいえる。しかし、人々は人智を越えた自然への感謝と畏敬の念を失わず、現実的で柔軟な対応をしながら手賀ばやしを継承してきた。人々が守り続けてきた想いが、世代を超えて受け継がれる事を願い報告とする。
参考文献
【註一覧】
[1]手賀のある旧沼南町は、2005(平成17)年柏市に併合され町名は失われた。「柏市HP 旧沼南町の概要」http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020100/p000138.html (閲覧2020年1月10日)
[2]手賀沼。かつて江戸(東京)湾に注いでいた利根川は、江戸幕府の河川改修事業によって流れを東の太平洋側銚子河口に付け替えられた(利根川東遷)。手賀沼は江戸時代以降、霞ケ浦・印旛沼と共に東遷事業によって生まれた湖沼のひとつである。
・「国土交通省 関東地方整備局 利根川上流河川事務所HP:利根川東遷」
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00185.html(閲覧2020年1月10日)
・「大利根博物館HP:栄える利根川」
http://www2.chiba-muse.or.jp/www/OTONE/contents/1518701087948/index.html(閲覧2019年8月17日)
・「手賀沼水環境保全協議会HP:手賀沼の概要」
http://www.tesuikyo.jp/?page_id=1925(閲覧2020年1月10日)
[3]興福院。戦国時代の原氏に帰依を受けた真言宗の古刹である。興福院境内の碑より。
[4]あんばさまにはアンバ様・大杉様・天狗様他さまざまな表記があるが本稿では「あんばさま」とする。
[5]興福院には1868(慶応4)年以降の廃仏毀釈・神仏分離令により地域に点在していた祠や鎮守が習合された。住職が去った後、若い庄屋たちは新しい時代の文明を摂取しようとキリスト教を導入し、ギリシャ正教による冠婚葬祭も行なわれた(旧手賀教会堂)。しかし、日露戦争の勃発で多くの村人は興福院の檀家に戻り、寺でありながら「神事」を守りつづけている
旧手賀教会堂。1882(明治15)年に設立された茅葺屋根の教会。現在も新教会で8戸の信者が教えを守り続けている。新教会内には、山下りん(茨城県笠間市出身、日本を代表する女性イコン画家)の直筆絵画が信仰の対象として大切に守られている。
柏市教育委員会発行「旧手賀教会堂の創立」パンフレット抜粋。
新手賀教会信徒Y氏談 2019年11月22日。
[6] 柏市指定無形文化財の表記により、手賀囃子ではなく「手賀ばやし」とする。
[7]手賀区の人口。
手賀区総人口は2025年3712名と推計される。地区の手賀東小学校全校総児童数50名のうち地区児童数は37名(他13名は小規模特認校枠で他地区から通学)。
「柏市HP 2018年 コミュニティエリア別将来推計人口推移」
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020100/p035188_d/fil/jinkousuikei.pdf (閲覧2020年1月12日)
「平成30年度 手賀東小学校概要 4月13日現在」
http://www.tegae-e.kashiwa.ed.jp/?page_id=19 (閲覧2020年1月12日)
[8]2019年11月22日、手賀ばやしを継承されている「祭り囃子保存会」会長S・K氏にインタビューを行った。
[9]お囃子で演奏される曲目で、諸説あるがニンバ(二羽・印旛)、カマクラ(鎌倉・神座カミクラ)、シチョウメ(仕丁舞・四丁目)、ショウデン(聖天・昇殿))とも書く。手賀ばやしでは、現在シチョウメ・ショウデンは演奏されていない。
「教育芸術社HP 郷土の音楽」
https://www.kyogei.co.jp/shirabe/kyoudo/text14.html (閲覧2020年1月12日)
[10]三番叟(さんばそう)、白い面をつけた翁が剣と鈴を持ち、黒い面をつけた黒式尉(こくしきじょう)が剣と扇をもって舞う。式三番(しきさんば)、作男が袖で福を掬う仕草を繰り返す祝い舞。
「柏市教育委員会 柏市HP 手賀ばやし」
http://49.143.240.84/soshiki/bloghakunchu6/p019340.html (閲覧2020年1月12日)
[11]「大北寛HP おはやし学校 手賀東小物語」
http://kan.web5.jp/menu-new/ (閲覧2020年1月20日)
[12]「柏市指定文化財(無形文化財・史跡)HP」
http://www.city.kashiwa.lg.jp/about_kashiwa/culture/1006/1005/mu/index.html
(閲覧2020年1月20日)
[13]神事を運営するのは、世話人代表(地区長)と世話人による「祭り保存会」である。
世話人代表。地区5所から各1名(計5名)。年初めに大杉神社に代参し(大杉詣)御神体と世帯数の御札を貰い受けてくる。世話人、各4名(計20名)。世話人の任期は2年。4名のうち2名は残って前年の祭りの経験を新世話人に引き継ぐ。かつて大杉詣は世話人らの慰安を兼ねた1泊旅行であったが、現在は銚子漁港で新年会を兼ねた昼食のみの日帰りとなった。S・K氏 談、2019年11月22日。
