江戸時代の土木遺産:「見沼代用水」と「見沼通船堀」 (みぬま だいようすい)と(みぬま つうせんぼり)
見沼たんぼ(資料1、2、3、4)は関東平野中央(図1)の大宮台地の谷戸にある。台地との境の西縁(にしべり)と東縁(ひがしべり)を流れる見沼代用水と、斜面林や神社林とからなる大規模な里山環境が、都心近郊にもかかわらず現在まで保存されている。ここでは、江戸時代の土木技術の粋を集めて造られた見沼たんぼ灌漑施設の見沼代用水(資料5、6,7、8)と、運河の見沼通船堀(資料9、10)について報告する。
1. 基本データと歴史的背景
江戸時代初めの関東平野には無数の沼・湿地があり、幕府は積極的な新田開発と、利根川の東遷などの治水事業を始めた。1629年に関東郡代の伊奈忠治は、関東流(上流地域の排水を溜井に集め下流で使う)の灌漑方式を採用して、見沼を八丁堤(はっちょうづつみ)で堰き止め、1200haの見沼溜井(みぬまためい)を造った。
見沼代用水:
江戸の人口が100万人以上に増えて大量の食糧が必要となり、享保の改革でさらなる新田開発が始まった。1727年に紀州出身の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)は八丁堤を切り割って溜井を芝川に排水して干拓し、水量が豊富な利根川から見沼代用水を引いて、紀州流と呼ばれる用排水分離方式(図2)を採用し、5,000石の見沼田んぼが生まれた(図3)。
見沼通船堀:
新田開発に伴って物流が必要になり、舟運が求められた。1731年に井沢弥惣兵衛為永が作った見沼通船堀は、八丁堤のすぐ北側で、芝川から見沼代用水の東縁までの約650m、西縁までの約350mと近い場所に造られた運河である。見沼代用水の上流地域から排水路である芝川を通り、江戸の千住や浅草、永代橋付近まで、舟の積替え無しに150俵ほどの米俵や野菜などを送り、帰りに肥料や日用品を持ち帰った。紀州流なので、見沼代用水と芝川には3mほどの水位差があり、水門の開閉で船を上下させる閘門(こうもん)式を採用したことが特徴である。
2. 積極的に評価しているポイント
見沼代用水:
見沼代用水の工事は60kmの距離を、延90万人に賃金15,000両、構造物に5,000両をかけ、稲刈りが終わった9月に着工し、わずか半年後の翌年2月に完成した。この驚異的な土木工事が実現した要因は、幕府の工事計画の綿密さと、用水方式の変更を受入れて工事を請け負った地主・農民との信頼関係にあった。測量技術も優秀で、それまでは夜間に明かりを灯して測量していたが、水盛器(資料8)という装置を導入し、上流と下流から別々に測量した誤差が6cmだったという。
見沼代用水のルート(図4、5)は、取水口から見沼たんぼまでの高低差が20m程なので、なるべく落差が少なく、工事量が少ない場所に選定された。そのため、谷戸地形の見沼たんぼでは大きく蛇行している。紀州流には頑丈な堤防が必要になるが、台地との斜面が選定され、台地側に堤防を作らず、用水を掘った土を田んぼ側に盛り上げて堤防にすることで工事量が半減した(図2)。
関東平野の地形(図1)を見ると、江戸時代に同じ武蔵の国だった埼玉県と東京都は、西側の秩父山脈から武蔵野丘陵を経て東側の低地になっており、利根川が江戸に大洪水を起こす可能性が大きかったことがわかる。そこで、元の地形が生かし、利根川を茨城県・千葉県側の台地を超えた場所へ東遷した。見沼代用水のルート設計でも元の地形が有効利用されており、江戸時代には測量技術が発展していたことがわかる。
元圦(もといり)と呼ばれる利根川からの取水口は流量が制御しやすく、現在まで安定した場所であり、昭和43年に造られた利根大堰もほぼ同じ場所にある。取水後に星川に入り、八間堰(はっけんぜき)と十六間堰(じゅうろっけんぜき)で必要流量に分流される。水路には、川の下をくぐらせる伏越(ふせこし)53基と、川の上を渡す掛渡井(かけとい)4基の立体交差があり、元荒川の下の「柴山(しばやま)の伏越」と、綾瀬川の上の「瓦葺(かわらぶき)の掛渡井」が代表的なものである(図4)。関枠(取水口)は大小合わせて164基、主要な橋は(石橋・土橋合わせて)90ヵ所が設置された(資料7,8)。
見沼通船堀:
水位の違う運河どおしを接続するための閘門の起源は1284年の中国で、実用化は1460年頃らしく、ヨーロッパの運河でも実用化されている(資料11)。パナマ運河が有名だが、国内での実用化は見沼通船堀だけである。見沼通船堀は、芝川から見沼代用水の東縁と西縁に向けて、それぞれ「一の関」と「二の関」と呼ばれる二つの水門がある。水門は、角落(かくおとし)と呼ばれる幅18cm、厚さ6 cmの木板を10枚ほど縦に積み上げて開閉した(添付写真)。外国の水門は扉式だが、可動部分のない角落方式は保守が容易であり、この簡単な仕組みが実用になったことは驚きである。
3. 他の事例との比較
見沼代用水:
