復活した「蕨双子織」―地場産業の挑戦―
はじめに
埼玉県蕨市には一旦消滅したが復活を遂げた「双子織(ふたこおり)」という織物がある。現在ではふるさと納税の返礼品としても扱われ、少しずつ認知度が高まりつつあるがまだ知られていないことが多い。本稿では蕨市の歴史を振り返りながら双子織が生まれた経緯と復活によって地域に与えた影響を考察する。
1.歴史的背景及び基本データ
蕨市は埼玉県南東部に位置し、面積5.11㎢の日本一小さい市であり、江戸の情報がいち早く入る立地条件である。ではなぜこのような土地で幕末から昭和の中頃まで全国に知られるほどの双子織を制作することになったのだろうか。
1-1.室町時代から江戸時代における地域の状況
貞治五年(1366)、足利氏一門の渋川義行により蕨城が築城される。しかし永禄十年(1567)に渋川義基が戦いに破れると蕨城は廃城となる。この地域では古くから六斎市が開かれ、日本橋から数えて2番目の蕨宿ができると中山道を中心に栄えるようになる。一方、蕨一帯は渋川氏の家臣が帰農して開拓した農地があるものの、土壌が悪く[1]、江戸に卸すだけの生産量がない上、冷害、水害、火災等による影響で村人は貧しい生活を余儀なくされる。
2.蕨双子織の誕生
江戸時代に入ると土民衣服定[2]により百姓の衣類が布(苧麻布)・木綿に限られたことで綿織物が急速に発達し、綿糸が不足するようになる。この情報を入手した塚越村の初代高橋新五郎[3]は地元の農民を集め、農業の合間に綿作と糸つむぎを勧め、綿糸を足利、青梅の機業地へ販売する。これにより収入が増えたことで幕末期には綿糸よりも高収入となる機織業(図1)でマニュファクチュア[4](図2)へと展開していく。
2-1.蕨双子織の特徴
文政九年(1826)、二代目高橋新五郎[5](資料1)が機屋を始め、天保七年(1836)に「塚越結城」を創案する。次に三代目高橋新五郎[6]がイギリスから輸入された木綿糸(資料2)40番手糸引き揃いの二タ子(ふたこ)縞を織り出すが、これはオックスフォード織りと同じ平織りで、木綿でありながら絹のような光沢があり高密度で透けず丈夫という特徴を持っている。これに改良を重ね、明治二〇年代に60番手双糸(諸撚糸)を用い、平織り先染めの双子織を始める。明治三〇年代には超極細糸の80番手瓦斯(ガス)糸を使用したものが織られるようになる。
2-2.蕨双子織のデザイン
色彩は紺地に多彩な色糸を使ったストライプ・デザインが基調である。高橋家縞帳には紺地に赤、黄、緑といった鮮やかな配色や、金子家縞見本にあるような強烈に表現された縦のストライプ、絣など斬新な模様を見ることができる(資料3)。若い女工を地方から呼び寄せ[7]、創意あふれた新しいデザインが次々と生み出されていた様子は端布を通して窺い知ることができる。
3.結城紬と真岡木綿との比較
蕨の綿糸の販売地である栃木県足利市から東におよそ40km離れて結城紬(茨城県結城市)、さらに25kmほど北上すると真岡木綿(栃木県真岡市)の産地がある。結城は蕨で「塚越結城」を創案しており、真岡は蕨と同じ綿織物を扱う地域であるため「結城紬」「真岡木綿」を双子織の比較対象とする(年表)。
3-1.結城紬
結城紬は絹織物だが、鬼怒川、田川が豪雨で氾濫し、桑畑に大きな被害があった享保二年(1723)には縞木綿を生産する。出来上がった織物の評判が良かったため、模造品が各地で織られ、足利でも結城柳条木綿布と称する縞木綿が生産される[8]。享保、寛政、天保の三大改革では絹が贅沢品とされ絹織物が窮地に追い込まれるが、経糸に綿糸、緯糸に紬糸を使用し、厳しい監視の目を潜り抜ける。聞き取りに協力してもらった産地問屋奥順の新陽子は「当時、絹織物の生産をしないと文化の継承ができなくなると役人に交渉し、3名まで織り手として残ることを許されたことから、結城紬は今も家族経営なのです」と語る[9]。結城織には亀甲織や複雑な模様を織りなす地場機織と無地・縞模様を織る高機織があり[10]、昭和三一年(1956)に地場機は重要無形文化財に指定される(資料4-1)。
3-2.真岡木綿
