地域に愛される 「神奈川県立図書館・音楽堂」 前川國男が追い求めた空間
はじめに
横浜のJR桜木町駅からすぐの紅葉坂を登ると、小高い丘に神奈川県立図書館・音楽堂がある。1年半に渡る建設工事を経て1954年に完成し4日後に落成開館式が盛大に行われた。既に68年の年月が流れ戦後の横浜を見守りながら長い歴史を刻んできた。今の時代においては文化施設としての規模も中級クラスになるだろうが、現在も現役で機能しているのは様々な取り組みが成されてきたからである。戦後直後という時代背景や今日に至るまでにこの地域で取り組まれてきた試み、人びとの想い、そして前川國男が求めた建築の美を考察する。
1.時代背景と施設構想
当時の神奈川県知事・内村岩太郎(1890~1971)は竣工記念パンフレット(注1)の中で「一面の焼野原の観があった」と表現している。横浜も太平洋戦争末期に米軍機の空襲があり、壊滅的な被害を受けていた。戦後復興へと踏み出したが、貧しさと不安を抱えていた時代だ。当時、神奈川県には図書館がなかった。知事は「民心の安定」を願い「図書館・音楽堂建設」の構想を掲げた。ところが音楽堂の建設に多額の県費を使うことへの反発、「音楽堂を建てるくらいなら療養所を建てるべきだ」という反対意見も多々あった。「図書館と音楽堂」という当時には異例な複合文化施設は、様々な問題点と向き合いながら実現へと歩んだ戦後近代建築の原点と考えられている。
2.前川國男という人物像とコンペ
昭和3年(1928)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業式の日にフランスへ渡りル・コルビュジエの事務所で修業。またアントニン・レーモンドの事務所にも勤務した。東京帝室博物館や横浜市庁舎の設計など数々のコンペに参加しながら落選し、一等当選しても戦争で実現できないこともあった。フランスで学んだ建築と当時の日本の建築業界の方向性との間で、彼がどう歩むべきか考えた形がコンペに挑む原動力となったのだろうか。「県立図書館・音楽堂」のコンペでの建設候補者は県立近代美術館設計の坂倉準三、横浜を代表する建築家である吉原慎一郎、東京都庁舎のコンペに勝利した直後の丹下健三、早稲田の助教授だった武基雄、そして「日本相互銀行本店」を完成させて日本建築学会賞を受賞した矢先の前川國男の5名が指名され、その結果として前川案が採用される。
3.日本で初めての本格的音楽専用ホール、神奈川県立音楽堂設計に取り組む苦難
戦後におけるモダニズム建築の傑作と評価を得る音楽堂は、リーダーシップを発揮した県知事のもと多くの人びとの協力を得て船出をする際に、音楽評論家である野村光一から「ロイヤル・フェスティバル・ホールを参考とする」という条件が前川國男に伝えられた。このホールはイギリスのティムズ川に建設された戦後復興の象徴的建物だ。これを手本として理想的な音楽堂を建築する使命はどれ程のものであっただろうか。前例もノウハウもなく特に基本的データさえない「音響」という課題に前川は渡英してその報告書を入手し必死に学んだ。その結果、音響学の先駆者である石井聖光さえ驚くような音楽堂を建設することになったのだ。建設条件はこの他にも「客席に二階や三階を設けない」こと、「舞台は低くし客席との一体化を図る」こと、更に「舞台と客席を連続した空間とする」こと等があった(注2)。厳しい時代の限定された条件の中で音楽専用のホールとして評価されるに至ったのは、前川による設計への情熱のみならず県庁の担当者や設計担当関係者の多大なる協力と、素晴らしいチームワークがあったことも意義深い点として挙げられる。
4.県立図書館と音楽堂
近代建築に名を残すコルビュジエやレーモンドという二人の天才建築家に学んだ前川であるが、この建築は建築雑誌を飾るインパクトのある見栄えの良い建築とは異なる。気負った感はなく風景の中に溶け込んでいる印象を受ける。鉄筋コンクリートと鉄骨を併用した造りで、図書館は地上2階、音楽堂は地上4階、共に地下1階建ての公共施設だ。音楽堂ホールの壁面はすべて暖かい質感の「木」で仕上げられ、客席の勾配はそのままロビーの天井になり、静かな中庭に向かって明るくとても快適な空間になっている。開館した当時に「東洋一の響き」と高い評価を受けた。前川の建築物は写真では知り得ない工夫が加えられ、利用者がどう感じるかを大切にしているところが素晴らしい。現在は閉じられているが音楽堂から渡り廊下で図書館へと繋がる。音楽堂は空間表現が見事で開放的であり、図書館とは対照的でもある。図書館の外壁は穴あきのテラコッタブロックで仕上げられ、直接光が室内に入らない工夫がみられる。中央にある閲覧室は吹き抜けで、全面ガラス張りの縦格子の間から外をみると庭の青々とした木々が目に飛び込んでくる。そして直接光が届かない柔らかな日差しで広い空間が満たされている。そこに感じられる凛とした静けさ。利用者の座る位置、読書や勉強をするのに必要な光の調整なども良く配慮されている最適空間である。1998年「公共建築百選」に、また1999年には近代運動にかかわる建物や環境形成の記録調査および保存のため設立された国際的組織であるDOKOMOMO(ドコモモ)より、「日本におけるモダン・ムーブメント建築20選」に選ばれた。