見沼代用水は、葛西用水(埼玉県)、明治用水(愛知県)とともに日本三大農業用水(資料12)とされる。葛西用水は見沼代用水の東側の低地にあり、他の田園地域と同じように、用排水分離方式に必要な高低差がないので、関東流になっている。見沼代用水は大宮台地の地形を利用した紀州流を採用することで安定した水量が得られ、溜井を無くすことで土地を有効利用でき、さらに、流域全体の灌漑も可能になった。この大規模な用排水分離方式は、日本の近代灌漑の始まりとされている。
見沼通船堀:
現天皇は皇太子時代のオックスフォード大学留学で 17~18世紀のテムズ川や運河の改修、水運の実態を調べ、ロンドンの発展に貢献したことを研究して、閘門に興味を覚えた(資料13)。帰国後、日本にも閘門式運河があったことを知り、驚かれたそうだ。江戸の社会でも水運は盛んだった。
見沼通船堀で運搬された最も重要なものは、金肥と呼ばれた人間の屎尿肥料であった。金肥専用の「おわい船」が建造されるなど、江戸の屎尿は無駄に捨てられることなく「田んぼ」に循環利用されたが、舟の積替えなしに見沼通船堀を通れることが重要だった。当時、ロンドンやパリでは屎尿が川に捨てられ不衛生であった時代にあって、世界有数の大都市の江戸が循環型社会だったことは画期的であり、江戸を訪れた外国人は、清潔な江戸に驚愕したそうだ(資料14)。
4. 現状:
見沼代用水:
見沼田んぼの航空写真(図6)を見ると、深緑色(森)が多いことがわかる。写真の左端には大宮氷川神社と真直ぐな参道があり、左下のグレー色は旧中山道沿いの市街地である。右端の黄緑色は低地に広がる田んぼで深緑色はない。右上の川沿いの深緑色は途切れ途切れで連続していない。谷戸との境を流れる見沼代用水は斜面林を伴い、この連続した森が見沼田んぼ独特の里山環境を形成している。また、神社や寺の森も多く、斜面林と連続している。
見沼通船堀:
見沼通船堀は鉄道輸送の普及で1931年に廃止され閘門や堤は壊れたが、1955年に見沼通船堀遺跡は埼玉県指定の史跡に指定され保存されることになった。1982年に江戸時代中期の土木技術の高さと流通経済を知る上で貴重な史跡として国指定の史跡になり、主要区域を保護・保存する保存管理計画が策定された。1992年に発掘調査され、1994年から修復整備工事が始まった(資料15、16、17、18)。
5. まとめと今後の展望
見沼代用水と見沼通船堀は、江戸時代の土木遺産として特筆される存在であり、これらがある見沼田んぼ地域は東京近郊に残存する里山環境として貴重なものである。現在、これらの保全活動は順調に実施されているが、大きな問題は、これらの存在が近隣住民にも知られていないことである。これまで、保全活動に熱心な人々は、広報活動には熱心でなかったと思われる。見沼代用水には、添付写真のように20kmの桜の回廊(資料19)の遊歩道が整備され、見沼通船堀の閘門開閉イベント(資料20)も定期的に開催されているが、さいたま市街地の住民で知っている人は少ない。これからは、看板を立てることから始め、里山体験のイベント開催などの広報活動を注力すべきである。そして、少数でも良いので、熱烈なサポーターが生まれれば、現状保全が継続できるはずである。
2019年10月のさいたま市立博物館『見沼-水と人の交流史 第43回特別展』(資料21)の内容は素晴らしいが、一般市民へのアピールが足りなかった。今後は広報活動にフォーカスして実施して欲しい。
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図1 関東平野の地形
(国土地理院の地理院地図(電子国土Web)
https://maps.gsi.go.jp/#13/35.875003/139.668606/&base=std&ls=std%7Crelief_free&blend=1&disp=11&lcd=relief_free&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m&reliefdata=30G0000FFG4G0095FFG8G00EEFFGCG91FF00G10GFFFF00G14GFF8C00GGFF4400
から、筆者作成) -
図2 見沼田んぼの用排水分離方式(紀州流)
(提供:さいたま市 見沼たんぼのホームページから)掲載の承諾済
図3 見沼田んぼマップ
(提供:さいたま市 見沼たんぼのホームページから)掲載の承諾済 -
図4 見沼代用水の上流ルートと地形
(国土地理院の地理院地図(電子国土Web)
https://maps.gsi.go.jp/#13/35.875003/139.668606/&base=std&ls=std%7Crelief_free&blend=1&disp=11&lcd=relief_free&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m&reliefdata=30G0000FFG4G0095FFG8G00EEFFGCG91FF00G10GFFFF00G14GFF8C00GGFF4400
から、筆者作成) -
図5 見沼田んぼの地形
(国土地理院の地理院地図(電子国土Web)