宝永二年(1705)の『町内記録写』の木綿仕入れ先に真岡の記載があることから、すでに17世紀には真岡で木綿布が生産されていたことが推測できる。芳賀郡から真壁郡あたりまでは綿作が盛んで、綿織物と結城紬の産地は重なるが、木綿織は真岡に集貨され、晒加工の後、真岡木綿として出荷される。色は白の晒生地のみだが、晒の技術と発色の良さで、最盛期の文化・文政年間(1804~1829)には38万反以上産出する[11]。洋糸の輸入によって綿織物産業は一旦途絶えたが、昭和六一年(1986)に真岡木綿保存振興会が結成され復活を遂げる。真岡木綿工房の花岡恵子は「木綿は土から生まれて土に還る。大人着、子ども着となり、最後は雑巾になるため、資料として残っているものはほとんどありません」と語る[12]。また同館の刈部文子は「今は小物を制作するため草木染めの糸を使用し、高機織で縞模様を中心に生産しています」と話す[13](資料4-2)。
【双子織との比較】
蕨の双子織に先駆けて織物産業が発達していた結城、真岡との共通点は、農業の合間の機織で収入を得ているところである。また双子織も真岡木綿のように使い古されたため資料が少なく、一旦消滅したが復活を遂げたところも真岡と同じ軌跡をたどっている。一方、異なる点は蕨が小さく痩せた土地で、蚕の養殖や綿花栽培が盛んではなかったため、洋糸に柔軟に移行できたことである。高橋家をはじめとする当時の機業者の時代の流れを読む力により洋糸が輸入された後、機織を一大産業に押し上げている。
4.今後の展望
双子織が消滅してしばらく経った頃、「地域の地場産業である双子織のことを潮地先生が知らないで子どもに教えていいのですか」[14]という和楽備神社宮司の堀江清隆の一言がきっかけで、当時小学校教員の潮地ルミは機織産業に携わっていた人たちの声を記録するようになる[15]。小学校を退職した後も継続して双子織の資料を収集し、歴史の掘り起こしを行い、地域の講演会等で話をするようになった結果、双子織は再び蕨市民の知るところとなる。高齢となった潮地から後を引き継ぎ、平成に入って堀江が自らの資金を注ぎ込み双子織を復活させる。
現在、蕨市では機織りの町として毎年8月に機まつりが開催され、双子織のデザインは電子商品券や市役所の外装等(資料5-1)にカタチを変えながら人々の目に触れられている。また地域のデザイナーたちが双子織を使用したスポーツウェアや洋服、小物等(資料5-2)、商品の製造、販売を担っている。これからも資料5-1で示したように町全体で双子織のバックアップを生産者と共に行っていくことが大切である。今は双子織の生地の生産を他県に依頼しているが[16]、蕨市内で反物の生産ができるようになれば、本当の意味で地場産業の復活を遂げたことになるだろう。今を生きる人たちは何を必要としているのか、双子織が人々の役に立ち、蕨の地場産業として強く発信できるようになることが今後の課題である。
5.まとめ
蕨の歴史を振り返ると、農民たちが豊かな生活を望み、双子織をより優れた織物にするという共通の目標を持つことから、一大産業に発展したことがわかる。多くの女工が鮮やかなデザインを織り上げ、機の音が鳴り響く活気のある町に再び戻ることは難しいが、現代の双子織はまだ始まったばかりである。当時の織物産業に携わった人たちの知恵と商魂に倣い、今の時代に合った商品を目指し、双子織が再び蕨市に根付いた織物となるよう地域全体で取り組んでいくことが必要である。
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図1 高機
(蕨市編『蕨市史調査報告書 第六集 織物関係者聞き書き―蕨の織物業略史―』より引用し、筆者が名称整理)
図2 蕨市新指定文化財「機織図絵馬」イラスト
(田村均他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要第十二号』、蕨市立歴史民俗資料館、2015より引用、イラスト:竹田真依子、筆者整理) -
資料1 塚越稲荷神社と機神社
(塚越稲荷神社境内、2024年1月6日、筆者撮影) -
資料2 日本の生糸、綿糸等の輸出入金額
(鵜飼政志著『明治維新の国際舞台』、有志舎、2014 「付録表2 幕末維新期の輸出入品目詳細」横浜運上所(税関)データより一部抜粋し、筆者作成) -
資料3 二タ子織、双子織の織見本
(田村均他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要第十四号』、蕨市立歴史民俗資料館、2017 「高橋家縞帳」「金子家縞見本」より引用し、筆者整理)
(非公開) -
年表 蕨の織物(二タ子織、双子織)と結城紬、真岡木綿の歴史
(参考文献を基に筆者作成) -
資料4-1 結城紬
