稲荷ずし縁起―埼玉・妻沼に伝わる江戸の稲荷ずしに関する一考察―

渡辺 未紀

はじめに

天清浄地清浄 六根清浄 祓いたまえ 清めたまえ
一本が十六文 ヘイヘイ ありがたい
半分が八文 ヘイヘイ ありがたい
一切れが四文
サアサア あがれあがれ うまくて大きい大きい 稲荷様様

これは、嘉永5年(1852)出版の『近世商賈盡狂歌合[1][図1]』に描かれた稲荷ずし売りの口上である。
稲荷ずしは、油揚げに飯を詰めたすしで国民食として高い人気を誇る[2]。
大阪で生まれ育った筆者にとって稲荷ずしとは、三角形の油揚げに加薬飯[3]を詰めたすしであった。上京後、濃厚に煮含めた油揚げに酢飯を詰め込んだ俵形の稲荷ずしに驚き、その起源に関心を抱いた。
結論を先取りすると、稲荷ずしは天保15年(1844)頃、江戸での流行により全国に広まった。
ところが、当時の史料に登場する稲荷ずしは三角形でも俵形でもなく、冒頭の詞書通り大きく、長い形をしているのである。現在、この稲荷ずしは埼玉県熊谷市妻沼の郷土料理としてその形をとどめている。
なぜ、江戸の稲荷ずしが妻沼に現存するのだろうか。
本稿では妻沼の稲荷ずしを事例とし、流行食が郷土料理として定着した過程を調査し、稲荷ずしが持つ食文化としての価値について考察を試みたい。

1.基本データ
名称:稲荷ずし[図2]
地域:埼玉県熊谷市妻沼地域[図3]
特徴:長さ約13〜14センチ。醤油と砂糖を基本とするタレで煮込んだ油揚げに酢飯を詰めたすしである。調理工程で油揚げに裂開が生じた稲荷ずしは干瓢を巻いて補強する。稲荷ずし3本と巻きずし4切れを1人前とし「稲荷ずし」と呼称する。
概要:起源は定かでない[4]。祭事や年中行事、行楽のご馳走で昭和40年代まで当該地域では「すし」といえば稲荷ずしを指した[5]。家庭で調理する機会は失われ、現在は宝暦年間に聖天山歓喜院聖天堂[図4]西側で創業した茶屋「毛里川」を前身とする「森川寿司」、明治期に門前で茶屋として開業した「小林寿司」、戦後、聖天堂側に店を構えた「聖天寿し」の専門店3軒で販売される。

2.歴史的背景
まず、稲荷ずしの発生と伝播、定着の背景を遡りたい。

2-1.江戸のご利益機能性食品
「稲荷ずし」という名称は何に由来するのか。本章では「稲荷信仰[6]」であると仮定し考察を進めてみたい。
嘉永6年(1853)成立の『守貞謾稿』によると稲荷ずしは天保末年から流行し「最も賤価」で「両国等の田舎人」相手に商われていたという[7]。繁華街であった両国広小路[図5]での商いや見世物を支えた者たちが、棒手振り[8]や下級宗教者[9]であった。この下級宗教者が江戸中に勧請した流行神[10]が稲荷神である。稲荷神は「疱瘡[11]除け」「火除け」など健康・社会問題から「商売繁盛」「縁結び」の成就まで数多の現世利益と祟りを謳い江戸ッ子から畏敬された。贅沢と風紀を取り締まった天保の改革は、奢侈に傾倒した新興の「握りずし」を禁じ[12]、天保13年(1842)には加持祈祷や厄祓い、町内持稲荷社の社守など[13]で生計を立てていた下級宗教者の町方居住を禁じた[14]。当時の図版[図6]は、稲荷ずし売りの棒手振りが「六根清浄」の祓詞や狐など稲荷信仰の象徴を借用したことを示している。滑稽本『魂膽夢輔譚[15]』では棒手振りが「お稲荷さん」と呼ばれており、「坊主だまして還俗させて稲荷ずしでも売せたや」という流行歌[16]もまた棒手振りが還俗した僧のような存在として認知されていたことをうかがわせる。これらが示す結論は、社守の職を追われた下級宗教者が、生業とすべく「狐の好物」油揚げ[17]を用いた押しずし状の稲荷ずし[18]と製造卸ネットワークを編み出し、稲荷神のご利益と厄除けの効能を謳い売り歩いたということである。これにより、稲荷ずしは天保年間以降に文化中心地からの食文化として名称と共に全国に伝播し、地域の文化や食材に合わせ定着したと考えられるだろう[19]。
また前述の『魂膽夢輔譚』には、干瓢で補強されたとおぼしき1本の稲荷ずしが登場し、これを高級品とみる客と不良品とみる客の会話が描かれている。これこそ、妻沼に伝播した稲荷ずしの形である。