https://maps.gsi.go.jp/#13/35.875003/139.668606/&base=std&ls=std%7Crelief_free&blend=1&disp=11&lcd=relief_free&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m&reliefdata=30G0000FFG4G0095FFG8G00EEFFGCG91FF00G10GFFFF00G14GFF8C00GGFF4400
から、筆者作成) -
図6 見沼田んぼの航空写真(土地利用の違い)
(google map
https://www.google.co.jp/maps/@35.8996563,139.6776581,5736m/data=!3m1!1e3!5m1!1e4?entry=ttu
から、筆者作成) -
写真
・ 見沼通船堀(2023年3月27日、筆者撮影)
・ 見沼通船堀の閘門開閉実演(2023年8月23日、筆者撮影)
・ 見沼田んぼ付近の見沼代用水(2023年3月27日、筆者撮影)
・「柴山の伏越」と、「瓦葺の掛渡井」(2023年9月28日、筆者撮影)
参考文献
資料1:『見沼たんぼの歴史|見沼たんぼってなに?』、
http://www.minumatanbo-saitama.jp/outline.htm (2023年12月6日)
資料2:村上 明夫『環境保護の市民政治学-見沼田んぼからの緑のメッセージ』、第一書林、1990年
資料3:村上 明夫『環境保護の市民政治学2 見沼田んぼからの伝言』, 幹書房, 2003年
資料4:村上 明夫『見沼田んぼ龍神への祈り-環境保護の市民政治学 3』、幹書房、2012年
資料5:見沼代用水土地改良区『見沼代用水路-18世紀から21世紀へ』, 2009年4月
資料6:見沼代用水土地改良区『見沼代用水を知る』、
https://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/know/ (2023年12月6日)
資料7:見沼代用水土地改良区『世界かんがい施設遺産申請書写真集』、
https://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/syorui/kangai_picture.pdf (2023年12月6日)
資料8:見沼代用水土地改良区『リーフレット』、
https://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/syorui/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88.pdf (2023年12月6日)
資料9:青木 義脩, 中沢 袈裟吉『見沼通船堀』(浦和歴史文化叢書 6), 浦和市郷土文化会, 1980年
資料10:仲田一信『見沼通船堀-日本最古の閘門式運河』, 浦和尾間木史跡保存会, 1966年9月
『見沼通船堀-日本最古の閘門式運河(復刻)』, 1998年4月
資料11:中川吉造『日本最古の閘門に就て』内務省東京土木出張所、1928年
資料12:『日本三大農業用水とは!?』、
https://tabi-mag.jp/irrigationwater-big3/ (2023年12月6日)
資料13:徳仁親王『水運史から世界の水へ』、NHK出版、2019年
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h18az-mizuforum4th-slide.html (2023年12月6日)
資料14:サライ『江戸は世界に冠たる「清潔都市」だった』、
https://serai.jp/hobby/93890 (2023年12月6日)
資料15:浦和市教育委員会『史跡見沼通船堀保存管理計画書 昭和58年度』, ①984年
資料16:浦和市教育委員会『史跡見沼通船堀閘門付近発掘調査報告書』, 1992年
資料17:浦和市教育委員会『国指定史跡見沼通船堀整備事業のあらまし』, 1998年
資料18:さいたま市教育委員会『国指定史跡見沼通船堀そのしくみと歴史』, 2001年
資料19:『見沼田んぼの桜回廊』、
http://www.minumatanbo-saitama.jp/sakurakairou/ (2023年12月6日)
資料20:『見沼通船堀閘門開閉実演チラシ』、
https://www.city.saitama.jp/006/014/008/003/012/005/p098580_d/fil/chirashi.pdf (2023年12月6日)
資料21:さいたま市立博物館『見沼-水と人の交流史 第43回特別展』, 2019年10月
https://www.city.saitama.jp/004/005/004/005/008/005/001/r1tokuten.html (2023年12月6日)
https://www.city.saitama.jp/004/005/004/005/008/005/001/r1tokuten_d/fil/minuma.pdf (2023年12月6日)