(「結城紬のできるまで」結城市伝統工芸館の資料を基に筆者作成、2023年10月22日、筆者撮影)
資料4-2 真岡木綿
(真岡木綿工房の資料を基に筆者作成、2023年10月22日、筆者撮影) -
資料5-1 進化する蕨双子織
(蕨市役所周辺、2024年1月6日、筆者撮影) -
資料5-2 進化する蕨双子織
(株式会社ニィニ 保坂峻、保坂郁美、有限会社クチュールカワムラ 吉村宏美にインタビューし、筆者作成、2024年1月6日、筆者撮影)
参考文献
〈註〉
[1]「大荒田耕地」の字名があるほど生産性に欠ける土地で、武蔵国郡村誌には「黒土質悪く稲梁に適せず」と記載がある。
・蕨市史編纂委員会編『蕨市の歴史 二巻』、吉川弘文館、1967年、p.889~890
[2]土民衣服定で綿が農民の衣服に使用できるようになる。麻織物より簡単に織れる綿織物が急速に発達する。
・森和彦、松下隆ほか著『地域資源を生かす 生活工芸双書 棉』、農山漁村文化協会、2019年、p.42~p.43
[3]初代高橋新五郎(1766-1816)は蕨で初めて糸商となる。高橋家四代新五郎と同一人物である。
・蕨市史編纂委員会編、前掲書、p.889
[4]マニュファクチュア(工場制手工業)を起こすことは、農業主体の地域にとって大きな産業改革となる。これにより少女を含め他地域から多くの女工が蕨で働くようになる。
・金子吉衛著『幕末マニュファクチュア論争と蕨の織物業』、川口市立図書館、1970年
[5]二代目高橋新五郎(1791-1857)
文政九年(1826)七月七日、関東大権現が新五郎夫婦の夢枕に立って機屋をするように告げる。新機台「高橋機」、後の「高機」を発明する。現在は機神様として妻のいせと共に塚越稲荷神社境内に祀られている。高橋家五代新五郎と同一人物である。
・蕨市史編纂委員会編、前掲書、p.897
[6]三代目高橋新五郎(1816-1883)
塚越結城を絹糸と綿糸で交織した「東屋唐山」を考案する。万延元年(1860)九月、横浜港にイギリス製の綿糸が初めて二梱渡来し、試織したところ日本の綿糸よりも優れていたため予約注文する。文久元年(1861)四月、二度目に輸入された洋糸二五梱を全て購入した結果、蕨で双子織等の機業が盛んになる。洋糸を用いて塚越双子、埼玉双子、東京双子を考案したとされる。高橋家六代新五郎と同一人物である。
・潮地ルミ著『双子織考』、著者発行、1992年、p3
・蕨郷土史研究会編『わらびの歴史』、蕨郷土史研究会、1967年、p71
・蕨市史編纂委員会編、前掲書
[7]潮地悦三郎、潮地ルミ著『蕨織物業史研究中間報告 第七号 蕨町地方における機織女工の労働生活に関する若干の問題について』、蕨織物工業組合、1973年
[8]坂入了他著『シリーズ・染織風土記 結城紬』、泰流社、1982年
[9]株式会社奥順 新陽子からの聞き取り調査「結城紬」、茨城県結城市、2023年10月22日
[10]坂入了著『日本の手わざ 第6巻 結城紬』、源流社、2008年
[11]坂入了他著、前掲書『シリーズ・染織風土記 結城紬』、p.50
[12]真岡木綿は白一色で織り上げ売りに出す。その先どのような加工をして何に使われていたかは把握していない。木綿布は最後に雑巾となって捨てられていたため、当時の資料はほとんど残っていない。
・真岡木綿工房 栃木県伝統工芸士 花井恵子からの聞き取り調査「真岡木綿」、栃木県真岡市、2023年10月22日
[13]糸つむぎから糸染め、機織りなど製品になるまでの一連の流れを全て一人で行う。糸車は一人一台自宅に持ち帰り毎日寝る前に内職しないと終わらない。商工会議所との契約で年4反のノルマがあり、一反は10万円程度の収入にしかならないため、好きでなければ続かない。真岡木綿は全て高機織で経糸をセットしたら7割終わったようなもの。現在は小物用にカラフルな縞織りを用い、注文に応じて幅広の木綿布等も製作している。
・真岡木綿工房 栃木県伝統工芸士 刈部文子からの聞き取り調査「真岡木綿」、栃木県真岡市、2023年10月22日
[14]和楽備神社宮司 堀江清隆からの聞き取り調査「双子織」、埼玉県蕨市、2023年2月4日
[15]蕨市編『蕨市史調査報告書 第六集 織物関係者聞き書き―蕨の織物業略史―』、蕨市、1988年
[16]生地の生産量が少なく、近隣で請け負ってくれるところがないため、現在は遠州にある機織工場に依頼している。
・前掲、和楽備神社宮司 堀江清隆「双子織」
【参考資料】
鵜飼政志著『明治維新の国際舞台』、有志舎、2014年