2-2.妻沼の歴史、土地風土と人
森川寿司9代目店主・堀越一章は「妻沼は米も大豆も菜種も湧き水も良質で、稲荷ずしに必要な食材が揃っていました」と言う[20]。
しかし、同等の資源を持つ地域は他にもある。妻沼にのみ継承された要因が存在するはずである。筆者は次の背景に注目した。

(1)江戸と繋がる河岸が存在したこと。
(2)干瓢の入手が容易であること。
(3)戦後のすし委託加工制度

江戸幕府は年貢米廻送のため関東一円に舟運機構を構成した。利根川南岸に位置する妻沼河岸・葛和田河岸は、石原米[21]を浅草・蔵前・両国の米倉に送るための拠点であった。これら位置関係[図7]から推測すると、奥川船の船乗りたちが稲荷ずしを妻沼に伝えた可能性が高いといえるだろう。
また、栃木県南部から良質の干瓢を入手できるという地理的条件が、大きな稲荷ずしの形を維持することに繋がったと考察する。裂開が生じた稲荷ずしを干瓢で結ぶ江戸の手法を継承し「不良品」ではなく「アタリ」という地域独自の価値を付加できたのである。
江戸で「ご利益機能性食品」として、またカット売りにより四文銭で購入[22]できる「ワンコイン・フード」として流行した稲荷ずしは、妻沼では「江戸のすし」「イナセな船乗りのエナジーバー」という価値により郷土料理として定着したと考察する。
しかし、戦時中、妻沼から稲荷ずしの姿は失われてしまった。戦後いち早く、稲荷ずしを復活させた立役者が森川寿司7代目店主・堀越福太郎である。福太郎は農家を訪れ米を、菓子組合に加入し砂糖を、東京の百貨店から海苔を調達し稲荷ずしの委託加工をはじめた。東京のすし商組合がはじめた委託加工制度とそれに倣った各地のすし商組合により、全国の「すし」の定義が小ぶりな「握りずし」に統一される一方、福太郎の尽力により妻沼の「すし」は大きな「稲荷ずし」であり続けたのである[23]。

3.他の事例との比較と展望
筆者はモノが文化的価値を保有するためには、心理的快楽を満たす情緒的価値が不可欠であると考える。本章ではこの視点を評価軸とし、地域性と対外への訴求力を兼備する他の稲荷ずしと妻沼の稲荷ずしを比較する。

3-1.裏返しの稲荷ずし
東京都港区の「裏返しの稲荷ずし」は機能的な価値が情緒的価値に移行した事例である。
現在の六本木で明治8年(1875)に創業した「おつな寿司」は、効率的に飯を詰められるよう油揚げの滑面を内に裏返していた[図8]。昭和28年(1953)からテレビ放送が始まり、近隣の放送局関係者がいつからかこの形に「裏(番組)を食う」という情緒的価値を付加し、放送・芸能関係者への手土産として用いるようになった[24]。昭和26年(1951)、麻布十番で創業した「月島家」は昭和40年代、裏返しの稲荷ずしに椎茸と蓮根を加え「健康で見通しよく裏を食い出世する」として「出世いなり[図9]」を発売した。出世いなりは、国会議員や受験生の家族が求める名物になった[25]。

3-2.恋なり
大阪市北区の歓楽街・北新地にある会員制すし店「寛龍」の「恋なり[図10]」は名称と情緒的価値が一体化した事例である。恋なりは高級クラブに納品され、ホステスから上客への手土産として贈与される。恋なりを受けとった男性客は、折箱に添えられた名刺により寛龍の暖簾をくぐることが可能になる[26]。恋なりにはハイソサエティな社交場と魅力的な女性からの承認、そして恋愛成就のご利益という歓楽街ならではの情緒的価値が込められているのである。

