荻外荘復原・整備プロジェクト

野村 知史

1.はじめに
杉並区荻窪は閑静な住宅街であり、かつて多くの文化人が居を構え、現在その跡地は『大田黒公園』『角川庭園・幻戯山房』などとなって近隣住民の憩いの場として親しまれている。そして内閣総理大臣を3度務めた近衛文麿の旧邸『荻外荘』が平成28年に国の史跡に指定され、「荻外荘復元・整備プロジェクト」により令和6年12月に公園として公開される予定となっている。本稿では『荻外荘』に視点を定め、歴史的価値、建物のデザイン、周囲との関連性について考察する。(資1)

1-1.基本データ
名称:(仮称)荻外荘公園
開園予定:令和6年12月
所在:東京都杉並区荻窪2-43
面積:7050.61平方メートル

1-2.歴史的背景
荻外荘は著名な建築家である伊東忠太 (資2-1)により昭和2(1927)年に建てられた。この邸宅は当初大正天皇の侍医である入澤達吉(資2-2)の別邸だったが、昭和12(1937)年に、第一次内閣を組織していた近衛文麿(資2-3)に譲渡された。このときに近衛の後見人的立場だった元老・西園寺公望により「荻外荘」と名付けられた。「荻外」とは「荻窪の外れ」という意味であるという。

2.評価

2-1.荻外荘の歴史的価値
荻外荘は、当初近衛家の別宅として利用されたが、次第に首相官邸に準ずる政治的な舞台として使用されるようになった。昭和15(1940)年7月には、第二次近衛内閣の基本方針や独伊との連携強化、南方進出などが話し合われた「荻窪会談」、昭和16(1941)年10月には、対米開戦回避のため、陸軍に譲歩を求める近衛と東条英機陸相が対立し、第三次近衛内閣が瓦解することになった「荻外荘会談」など、昭和戦前期の歴史の転換点となる重要な会議が数多く行われた。昭和20(1945)年12月16日未明、戦犯容疑で逮捕命令が出されていた近衛は書斎で服毒自殺をする。昭和22(1947)年には吉田茂が近衛家から荻外荘を借り受け、翌年まで居住した。荻外荘は日中戦争の開始から太平洋戦争終結までの歴史と切り離すことはできない建築物である。(資3)

2-1.荻外荘の建物としての価値

荻外荘を設計した伊東忠太(1867~1945)は、法隆寺が世界最古の木造建築であることを学問的に示し、その様式がギリシャ建築のエンタシスに関連すると説いたことや、築地本願寺や明治神宮などを手がけたことで知られる著名な建築家である。それまで家を作ることを「造家」と言われていたが「建築」という言葉に改めたり、中流住宅についての論考を発表したりするなど、住宅改良運動にも関わった。

○伊東の在来住宅についての考え。
・根本的に家庭の意味を了解していない。
・用材選択の誤謬。
・間取の研究不徹底。
伊東は在来の建築が客間に重きを置くことを批判し、住宅は家族の住むところで、来客のためのものではないという明確な住宅観を持っていた。間取の研究不徹底とは、ある部屋に行くために他の部屋を通過しなければならないことをさした。

○伊東の考える良い建築の条件。
・「客間」より「居間」を家の中で一番好い部屋にして、家族本位にする。
・各部屋の連絡を完全に容易に作り上げる。
・台所は、居間の次によい場所にする。
・壁を増し、建具を減らして、家屋を堅牢にする。
・書斎や応接間、子供部屋は半西洋式すなわち椅子、テーブル式がよい。
・各部屋に十分に光が入り、風通しのよいこと。

荻外荘の建築的特徴

・家族本位として寝室、書斎、食堂が南向きの好い場所に配置し、応接室も広くよい場所にしている。
・各部屋の行き来が容易になるように廊下でつないでいる。
・鴨居を高くして、採光に配慮している。
・L字形の壁ができるように開き戸を配置し、耐震性に配慮している。
・中国風の応接室、書斎の外観、眺望の確保など建築主の要望に応えている。

荻外荘は伊東の建築思想に基づいて建てられ現存する、数少ない貴重な建築物である。初めの注文主は義兄の入澤達吉であったので、伊東は思う通りの家をめざし、自分の意向を大いに反映させたという。大正から昭和の生活改善の流れを受けて、椅子式の洋風な生活を取り入れながら、慣習的な和風の生活にも配慮し、採光にもこだわった伊東忠太の折衷的な住宅観が反映されている。

2-3.地域資源としての評価

荻外荘は荻窪駅南東の閑静な住宅街に位置している。この地域は「大田黒公園周辺地区」と言われ、みどり豊かで閑静な住環境が広がる。この地域には4つの国登録有形文化財「西郊ロッヂング」「旧大田黒住宅洋館」「渡邊家住主宅」「幻戯山房(旧角川家住宅主宅)」などが至近距離に集まっていて、近年は散策に訪れる人も少なくない。荻外荘の復原・公開は地元住民に、荻窪の魅力をもっと知ってもらい、その価値をさらに向上させようという期待感を促す材料となっている。(資4)

4.類似施設について

4-1.渋沢資料館(東京都北区西ヶ原)

渋沢資料館は、渋沢栄一の旧宅である「曖依村荘」の跡地に設立された博物館である。旧邸内に残る木造洋風茶室「晩香廬」(大正6(1917)年)と、渋沢の書庫兼接客の場である「青淵文庫」(大正14(1925)年)はいずれも国指定重要文化財に指定されていて、公開施設になっている。渋沢の生涯と実績に関する資料が収蔵・展示されて。関連イベントも開催されている。

