飯能焼の研究ーその魅力と未来ー

福田 恵子

飯能焼は、埼玉県飯能市で生産されている陶器である。地元では広く知られ、筆者も子供のころから愛用してきた。しかし、伝統産業ではなく、逆に新興産業というわけでもない。一旦途絶えた窯が、ごく最近になって再興したのである。一旦途絶えた窯がなぜ再興したのか。それに足るだけの大きな魅力がある筈である。
本研究では、この飯能焼の魅力について評価し、その魅力をもとにどのように未来へ展開していくことができるのかを検討する。
復興前の飯能焼は、笠間焼等と同じ、江戸時代後期から生産が行われた、所謂「民窯」の一つである。多くの民窯がそうであったように、明治半ばに大量生産の安価な陶磁器の流通に伴い廃業している。褐色の焼き締め肌、緑色を中心とした厚い釉薬、そして太い巧みなイッチンが特徴であった。伝世品がほとんどなく、製品全体の様相が明らかでないため「幻の飯能焼」と称されてきた。
その生産の詳細について、近年生産の中心であった原窯が飯能市教育委員会によって発掘され、徐々にその様相が明らかになりつつある(富本1999・2006・2007・2008)。特に絵師腰塚小四郎によるイッチンの絵付けは評価が高く、鳩山町の熊井窯など、周辺への伝習が行われていたと推定されている(註1)。調査による資料は、行平鍋や片手鍋等が多いが、江戸や川越、多摩に流通した製品は合子類や徳利類がほとんどである。
江戸時代、日本橋橋本屋は主力商品として飯能焼を扱っていた。浅草松本紅屋の香水「ふじの雪」の容器は、褐鉄色の手のひら大の合子で、「ふじの雪」のロゴと富士山、雪が見事なイッチンで描かれ、中身よりも容器が人気だったという(双木1988pp.72)。江戸・東京市中からの注文生産も多く行われていたのである。多くは販売によって流通したために、地元での伝世がなかったとも考えられる。
明治時代中頃に途絶えたこの飯能焼を、1975年に岐阜県土岐市から移住した美濃焼の窯元、虎沢英雄が再興した。高山不動尊にお参りした帰りに、青梅市の安楽寺に置かれた飯能焼に触れ、その太書きに衝撃を受け、それを契機に飯能に移転したという(虎沢1988)。やはり、特徴的な太書きのイッチンが魅力だったのである。
実際に窯元では、イッチン描きが施された多くの日常雑器が販売されていた(写真1)。
虎沢は作家としての側面も持つ。五色沼の青に想を得た「翠青磁」は、独特のコバルトブルーの釉が、飯能焼の褐色の器肌と相俟って独特の色合いを呈している。作品の評価も高く、ファエンツァ国際陶芸展金賞などを受賞している。窯元でも別に展示室が設けられ、数千円~数十万円のものまで、一品物としての価格帯で販売されていた(写真2)。
もう一人、ほぼ同時期に「破草鞋窯」を開いたのが岸道生である。窯の名が示すように、徹底して飯能の土にこだわり続け、専ら日常雑器を製作した。埼玉県本庄市出身の岸は、虎沢とは対照的に、脱サラして会津本郷焼の宗像亮一に師事し、1982年に破草鞋窯を開く。特筆されるのは、その製品の多くが「彩の国優良ブランド」に認定されている点である。地元の陶土を用い、長年地場産業としての陶器生産を続けた功績により飯能市から表彰を受けている。2017年死去。残念ながら後継者はなく、廃業されている。没後も人気は根強く、2019年に「飯能焼の陶工・岸道生の世界」が開催された(写真3・4)。
対照的な二人が魅せられた飯能焼の魅力とは何か。飯能市立博物館の尾崎泰弘は「とても薄く手取りが軽い」点を特徴として挙げる(三栄書房2018pp.50)。かなり高い製作レベルに達しており、岸は幕末の製品のあまりの薄さに感嘆していたという。
一方、虎沢は腰塚のイッチンに魅せられた。
確かに両者とも首肯される大きな特徴である。しかし、それだけが20世紀初頭に途絶えた窯を復活させる原動力になったとは思えない。何か他の魅力があるのではないか。
筆者はその一つとして「色」を挙げたい。飯能焼は、粘土に鉄分が多いため濃い緑褐色を呈する。近隣の「民窯」の中でも一際濃い色合いである。同じ灰釉でも、この色合いの肌に掛けているので、独特のより濃い深い色が現れる。
加えて、独特の多孔質のざらつき気味の肌合いを挙げたい。飯能の北にある同じ秩父山地に連なる丘陵地である寄居の古代末野窯の製品によく似ている。軽量であるのも多孔質のためとも考えられる。
製品としての完成度、芸術性の高いイッチン、独特の色合い、ざらついた肌合い、これらが相俟って、朴訥ながらどこか垢ぬけた飯能焼の魅力になっていると考えられる。現代に再興した二人の陶工の製品も、それを意識としても無意識としても継続している。往古の飯能焼と同様の魅力が筆者には感じられる。
では、これからの飯能焼はどのようにあるべきなのだろうか。前述のように、岸亡き後破草鞋窯は絶えてしまった。つまり虎沢のみが飯能焼を継続しているのである。
アネモメトリで取り上げられた有田焼や、話題を集めている信楽焼等の、国内外のデザイナーを起用した大々的な試みなど到底できない。
しかし、未来が暗いわけではない。窯元に行けば、一日おきに陶芸教室が行われ、休日には来訪者が絶えない。女性や外国人の来訪者も多いという。渓流に臨み、展示室のほかに喫茶室が設けられている。ネットで検索を掛けても好評である。つまり、窯元自体が観光スポットなのである。
実際に、陶芸教室に筆者も参加してきた(写真5・6)。鉢が娘の、皿が筆者の作品である。残念ながら教室では信楽の粘土が用いられていた。逆に素人が扱えるほど飯能の土は優しくないのであろう。試みに筆者の作品と同様の灰釉を掛けられた購入したマグカップを比較すると、全く色合いが異なるのがよく分かる(写真7)。やはり飯能焼の釉の色合いは、その土によるものなのだ。
一緒に常連の年配の女性3人組が、土瓶を製作していた。かなり年配の女性の指導員が、なかなか手がうまく動かない筆者にも粘り強く接して下さり、また挑戦したいと思った。
製品の魅力と合わせて、こうしたリピーターを生むような雰囲気や参加しやすさが、今後の鍵になるのではないだろうか。
虎沢の娘さんは、飯能市街に近い美杉台にギャラリー兼住居を設け、多くの作家の作品が展示されている。眼を引くピンクの建物なので観光客が立ち寄ることも多いようである。作品は滑らかな風合いで、特徴的なハートのイッチンが施され、思わず手に取りたくなるものである。
こうした現在の様子からは、二つのキーワードがあるのが分かる。一つは「観光」である。現在の飯能焼は、「思わず…」「また来たい」と思わせるような雰囲気や魅力がある。ギャラリーの来訪者に若い女性が多いのも、そうした魅力によるものなのだろう。
二つ目は「ハンドメイド」である。筆者とご一緒した年配の女性陣のように、継続して通われている方も多い。窯元は決して便利な場所ではない、それでも通われているのである。それだけの魅力があるということなのだ。
女性の間のハンドメイドの人気は根強い。自分だけのオリジナルへの志向も強い。陶芸はハンドメイドの親分である。しかも、きちんとした技術的な裏付けと人を引き付ける高いデザイン性が必要である。つまり、量的な拡大、産業としての成功を目指すのではなく、地元の名を冠した陶芸を新たな「ハンドメイドの雄」、リーダー的な役割としてデザインし直すことが鍵なのではないだろうか。市の名前を冠した、地元なら誰でも知っている陶芸に参加しているというのも大きな魅力なのではないだろうか。
前述の虎沢の高いデザイン性、岸のあくまで地元にこだわった活動の高い評価を想起しても、そうした方向性は妥当性が高いと考えられる。
再興してから44年、飯能焼は筆者と同じ年月を経て、新たな展開をしていくと考えられる。