これら稲荷ずしの共通点は、明治維新により市井の信仰が瓦解した後にあっても「稲荷」という象徴によって内外から縁起物としての情緒的価値を請われているということである。そこには、他者との差別化や承認欲求の充足というアイデンティティの形成作業を飲食体験というコトに見出すヒトの象徴的思考が介在する。モノの豊かさやSNSの構造などにより日常がハレ化した現代社会に所属するヒトが、妻沼の稲荷ずしの価値に共感するためには郷土料理という枠組みを超えた象徴的なコトが求められるだろう。

結び
本稿では、江戸の稲荷ずしが当時の形を残し妻沼の郷土料理として定着した経緯について述べた。
妻沼の稲荷ずしにはうまさと大きさという機能的価値に加え、我々のアイデンティティを刺激する江戸からの歴史性および「伝統の形」という通時的な情緒的価値が顕在していることが明らかになった。妻沼が、歴史的資産である聖天堂と共に誇る日本の食の文化資産であるといえよう。
今後は、妻沼のまちづくりコンセプト「縁結びのまちめぬま[27]」が含意する象徴的な情緒的価値との相乗効果によって新たな価値が創造され、この食文化が末永く伝承されることに期待したい。未来に向けて、稲荷ずしの縁起の口上を物語る者が求められるだろう。

参考文献

【凡例】
「すし」の表記は、原則としてひらがなを用いる。
「すし」の漢字は、米と魚を発酵させた漬物である「鮓」、魚の塩辛を指す「鮨」、江戸末期に当て字として用いられたことから一般化した「寿司」と境界が明確でない。各すしの発生時期や文化的背景による煩雑を避けるため、本稿ではひらがなで通した。史料内の記述および店舗、商品名称は原文ママとする。


