伊豆市八岳地区の「わさびの郷」づくりにみる景観形成

原 隆一

1 静岡県伊豆市八岳地区の現状(基本データ)
伊豆市は、伊豆半島の中央部に位置し、旧修善寺町、旧中伊豆町、旧天城湯ヶ島町及び旧土肥町の4町が合併して出来上がった人口28,000人のほどの市である。伊豆市八岳地区では、天城山の森林に育まれた豊かな水資源を生かしたわさび栽培が盛んに行われ、大規模なわさび田(図1)、わさび農家、わさび商品の加工所、直販店など、わさび産業を生業とする多くの人々が生活している。また、わさび田は集落内にも点在し、日常生活の中に溶け込んだ風景となっている。
2 わさび栽培の歴史的背景
わさびは、古くから日本各地に自生していたようだが、400年以上前の慶長年間(1596~1615)、安倍川上流の現在の静岡市葵区有東木の佛谷山に自生していたわさびを同地区の「井戸頭」と呼ばれる湧水源付近に植えたことが、わさび栽培の始まりとされる。
1607年、駿府城で晩年を過ごしていた徳川家康が、献上されたわさびに魅了され、同地区からわさびを持ち出すことを禁じたという言い伝えも残っている。わさびは、しばらくの間、有東木を出ることは無かったが、1744年わさび苗が現在の伊豆市天城湯ヶ島に持ち込まれ、それ以降、同様な自然条件を持つ伊豆地域で栽培されるようになった。1892年頃には、中伊豆の石工技術者により「畳石式」と呼ばれる栽培方法が開発され、その後、この方法によるわさび栽培が伊豆地域全般及び御殿場市等の北駿地区に広がり現在に至る。
3 当該事例について積極的に評価できること
評価できることとして、まずわさび田が作り出す美しい景観がある。当該地区の畳石式わさび田は、狩野川台風(1958年)などの数々の災害経験により、災害に強い安定した構造を持つようになったこともあり、森に囲まれ狭い谷沿いの沢に、四季折々の美しい景観を生んでいる。また、わさびは夏の強い日差しを嫌うため、日射を遮ることが難しい川幅が広い地点にあるわさび田では、遮光目的で水に強く、枝を広くつけるハンノキが植えられてきた。そして、これが伝統的なわさび栽培を特徴づけるとともに、優れた景観を形成する上で重要な要素となっている。(写真1、写真2、写真3、写真4)
二つ目は、わさび田を維持する技術を伝承するための生産者の努力である。「畳石式」は、下層の大きな岩から上層へ徐々に石を小さくし、わさび田表面から水を下に浸透させる方式(図2)で、水温の安定と栄養分や酸素の供給を実現し、安定生産を可能にした。しかし、この機能を維持するためには、定期的にわさび田を掘り返して石や砂を入れ替え作り直す作業(改田)が必要であり、大掛かりかつ巧みな改修技術が先祖代々引き継がれてきた。
また、ハンノキは成長に時間がかかり、かつ落ち葉の清掃に手間がかかるため、生産者にとってその維持管理はかなりの重労働である。災害で倒木した箇所は、一部寒冷紗に替えられてはいるが、現在もその保存活動は続けられている。
三つ目は、伝統的に守られてきたわさび田の景観を現在の視点で保全していこうとする地域の取り組みである。「八岳地域づくり協議会(以後、協議会)」の活動がそれで、2016年11月に設立された。まず、郷土の誇りである「わさびの郷」の保全と活用を目的に、産業(食文化)と景観による魅力(観光)が両立できるように、わさび田を「生産環境保全エリア」と「観光活用エリア」に分け、観光受け入れについてのわさび農家の意向把握を行った。その上で、生産者に配慮した周遊ルートの設定、わさび田観光マップ・魅力解説集の作成、わさび田ガイドの養成講座の開催、わさび田ガイドモニターツアーなどを行っている。周遊ルートの建設は伊豆市が実施するなど、官民協働でわさび田の保全と活用に取り組んでいる。
4 他の同様な事例と比較して何が特筆されるのか
(1)他事例の紹介(源平川の環境保全活動)
源平川は、三島市立公園寿楽園内の小浜池を起点として、最下流の中郷温泉地まで、全長約1.5㎞の農業用水路である。1950年代までは、豊富な湧水と周辺の景観により美しい水辺環境が保たれていたが、1960年代以降の高度成長期には、都市化の進展や生活環境の変化により湧水量が減少し、加えて渇水期には家庭雑排水の垂れ流しやごみ放置など、汚れた川の代表とされた。(写真5)
1992年9月、それまで地域でそれぞれ活動していた市内8団体(三島ゆうすい会、三島ホタルの会、三島青年会議所など)が協働し、「水の都・三島」の水辺環境の再生と改善を目的に、「グランドワーク三島実行委員会(現在、NPO法人グランドワーク三島)」を結成した。すなわち、地域の環境改善の取り組みに、市民・行政・企業のパートナーシップを導入する「グランドワーク」(資料1)の手法を活用したのである。
関係者の合意形成、行政の許認可、環境NPOの理解に多くの時間を要したが、グランドワーク三島が、中間組織として利害関係者の権利調整を行う役割を果たし、源平川の水辺再生が行われた。整備が完了した現在は、「源平川を愛する会」等の団体が中心となって地道な環境改善活動が続けられている。(写真6)
(2)源平川での活動に比べて、八岳地区の活動で特筆すべき点
特筆すべきは、源平川の活動が、景観保全を最大のテーマとしているに比べて、本活動は、400年にわたり生産活動として営々と営まれてきた生産地としてのわさび田が、結果として地域に根付く景観を形成しているという点である。近世、近代の時代を通して「畳石式わさび田」という工法が維持され、次世代に受け継がれたのには、合沢制度等にみられる共同管理システム(資料2)の構築がある。わさびそのものの魅力と「畳石式」が生み出した高品質のわさびが商取引の対象となり、結果として生産者の生産意欲に繋がった。しかし、定期的な改田等の作業は重労働であり、一個人では対応ができない。そこで当該地域では、共同管理システムを構築し、地域の持つ協力関係によりこの問題を乗り切ってきた。この共同管理システムこそ、現在に美しい農村景観を伝える原動力となった。
「農産物としてのわさび」という視点は現在にも繋がっている。わさび田の景観を観光資源として打ち出すにしても、まず第一に生産者の意向を重視した。協議会が行った観光活用に向けての事前調査において、農家の意向把握を第一に実施したのはこの点である。
5 今後の展望について
進学や就職に伴う若者の流出や高齢化で、改田等の作業は農家にとって大きな負担である。近年、洗浄ポンプ等によりわさび田が長期的に利用できるようになったとは言え、築田・改田技術の継承が難しくなってきたことも確かである。今後は、改田の機会が生じた場合の若手生産者への参加機会の提供、若手生産者を中心とした築田・改田技術の研修会などその継承のための試みがさらに必要である。
山間地に広がる一連のわさび田はその独特な美しい景観から観光資源としても期待されている。そのためには、各種観光産業(2018年伊豆半島が世界ジオパークに登録)と連携した取り組みが必要である。伊豆市でも、協議会と協力して、様々な観光キャンペーンが始まっている。今後は、観光客のマナーなどの課題もあり、生産者や自治体、観光関係者間で観光ルールを策定し、生産環境と観光の両立を模索していく必要がある。
伊豆市では、NPO(八岳地域づくり協議会等)と行政(伊豆市)との協働における役割が明確に分けられている。しかし、今後は「生業としてのわさび栽培」と「観光資源としてのわさび田景観の保全」を両立させて継承していくためにも、市民力としてのNPOの力が期待される。今後は、行政がNPOに資金提供し、NPOが具体的に実施していくといった協働のあり方が、理想の八岳地区を実現するためには重要なポイントとなる。そのためにも、NPOが行政と対等(資料3)に対峙できることが必要で、源平川におけるグランドワーク等の中間NPOのあり方を参考にしつつ活動する必要がある。
6 まとめ
現在のわさび栽培では、共同管理は一部の区域のみで、ほとんどが個々の生産者により行われているのが実情である。わさびは、他の農作物に比べて高所得になる作物なので、耕作放棄が続くことはほとんどなく、そのことが景観を維持するうえでも重要な要素(注:伊豆市農林水産課より聴取)である。とは言え、時代の変化の中、需要にも浮き沈みがあることは予想される。今後、伊豆市のわさび田を産業として維持し、美しい景観を保全するためにも、個々の負担を地域で如何にカバーできるかが重要なポイントである。