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  • 2_%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%92%e3%80%80%e7%bf%a0%e9%9d%92%e7%a3%81%e3%81%ae%e7%9a%bf 写真2 翠青磁の皿(2019年3月24日、飯能窯にて)
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  • 4_%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%94%e3%80%80%e5%b2%b8%e3%81%ae%e8%bf%bd%e6%82%bc%e5%b1%95%e3%81%a7%e5%b1%95%e7%a4%ba%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e4%bd%9c%e5%93%81 写真4 岸の追悼展で展示された作品(2019年2月24日、飯能市立博物館にて)
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参考文献

註1 富本久美子氏御教示

参考・引用文献
尾崎泰弘『黎明のとき 特別展図録』、飯能市郷土館、2001年
三栄書房「幻の飯能焼」『やきものの里探訪 男の隠れ家10』pp.50、2018年
富本久美子『飯能焼原窯跡第1・2次調査 飯能の遺跡(27)』、飯能市教育委員会、1999年 
富本久美子『飯能焼原窯跡第3・4・5次調査 飯能の遺跡(34)』、飯能市教育委員会、2006年
富本久美子『飯能焼原窯跡第6次調査 飯能の遺跡(35)』、飯能市教育委員会、2007年
富本久美子「飯能焼原窯跡の研究(1)-年代と編年-」『飯能市郷土館研究紀要第4号』pp.33-53、飯能市郷土館、2008年
虎沢英雄「飯能焼との出会い」『まぼろしの飯能焼』pp.73、私家版、1988年
双木利夫『まぼろしの飯能焼』、私家版、1988年

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