岡田譲編『人間国宝シリーズ―43 結城紬』、講談社、1979年
奥澤武治著『特別企画「地域シルク関連産業2」世界で稀な絹織物「本場結城紬」』、日本シルク学会誌 第29巻、2021年
金子吉衛著『幕末マニュファクチュア論争と蕨の織物業』、川口市立図書館、1970年
金子吉衛他著『わがまち蕨の戦後十五年史』、蕨郷土史研究会、1989年
坂入了他著『シリーズ・染織風土記 結城紬』、泰流社、1982年
坂入了著『日本の手わざ 第6巻 結城紬』、源流社、2008年
潮地悦三郎、潮地ルミ著『蕨綿織物業史研究中間発表 第一号 明治初期における蕨綿織物業の景況について』、1969年
潮地悦三郎、潮地ルミ著『蕨織物業史研究中間報告 第四号 第1次世界大戦前後における蕨地方織物業の発達』、蕨織物同業組合、1970年
潮地悦三郎・潮地ルミ著『昭和期(戦前)における蕨町織物業の発達』、蕨織物同業組合、1971年
潮地悦三郎、潮地ルミ著『蕨織物業史研究中間報告 第七号 蕨町地方における機織女工の労働生活に関する若干の問題について』、蕨織物工業組合、1973年
潮地ルミ著『埼玉県南部織物工業の史的研究聞き書き 第1集』、著者発行、1980年
潮地ルミ著『双子織考』、著者発行、1992年
田村均他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要 第十二号』、蕨市立歴史民俗資料館、2015年
田村均他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要 第十三号』、蕨市立歴史民俗資料館、2016年
田村均他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要 第十四号』、蕨市立歴史民俗資料館、2017年
髙橋勝之他著『蕨市立歴史民俗資料館研究紀要 第十六号』、蕨市立歴史民俗資料館、2019年
寺内由佳著『江戸時代のファッションと真岡木綿~織物のゆくえとサステナブルな衣生活~』、真岡市歴史教室 2023年9月2日資料、閲覧日:2023年11月5日、https://www.city.moka.lg.jp/material/files/group/32/4-2.pdf
日比暉編『そだててあそぼう10 ワタの絵本』、農山漁村文化協会、1998年
堀江清隆著『蕨双子織』、蕨商工会議所、2019年
真岡木綿工房編『真岡もめん』パンフレット、真岡木綿会館にて2023年10月22日入手
真岡木綿工房編『真岡木綿関係略年表』、真岡木綿会館にて2023年10月22日入手
森和彦、松下隆他著『地域資源を生かす 生活工芸双書 棉』、農山漁村文化協会、2019年
蕨郷土史研究会編『わらびの歴史』、蕨郷土史研究会、1967年
蕨郷土史研究会編『ふるさとわらび創刊号』、蕨郷土史研究会、1969年
蕨郷土史研究会編『ふるさとわらび第二号』、蕨郷土史研究会、1971年
蕨郷土史研究会編『ふるさとわらび第八号』、蕨郷土史研究会、1978年
蕨郷土史研究会編『ふるさとわらび第九号』、蕨郷土史研究会、1979年
蕨郷土史研究会編『ふるさとわらび第十四号』、蕨郷土史研究会、1984年
蕨市史編纂委員会編『蕨市の歴史 二巻』、吉川弘文館、1967年
蕨市編『蕨市史調査報告書 第六集 織物関係者聞き書き―蕨の織物業略史―』、蕨市、1988年
蕨市編『新修 蕨市史 資料編三 近代現代』、蕨市、1993年
【対面取材】
和楽備神社 宮司 堀江清隆「双子織」、埼玉県蕨市、2023年2月4日
株式会社奥順 新陽子「結城紬」、茨城県結城市、2023年10月22日
真岡木綿工房 栃木県伝統工芸士 花井恵子「真岡木綿」、栃木県真岡市、2023年10月22日
真岡木綿工房 栃木県伝統工芸士 刈部文子「真岡木綿」、栃木県真岡市、2023年10月22日
株式会社ニィニ 代表取締役 保坂峻、取締役兼デザイナー 保坂郁美「双子織」、埼玉県蕨市、2024年1月6日
有限会社クチュールカワムラ デザイナー 吉村宏美「双子織」、埼玉県蕨市、2024年1月6日
【参考論文】
谷謙二・飯田貴美子著『『埼玉県営業便覧』の資料的特性と明治期の埼玉県における中心地の機能と分布』、埼玉大学教育学部地理学研究報告26号 2006年、閲覧日:2023年11月11日、https://ktgis.net/lab/study/papers/tani-iida2006.pdf