【注釈】
[1]江戸の様々な商売が描かれ「二番 左」に「稲荷鮨」が登場する(石塚豊芥子 国立国会図書館デジタルコレクションweb page〈a〉)。現代語訳は筆者による。
[2]平成28年(2016)に京樽が実施した「すしアンケート」によると、稲荷ずしは「好きなすし 上方鮨部門(生ネタを用いないすし)」ランキングで1位である(京樽web page)。
[3]五目飯の関西地方での呼称
[4]言い伝えとして、宝暦年間発生説や河岸を利用する旅人の弁当として売られていたという説(日比野 2012,pp.22-24)、船乗りが手づかみで食べ易いサイズになったという説(熊谷市総合政策部スポーツ観光課 吉田祐佳より平成29年〈2017〉9月1日メールにて回答)などがある。
[5](熊谷市教育委員会 2014,p.215)
[6]稲荷信仰は和銅4年(711)、秦伊侶具の子孫の祭祀と稲荷山の信仰が融合し、稲荷神が鎮座したことから伏見稲荷大社が創建され全国に広まった。稲荷神の姿は主祭神・宇迦之御魂神が保食神と同一視されたため女神とされ、平安時代には仏教の吒枳尼真天とも混淆した。吒枳尼真天が使役するジャッカルは日本に生息しないため白狐に置き換えられた。白狐は神獣で野生の狐とは異なるものだが、土着の狐信仰が根付いた地域に稲荷信仰がもたらされると狐が稲荷神と同一視されるようになった。16世紀、伏見稲荷大社の別当寺・愛染院の初代住持・天阿上人は、真言密教による稲荷の行法を確立し、江戸神田・辰狐王寺と伊勢・慶宝寺の住持を兼務したことから明治の神仏分離まで三都を中心に仏教的稲荷信仰の勧進が盛んであった。(大森 1994,pp.375-388,pp.565-596:大森 2011,pp.30-34,pp.47-51:笹間 1998,pp.264-268:新谷 2015,pp.124-126:中村 2009,pp.26-106:中村 2001,p.140)
[7]『守貞謾稿』には「天保末年江戸にて/両国等の田舎人のみ専らとす鮨店に従来これあるかなり」、『近世商賈盡狂歌合』には「天保年中飢饉の時より初まり大いに流行す」、『藤岡屋日記』には「去る巳年[弘化2年〈1845〉]十月頃より、稲荷鮓流行せり([ ]内筆者)」などの記述が見られる。正確な発生時期は明らかでないが、天保15年前後から流行したことを示唆している。(石塚豊芥子 国立国会図書館デジタルコレクションweb page(b):喜田川 1996,p.295:須藤由蔵 国立国会図書館デジタルコレクションweb page:鈴木・小池 1988,p.4)
[8]天秤棒で荷を担ぎ売り歩く商人のこと。
[9]山岳修験者(山伏)や行者、半俗半僧の願人坊主、民間の陰陽師など。「勧進聖」や「稲荷行者」など下級宗教者は「正一位」の神階を誇り狐の霊験譚や大名の出世譚を流布した。「六根清浄」「中臣祓」の祓詞を用い「狐憑き」や「おさき狐」などをコントロールする霊力を持つと自称した。(喜田川 1996,p.313:五来 2004,p.142:新谷 2007,pp.36-40:柳田 1990,p.555)
[10]18世紀以降、江戸の人口増加にともない遊行の下級宗教者が町にとどまり、不安を憂える町人に様々な「神」をもたらした。下級宗教者は膨大な稲荷社を勧請し、特に信仰を集めた小祠は神社になることもあった。幕末に近づくにつれ、その流行り廃りは激しくなった。(棚橋・村田 2004,p.366:中村 2003,p.242:福田 1999,pp.117-118:宮田 1981,pp.57-70:宮田 1993,pp.194-197)
[11]天然痘のこと。感染すると全身が膿疱で腫れ上がり瘡蓋に覆われた。種痘が普及するまで罪穢や疱瘡神、動物霊の祟りが原因と考えられた。一命を取り止めても失明や鼻や唇の欠損、あばたが残りお家断絶やコミュニティからの追放など社会生活に深刻な影響を与える脅威であった。(大森 1994,pp.280-297:立川 1998,pp.86-90,pp.152-161:柳田 1993,pp.366-369)
[12](喜田川 1996,p.294:日比野 1997,pp.117-120:日比野 2001,pp.29-31)
[13]下級宗教者は芸能にも従事し「鉦打ち聖の七変化」と称されるほど多様な商売に着手した。明治元年(1868)の神仏分離令により、愛染院は廃寺になり稲荷社は太政官神祇局行政下に置かれた。陰陽寮廃止や修験禁止、加持祈祷の取り締まりなど「迷信」「悪習」への偏見は下級宗教者を社会から排除した。(小島 1999,pp.336-341:笹間 1998,p.260:新谷 2007,pp.39-40:中村 2009,pp.102-111:中村 2003,p.161:宮田 1999,pp.264-278:柳田1993,p.305)
[14](坂本 1997,pp.177-185:東京都 2014,pp.418-438)
[15]浮世絵師・渓斎英泉(一筆葊主人)が弘化4年(1847)に記した教訓滑稽本。「お稲荷さん」と「干瓢」に関する記述は下記の通り(一筆葊主人 1996,p.331)。

  出目「コウおれのはそくろん(十六文)じやア。高い干瓢が少ねヱぜ。
  づぶ「干瓢あつて銭とらずだ。ナアお稲荷さん。
  すしや「なんでも売(れ)るがおありがたい。
  出目「またこいつも、中の雑物(ぞうもつ)が少ヱすくねヱ。[原文ママ]

[16]須藤由蔵は『藤岡屋日記』に弘化2年(1845)の流行歌を記している
(鈴木・小池 1988,p.4:須藤 国立国会図書館web page)。

  坊主だまして 還俗させて 稲荷鮨でも売せたや
  ごぞんじのいつでも爰にいなりずし ますます賣れる初午のとし[「初午」は『天言筆記』では「丙午」と表記される]([ ]内筆者)