  • 81191_011_31986019_1_1_%e5%9b%b3%ef%bc%91_page-0001 図1 伊豆市八岳地区のわさび田分布 静岡わさび農業遺産推進協議会編 『世界農業遺産への認定に係る申請書 p51』2017
  • 81191_011_31986019_1_2_%e5%9b%b3%ef%bc%92_page-0001 図2 畳石式わさび田断面図 静岡わさび農業遺産推進協議会編 『世界農業遺産への認定まに係る申請書 p7』2017
  • 81191_011_31986019_1_3_%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%91%e3%80%81%ef%bc%92_page-0001 写真1、写真2
  • 81191_011_31986019_1_4_%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%93%e3%80%81%ef%bc%94_page-0001 写真3、写真4
  • %e5%86%99%e7%9c%9f5 写真5 所在地 三島市泉町(源平川地先)
    設置者 三島市
  • 81191_011_31986019_1_6_%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%91_page-0001 資料1 グランドワークとは NPO法人クラランドワーク福岡ホームページ
    https://www.gwfuoka.up/pages/3370316/page _201911102203
  • 81191_011_31986019_1_7_%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%92_page-0001 資料2 わさび栽培を支える社会的組織 静岡わさび農業遺産推進協議会編 『世界農業遺産への認定に係る申請書p37〜p39』2017
  • 81191_011_31986019_1_8_%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%93_page-0001 資料3 NPOと行政の対等性

参考文献

静岡わさび農業遺産推進協議会『世界農業遺産への認定に係る申請書』、2017
静岡わさび農業遺産推進協議会『静岡で生まれたわさび栽培の歴史』、2017
伊豆市『観光地エリア景観計画(八岳地区)』、2020
グランドワーク三島
https://www.gwmishima.jp(2022年3月10日閲覧)
グランドワーク福岡
https://www.gwfukuoka.jp(2022年3月10日閲覧)
樋口忠彦著『景観の構造』、技報堂出版、2020年
原田晃樹、藤井敦史、松井真理子共著『NPO再構築への道』、勁草書房、2010

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