5.取り壊し計画
この施設の隣には前川國男建設事務所が設計した県立青少年センターが昭和37年(1962)に建ち、その後も婦人会館や青少年会館(注3)などが建ち並んだ。つまりこの場所は前川の作品展示場的な地域であり日本の戦後建築がいかに発展してきたのか、その縮図を見ることができる貴重な文化地区として機能しながら現在に至る。昭和61年(1986)6月26日に前川國男は逝去するが、そのたった7年後の平成5年(1993)に再開発計画で解体の危機を迎える。老朽化によって建物を取り壊して国際芸術センターを建設する計画が持ち上がったのだ。数万人の保存要望署名を集め、音楽堂を会場にシンポジウムやコンサートも開かれて建築業界や音楽業界、そして市民が団結して保存運動を行った結果、バブル崩壊という財政上の理由もあり方針転換が成され県が存続を決定したことで難を逃れた。
6.2つの県立図書館(神奈川県立図書館と神奈川県立川崎図書館)と未来
神奈川県立図書館は「社会・人文系や神奈川の資料」を主として高度な学習ニーズに対応している一方、県で二番目に誕生した川崎図書館は自然科学、産業技術系の分野に特化した「ものづくり技術」を支え、社史・特許・規格等の専門書を有す図書館となっている。各々の特徴を活かして機能分担をしながら運営が行われている。2016年9月30日の神奈川新聞には新時代を迎える神奈川県立図書館の再整備案の記事が掲載され「2017年以降に7年ほどかけて順次整備をしてゆく」とある。新棟の開館を県民は心待ちにしているが、2022年の現在においては「価値を創造する図書館」として「音楽堂、青少年センターなど近隣の文化施設と連携し、紅葉坂地区の活性化も視野にいれた」新棟建設および本館と新館の改修等の再整備をめざしている(注4)。 近隣施設との連携にて社会参加を促し自己実現を目指す計画は、いかに前川の残した「博物館的なエリア」が愛されて止まないかを映し出しているといえる。
おわりに
昭和10年(1935)に設立された前川國男の建築事務所は戦争で消失して戦後の活動は自宅で始まった。この邸宅は現在「江戸東京たてもの園」に移築されている。戦後すぐに託された図書館と音楽堂というプロジェクト。かつて誰も取り組まなかったことに奮闘したのは、それだけ期待されていた証である。2001年には50年目の大改修が成されて風景も随分と変わった。そして神奈川県は昨年2021年(令和3)にこの県立図書館・音楽堂を神奈川県指定重要文化財として認定した。1950年代の名残を感じられる戦後の代表作であるこの建物は、私たちにとって大切な文化財である。「建築のあり方」を深く問い続けた前川國男が求めた美の世界、モダニズム建築の傑作であるこの歴史的建築物をこれからも生かしながら保存してゆくことは、私たちの使命的課題であるといえる。そしてその計画が着々と進められていることを誇りに思う。文化遺産を守るだけではなく、手を加えながら新しい命を吹き込むことで「共に生きること」が求められているのだ。
参考文献
参考文献:
『ヨコハマ建築・都市物語』 吉田鋼市 久我万里子 共著 丸善株式会社 1995
『開港150周年記念 横浜建築家列伝 青木祐介 執筆・編集(横浜都市発展記念館)2009
『神奈川の近代建築』 河合正一 著 かながわ・ふるとシリーズ⑯ 神奈川合同出版 1983
『日本近現代建築の歴史 明治維新から現代まで』 日埜直彦 講談社 2021
『彩色立面図に見る日本の近代建築 銀行・オフィスビルから邸宅まで』
神奈川県立歴史博物館 2010
『残すべき建築 モダニズムは何を求めたのか』 松隈 洋 著 誠文堂新光社 2013
『前川さん、すべて自邸でやってたんですね 前川國男のアイデンティティー』
中田準一 彰国社 2015
『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』 磯崎新、藤森照信 著 六耀社 2016
『前川國男 現代との対話』 松隈洋 六耀社 2006
『建築の前夜 前川國男論』 松隈洋 みすず書房 2016