近年、文化財建築物を保護する場合は、一般公開するだけでなく、イベント開催の場やアートの展示、多目的な活用の場として使用することが多い。喫茶室の併設やグッズ販売などをおこなう工夫がなされる事例も増えている。荻外荘も応接間、食堂、茶の間や居間を展示やイベントスペースとしての用途が予定されている。また荻外荘グッズの販売も始まっている。

4-2.類似事例と比較して特筆すべき2点の価値

1点目は、建物の再現性の高さである。荻外荘は昭和33(1960)年に半分にあたる玄関棟、客間棟が豊島区へ移築されたが、荻窪で再移築工事が進められている。移築部分の保存状態はよく、また建築当初の図面や近衛居住時の図面、古写真などが多く残されており、改修の履歴もほぼ明らかになっている。豊富な資料に基づき、近衛が政治の場として利用していた当時の状況を原形に近いかたちで復原することが可能である。また古写真に基づき、できるだけ当時に近いかたちで庭園も再現される計画である。昭和の初期に著名な建築家が建てた屋敷が復原・保存できることの建築史的な評価は高い。(資5)

2点目は、荻外荘は文化人・著名人の邸宅だったというだけでなく、昭和の政治史における貴重な歴史財産だということである。戦中から戦後に近衛文麿が好んで住み、日米開戦前から終戦までさまざまな会談、決定が行われていた政治空間であり、近衛の自決という衝撃的な事件も起きた。激動した昭和10年代の記憶の場、昭和初期の荻窪の原風景を顧みられる場として歴史的価値はとても高い。

今後の展望

杉並区は「荻窪駅周辺まちづくり方針」の目標を「歴史文化の薫り漂う、住んでよし、訪れてよし」に設定して、荻外荘公園を地域資源の回遊性を高める「まちあるきの核」となる拠点と位置づけている。文化遺産の維持には周辺住民が活動を理解することが必要であるが、杉並区では荻外荘を特集した「荻窪まちづくりだより」を創刊し区内の各家庭に配布、グッズの販売を開始するなど普及活動に力を入れている。荻窪三庭園(荻外荘、大田黒公園、角川庭園)として一体的な情報発信などの工夫で、この地域の観光資源の価値向上につながると思われる。(資6)

まとめ

多面的な価値を持つ荻外荘の復原と公園としての整備は、まちの魅力の維持発展、回遊性の向上につながり、地域めぐりの観光拠点として周辺住民の誇りとなうる文化遺産である。しかし荻外荘は戦前戦中の軍事外交に関連する歴史と切り離すことはできない。この時代についてはさまざまな考えを持つ人がいるが、荻外荘は見学者がそれぞれの考えで、昭和前半の歴史や戦後の平和について深く思いを巡らす場にもなりうる。荻外荘公園は、人々が気軽に訪れられる、荻窪の町歩きの拠点というだけでなく、日米開戦前後の歴史に触れられるという付加価値のある場にもなっていくはずである。

  • 資料1荻外荘全景 
    杉並区ホームページより
    https://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/kouen/02/ogikubo/1054100.html
    2024/01/20
    (非公開)
  • 81191_011_32183441_1_2_資料2_page-0001 資料2荻外荘の三人物 筆者作成
  • 81191_011_32183441_1_3_資料3_page-0001 資料3荻外荘関連年表
    杉並区ホームページ
    https://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/tekigaiso/fukugen/ayumi/index.html
    杉並区立郷土博物館『「荻外荘」と近衛文麿』、杉並区郷土博物館、平成28年 から筆者作成。
  • 資料4大田黒公園周辺地区マップ
    地図は荻窪地域センター協議会ホームページより
    https://ogikubokyougikai.sakura.ne.jp/
    写真は筆者撮影 令和6年1月24日
    (非公開)
  • 資料5荻外荘創建時の図面および近衛文麿居住時の図面
    杉並区ホームページ
    https://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/tekigaiso/history/1042923.html
    より作成
    (非公開)
  • 資料6荻窪三庭園
    写真は筆者撮影 令和6年1月23日
    (非公開)

参考文献

杉並区都市整備部みどり公園課『(仮称)荻外荘公園整備基本計画』、杉並区、令和2年
杉並区立郷土博物館『「荻外荘」と近衛文麿』、杉並区郷土博物館、平成28年
杉並区教育委員会『国定指定史跡 荻外荘 (近衛文麿旧宅)』、杉並区、平成29年
杉並区都市整備まちづくり推進課『杉並区景観計画』、杉並区、平成28年
杉並区都市整備まちづくり推進課『国指定史跡 荻外荘保存計画【概要版】』、杉並区、平成28年
まちづくり懇談会『荻外荘周辺まちづくり懇談会のまとめ』、杉並区、平成26年
杉並区ホームページ 『荻外荘 復原・整備プロジェクト』
https://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/tekigaiso/fukugen/index.html
宮崎信行、青木正夫、友清貴和 『大正初期の我が国における家族本位計画論の成立について』、日本建築学会計画系論文集 第496号、65-72、1997年6月
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/578/69_KJ00004227108/_article/-char/ja
山野 敬史 氏令和2年11月 講演会「暮らしの変化と荻外荘 入澤達吉の生活と伊東忠太の住宅観」講演会資料 杉並区ホームページ
https://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/tekigaiso/fukugen/mottoshiru/1065668.html

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