[14]大杉神社。全国に670社ほどある大杉神社の総本宮。
「大杉神社HP 大杉神社の歴史」
http://oosugi-jinja.or.jp/?page_id=8 (閲覧 2020年1月28日)
大杉神社の鎮座する場所は「常陸風土記」に「安婆(あんば)嶋」として登場する。
石田肇『千葉県北部地方 農村の変貌』創栄出版、1992年、P48。
[15]疱瘡(天然痘)。疱瘡は子供の死亡率が高く治癒後の後遺症も酷かったために最も恐れられていた疫病(伝染病)であった。日本国内で疱瘡の終結宣言がなされたのは1979年(昭和54年)である。
・「NIID国立感染症研究所HP 天然痘とは」
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/445-smallpox-intro.html
(閲覧2019年4月14日)
[16]享保年間(1716~1736)は幕政の変革期であった。人々の心を暗くしていた政情不安を悪魔祓えの唄と踊りで発散させたことが大杉囃子流行の背景にある。
・千葉県立関宿城博物館『平成19年度企画展図録 天狗への祈り』千葉県立関宿城博物館、2007年、P14。
[17]大杉囃子。1617(元和三)年に銚子の田中玄蕃が醤油醸造の成功祈願の御礼として十二座神楽とともに紀州より伝えられたのが原初とされている。
「大杉神社HP あんば囃子の流行」
http://oosugi-jinja.or.jp/?page_id=13 (閲覧2019年4月20日)
「あんばは大杉大明神 悪魔をはらってヨ~イヤサ あんばの方から吹く風は ほうそう軽いと申します よ~いやさ」と唄われた。藤田稔『関東の民間信仰』明玄書房、1973年、P14 2行目
[18]「お祭りサウンドコレクションHP」
http://tradevents.life.coocan.jp/olddocuments/Sounds_j.html#OhsugiBayashi
(閲覧2020年2月27日)
[19]沼南町史編さん委員会『沼南町史研究 第7号』沼南町教育委員会、2003年、p164。
[20]「家族が近所の子供を連れてくるので、初めて会う子供ばかりだが夏祭りに遊びに来てくれる子供たちはどの子供も手賀の子供だと思っている」夏祭り会場インタビュー2019年7月7日(男性60代)
「普段から、手賀に新鮮な野菜やコメを買いに訪れる(近郊の)新興住民や個人店主も知人を連れて来てくれる」S・M氏談、2019年11月22日。
[21] 若白毛ばやし
沼南町史編さん委員会/編『沼南町史 旧手賀村の歴史 近世史料』、沼南町教育委員、2004年P189~191。
[22]S・K氏談、2019年11月22日。
[23]神輿の安全運行を見守っていた消防団の団員(30代)は「(子供の頃から)自分にとって祭りがあるのは当たり前の事」と答え、「(直会の)握り飯が旨い事」が一番の思い出だと付け加えた。路地で鮮やかに山車を運行していた男性(70代)は「(祭りを)自分の代で終わらせるわけにはいかない」と語った。2019年7月7日、夏祭り会場インタビュー。
【取材協力】
千葉県柏市地域支援課
千葉県柏市生涯学習部文化課
千葉県柏市手賀在住 手賀囃子保存会会長 S・K氏(男性70代)
千葉県柏市手賀在住 祭り保存会 E氏(男性60代)
千葉県柏市手賀在住 S・M氏(女性70代)
千葉県柏市手賀在住 S・M氏(女性80代)
千葉県柏市手賀在住 新手賀教会信徒Y氏(女性70代)
千葉県柏市手賀在住の皆様
【参考文献】
・藤田稔『関東の民間信仰』明玄書房 1973年
・石田肇『千葉県北部地方 農村の変貌』創栄出版 1992年
・千葉県史料研究財団 『千葉県の歴史 別編 民俗1』千葉県 1999年
・千葉県立大利根博物館『祈りのこころ いのりのかたち』千葉県立大利根博物館 2001年
・沼南町史編さん委員会『沼南町史研究 第7号』沼南町教育委員 2003年
・沼南町史編さん委員会/編『沼南町史 旧手賀村の歴史 近世史料』沼南町教育委員 2004年
・千葉県立関宿城博物館『平成19年度企画展図録 天狗への祈り~大杉神社と利根川水運~』千葉県立関宿城博物館 2007年
・「第8回手賀のまつり」パンフレット、2019年
・柏市教育委員会 文化課「旧手賀教会堂の創立」パンフレット
・柏市HP 「手賀ばやし(動画)」
http://www.city.kashiwa.lg.jp/fanfun/bloghakunchu/bloghakunchu6/list201407.html
閲覧2020年1月14日
・柏市HP 「手賀ばやし(動画)」
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020300/kashiken03.html 閲覧2020年1月14日
・柏市HP 「フリー写真集」
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020300/p007695.html 閲覧2020年1月19日