三戸の「オショウロウ流し」

真野 明敏

三戸は三浦半島の南端三浦市の相模湾側にあり、京浜急行の終点「三崎口」から徒歩20分程の所にある海岸にできた集落で、家は海に沿って細長く群集している。南から上谷戸・北・神田の三地区があり主に農業と漁業を営む。寺は浄土真宗、光徳寺。浄土宗、光照寺(上谷戸)・福泉寺(神田)・霊川寺(北)の四寺があり盆行事の中心となる。神社は諏訪神社が一つある。
盆行事の最終行事である「オショウロウさま」を送る場面で最も独特な姿を伝えているのが三戸の「オショウロウ流し」である。
三戸は承久の乱(1221年)に戦死した三戸十郎友澄の領した地であり伝統の土地である。古来、あまり人口の変化が無いのも特徴と言える。1812年戸数100戸(三浦古尋録・文化九年頃)、昭和30年(1955)166戸、98年286戸、2017年12月現在321戸337世帯、総人口1,037人(男512・女525)と江戸時代からあまり人口が変わっていない。
三戸のオショロ流しは教育委員会によれば、古くは江戸末期から行われていたと言われるが記録にはないと言う。しかし、『遠い日のふるさと』刊行のため全市的な聞き取りによると、明治・大正期に生まれた方の記憶に自分の子供の頃行事に参加したと言う証言から、古くから行われていたことは伺い知ることができる。

盆のやり方
新暦8月13日に「みたま」を迎え、8月16日に送る。

⑴盆棚には仏壇を使う。
13日に仏壇へ「オショウロウサマ」と「オモリモノ」を供える。
仏壇の左右に竹二本に縄を張り、それにイネ、マメ、サトイモ、トウモロコシなどを逆さに吊るす。
仏壇正面上段に位はい、阿弥陀絵の左右に「オショロウサマ」を並べる。中段に「オモリモノ」をあげる。
「シンモン」といい季節の新しいもの、スイカや果物などをあげる。ナスを賽の目に切ったものをマコモで作った敷物の上に置き「オモリモノ」とする、ナスはコメの代わりだそうだ。更にナスとキュウリの牛馬(現在は生ゴミの問題でプラスチック製)を一体づつあげる。
「オショロウサマ」は麦わらを長さ20cm、直径5cm位に束ねたものに紙を巻き芯とし、前面だけに色紙を貼り、更に帯を締めた形に中央に別色の紙を貼りその上下に大きい花形に切った色紙で八重の花形にしたものを貼り付ける。なんの形かわからないが元は人形のようだ。時期になると集落の店で売られる。
盆花はミソハギをあげる。
送り火は焚かない。
新盆の仏のある家では新しい仏を迎えるため、八月に入ると長いタケの上部に短いタケを横向きに取り付けて十字に組み、タケのてっぺんと十字に組んだ左右の切り口にスギの葉をさし、その3点を結んで縄を張り、白張り提灯をつけて家の門口に立てる。昔は8月24日の「うら盆」くらいまでそのままにしていたが、最近は16日の「オショウロウ流し」に片付けてしまう。