[17]「油揚げ」は中世において高価な油を用いた贅沢な「揚げ物」全般を指した。狂言『釣狐』や『中陵漫録』『松尾筆記』に狐の好物として「ネズミの油揚げ」が登場する。「豆腐の油揚げ」の初出史料は元禄6年(1693)『本朝食鑑』。天保の飢饉で発生した無宿人対策として人足寄場での菜種の絞油が盛んになり「豆腐の油揚げ」が入手しやすくなったと考えられ「油揚げ」が指すシニフィエの変化により「豆腐の油揚げが狐の好物」という誤解が生じ、これが俗説に転じたと推測できる。(大森 2011,pp.119-125:喜田川 1996,p.245:坂本 1997,pp.197-218:笹間 1998,p.156:西野・羽田 1987,pp.218-219)
[18]江戸末期に外食産業が発展する以前は「すしは箱に詰めて押すもの」であった(日比野 1999,p.161)。当時の稲荷ずしには野菜、五目飯やオカラが詰められ、ワサビ醤油で食べるものも存在した。天保11年(1840)の池田瑞仙『疱瘡食物考』には「始終宜食物」の筆頭に「大豆」が挙げられている(池田瑞仙 国立国会図書館デジタルコレクションweb page)。油揚げにオカラを詰めた稲荷ずしは米の凶作時でも製造可能で疱瘡に対する薬効を特に期待できる食品であり、飢饉後の疫病発生に対する不安が売り上げに貢献したと考えられる。
[19]大きく長い稲荷ずしの形は東京に継承されることなく失われた。筆者は、その要因が明治5年(1872)施行の「東京違式詿違条例」にあると推測する。本件についての考察は今後の課題としたい。
[20]平成29年(2017)9月18年および11月28日、森川寿司にて堀越一章から対面で聴き取り。
[21]熊谷で栽培されていた良質な米。現在は「キヌヒカリ」「彩のかがやき」の栽培が主流。小林寿司では稲荷ずしに現代人の味覚に合うコシヒカリ中心のブレンド米を使用している。(熊谷市立熊谷図書館 2016,p.70:平成29年〈2017〉11月28日、小林寿司にて4代目店主・小林正樹と5代目・小林大礎から対面で聴き取り)
[22]明和5年(1768)、四文銭が発行され4の倍数の値の商品が増加し「四文屋」などで売られる軽食が一般的になっていた(竜野 2012,pp.86-88)。
[23]昭和22年(1947)、「飲食営業緊急措置例」により喫茶店以外の飲食店が休業を余儀なくされた。東京のすし商組合は、これに対抗し「委託加工業者」として米1合と「加工賃」を握りずし10貫(または8貫と巻きずし2切れ)と交換する「委託加工制度」を考案し認可を受けた。米がない客にも割増の加工賃ですしを提供する店もあった。(飯野 2016,p.352:日比野 1999,pp.171-172:日比野 2001,pp.33-35:旭鮨総本店web page:埼北よみうり 1991:平成29年〈2017〉11月28日、森川寿司にて堀越一章から対面で聴き取り)
[24]平成29(2017)年2月20日、おつな寿司にてチーフ・近藤から対面で聴き取り。
[25]平成29(2017)年1月19日、月島家にて出世いなり考案者・衣笠紀代子から対面で聴き取り。
[26]平成29(2017)年8月17日、寛龍にて店長・清水信治から対面で聴き取り。
[27]平成22年(2010)に完了した聖天堂の大修理を契機として立ちあがった地域・熊谷市・県が参加する官民協働まちづくりプロジェクトである。歓喜天の「縁結び」のご利益にあやかる。現在、専門店のうち聖天寿しが地域情報誌『めぬま縦横無尽。4』に「縁結びメニュー」として稲荷ずし3本全てを干瓢で巻いた「縁結びいなり」を掲載している。(片柳 2015,pp.14-19:くまがや市商工会 2016:埼玉県web page)


【参考文献】
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須藤由蔵「天言筆記」『新燕石十種. 第1』(「天言筆記」は『藤岡屋日記』からの抜き書き)(最終閲覧日2018.1.25)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088295/106

埼玉県web page「”縁結びのまちめぬま” 地域ブランド戦略実践プラン 平成26年」(最終閲覧日2018.1.10)
http://www.pref.saitama.lg.jp/b0110/documents/605980.pdf


【その他参考史料】
「味の町 妻沼」『埼玉ジープ 昭和40年2月20日 第387号』(1965)
熊谷市観光協会(編)『熊谷観光ガイドマップ』(発行年不明)
熊谷市観光協会(編)『まっぷるKUMAGAYA vol.2』(2017)、昭文社
「こんにちは<310>森川寿司 店主 堀越福太郎 寿司一筋に生きる」『埼北よみうり 1991年第338号』(1991)
『めぬま縦横無尽。4』(2016)、くまがや市商工会
妻沼聖天山歓喜院(2016)『国宝妻沼聖天山』、本殿彫刻参観入場券付パンフレット

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