⑵墓の「オショウロウ」
竹を二本か三本に綱を張り、仏壇と同じように作物を逆さに吊るす。
「オモリモノ」を置き、毎日新しいものを加える。
墓施餓鬼を毎晩行う。

⑶「オショウロウ」の送り方(流し方)
「オショウロウ」を子ども達が集める。
戦前は「浜小屋」(盆小屋)に子ども達が寝泊まりして行事に参加したが戦後「教育上好ましくない」という理由で中止になった。(以上は浜に居た70代のお年寄りに聞く)現在はそれぞれの家から寺にやってくる。墓の「オモリモノ」を夜の明けないうちに集めリヤカーに乗せ浜に運ぶ。仏壇の物は各家で浜に持ってくる。次いで子供たちは声を合わせて「オショロ様こしてけーやっせー」と言いながら地域内を回って大人たちに呼びかける。
6時頃から子ども達の呼びかけに親達が浜に集まり「ワラ舟」を作る。長い真竹を50cm間隔で並べ、縄で縛り幅1m、高さ1・5m、長さ5m程の舟を作り底にマコモを敷き、麦ワラをしっかりと押しかためて作る。7時頃には出来上がり、浜に集められた「オショウロウサマ」を1m程の青竹に縦にイモ刺しにして舟に立てられる。合わせて「オモリモノ」も乗せられ施餓鬼旗が何本も立てられ、舟から出ている8本縄の先端に板子を結び僧侶の読経と浜にいるお年寄りの御詠歌と共に舟は大人達によって海に出され、子ども達8人が板子を持って目指す西方浄土に泳ぎだす。沖の雀島辺りまで行くと風が南に変わる。この辺りに来ると子どもたちは板子をはずし付き船に収容される。「ワラ船」は南風に押されて鎌倉方面の沖へと流されていく。「オショウロウサマは、鎌倉の光明寺のお施餓鬼に間に合うように朝早くから行くのだ」したがって朝早いのはそのためだと浜にいる人は信じている。
実際は、夏は「朝ならいの夕南」の俚諺のように、ならい(北風)に浜を出すと追い風である。8時半頃になると南風に変わり、それまでに沖に出さないと、また浜に押し流されるためだという。時には風によって北隣の黒崎や南隣の小網代湾の方に流れることがあるが、そこの浜の人たちは沈みかけた「お精霊船」を再び沖に曳いて流したという。
以前はそのまま沖へ流したが現在は「海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律」に抵触するゴミ問題などあり、20年ほど前から併走の漁船が子ども達を連れ戻すと一緒に「ワラ舟」も浜に引いてきて、直ちに大人達が解体分別し後日処分する。
行事の今後
古くから行われていたこの行事も戦後しばらく中断した時期があった。この行事を以前に採集した、元神奈川県文化財審議委員の赤星直忠氏がせめて写真にその行事を残そうと、再現を県及び関係機関・上谷戸地区の人たちや光照寺前住職三浦正海和尚・特に地区の長老等の指導を得て昭和36年8月16日に再現することができた。このことから再び集落の人たちの協力により、毎年実施することになった。そして昭和43年には市指定さらに昭和53年6月に県の無形文化財となり、平成23年3月国の重要無形民俗文化財に指定された。
行事は小学1年から中学3年生男子が行う。少子化で子どもの数が減り、子ども自身も参加したがらない者もあり「セイトッコ」の確保が難しくなっている。女子の参加を検討したが地区の長老が反対。また船を作る材料の調達も今は麦よりも野菜を作る農家が多く、藤沢方面から調達したり、地区で特別に栽培してもらうなど麦を調達している。竹も真竹を上谷戸は雌竹、神田・北地区は雄竹を使うなど確保が難しいという。
他に同様な盆行事を文化庁の文化遺産オンラインで見ると
「隠岐西ノ島のシャーラブネ」
隠岐郡西ノ島の美田地区と浦郷地区に伝承される精霊送りの行事。
「お盆の精霊船送り」
小浜市甲ヶ崎・田烏・西小川地区で古くから精霊船を作り沖に流す行事。
いずれも船の大きさは長さ約5m、幅約1mほどの竹による骨組みと麦わら船を製作することは三戸と同様であるが、廃絶したり観光行事として実施され、本来の盆行事としての精霊送りからは遠のいてしまった。
だが、三戸地区の区長により構成される「三戸お精霊流し保存会」は、この行事はあくまでも盆行事の一部であり地区でできる形で続けるという。無形の文化遺産だから時代に合わせて変化することはある。同市内の海南神社の「チャッキラコ」の参加資格は幼稚園児から小学校6年生の女子で、毎年踊り手が確保出来ず参加者を三浦市外まで広げて募っていたが、2009年ユネスコ無形文化遺産に登録後は参加者が急に増え抽選で参加者を決めているという。
祭りの意味など守るべき根本の部分を曲げず、裾を広げて本来の意味を見失ってしまったり、子供たちへの負担が大きくなることは避けたいと考えている。今年(29年)は上谷戸のオショロ船に北・神田地区が合流して流した。神田地区は2年後には「セイトッコ」の人数が集まり地区で流せるという。今後も継続がむづかしくなるが、地域の知恵を集め存続を工夫して貰いたい。

参考文献

小川直之、服部比呂美、野村朋弘編 『伝統を読みなおす2 暮らしに息づく伝承文化』京都造形芸術大学 東北芸術工科大学
平成10年(1998)年度 初声ガイド入門講座『ふるさと初声を知る』その2三戸地区記録、編集 初声ガイド資料編集委員会、発行 初声市民センター
浜田 勘太著 三浦の歴史シリーズ1『初声の歴史探訪記』昭和57年8月30日発行
『校訂 三浦古尋録』横須賀市図書館昭和42年3月31日発行
田辺 悟 金子 和子著『三浦半島の一年』昭和59年7月30日発行 暁印書館
市民の歩みを記録する会編 『遠い日のふるさと ー思い出三浦ー 』第7集 昭和63年1月22日 田中林造談(明治44年2月22日生) 平成2年3月31日 三浦市役所市民課広報広聴係発行
三浦市教育委員会発行 昭和63年『三浦市民俗シリーズⅣ 海辺の暮らしー三戸民俗誌ー』
赤橋 尚太郎 『三戸のおしょうろ流し』神奈川県教育委員会 神奈川県民俗シリーズ3 昭和39年
文化遺産オンライン bunka.nii.ac.jp/

本稿の執筆にあたり、三浦市教育委員会教育部文化スポーツ課の ざ古(zako)善光氏には「三戸のオショウロウ流し」の昨今の状況について、詳しくご教示いただいた。この場を借りて厚く御礼申しあげます。

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