池上本門寺にある重要文化財「五重塔」の歴史的・文化的価値について

髙木 強

髙木 強
はじめに私が現住する東京都大田区にある池上本門寺の「五重塔」を歴史的・文化的価値を考察する。

◎基本データと歴史的背景
(1)基本データ
 建築名称:本門寺五重塔
 分類:重要文化財
 指定年月日:明治44年4月17日
 所在地:東京都大田区池上1-1-1 (東急池上線池上駅下車10分、都営浅草線西馬込駅下車12分)
 所有者:宗教法人 池上本門寺
 建物種別:寺院・五重塔
 建築年代:慶長13年(1608年、桃山時代)
 材料・構造:木造
 屋根形式・屋根茸材:形式 初重~四重 茸下ろし 五重 宝形造
           茸材 初重~二重 本瓦 三重~五重 銅板
 寸法
 高さ:約29m
 平面積:23.435㎡
 正面(桁行):4.841m(3間)
 側面(梁間):4.841m(3間)
 修理歴
 根本修理:元禄15年~16年(1702年~1703年)移築
 屋根茸替および部分修理:慶長19年(1614年)、宝暦3年(1758年)、文政1年(1818年)、天保2年(1831年)、嘉永6年(1853年)、明治19年(1886年)、昭和5年~6年(1930年~1931年)、昭和12年(1937年)
 塗装修理:昭和33年(1958年)、元禄15年~16年(1702年~1703年)、天保2年(1831年)、明治19年(1886年)、昭和33年(1958年)
備考:修理で現状変更した主要箇所
   1.磁石を約7㎝高めた。
   2.位置のみだれている初重中備の十二支蓋股を方位に対応する旧位置に復した。

(2)歴史的背景
 慶長13年(1608年)2月15日に建立された。発願主は2代将軍徳川秀忠公の大乳母岡部局で、秀忠15歳の折息災と武運長久を祈って五重塔の造営を誓い秀忠公が27歳で2代将軍になったのを機に、30歳の時に誓約を実現寄進された。高さ約29m初層のみが和様式で2層以上が唐様式、両様式を混用した建築が特徴で関東で現在する最古最大の五重塔である。

1.岡部局・法号・正心院日幸大姉
 今川氏の家臣岡部与惣兵貞綱の息女名は佐和、武田信玄に仕え穴山梅雪に属した。川村善右門重忠に嫁ぎ、一男二女を生んだが重忠公に死に別れ、駿河国岡部に居住天正7年(1579年)55歳の時、徳川家康公に召され嫡男秀忠公の乳母付となり大姥局と称し120石を賜り後に武蔵国で2000石の采地を賜った。慶長18年(1613年)に病気となり、病が重いと聞いた将軍秀忠公自ら、病床を見舞ったとのことである。岡部局は同年正月26日89歳の長寿にて死して、自分の開基寺、世田谷区の幸竜寺に葬られた。尚、五重塔の造運奉行は青山伯嗜守忠俊となる。棟梁が幕府の御大工、三河出身の鈴木近江守長次で、この大工の名前は塔解体の折確認された。
平成9年10月1日より平成14年3月31日迄を解体大改修作業期間として、塔建立より393年。初の全解体大改修工事を予定通り無地完了した。
平成14年4月7日に五重塔落慶供養天童音楽大法要が、山主導師のもと盛大に行われた。

2.五重塔内陣・一塔両尊四士(四菩薩)
 慶長13年(1608年)2代将軍徳川秀忠公が、大乳母岡部局(正心院日幸尼)の願いにより、工匠鈴木近江守長次の手によって造営された五重塔である。現在は表参道から総門をくぐると、此経難持坂(しきょうなんじざか)という96段の石段坂を上り右手に進むと存在し、高さ29.4mの様式は桃山式である。塔の一層には、本師釈尊の脇侍本化四菩薩の立像が並んで安置されている。法華宗では、一塔両尊四士の御本尊と言われ、一塔とは法華経御題目、両尊とは右側に多宝如来、左側に 四士とは本化四菩薩で右側より、無辺行菩薩・上行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩でいづれも法(教え)を人格化したものである。この菩薩衆は仏と同様な尊貴の貌をし娑婆世界の地下の空中に住していたが、今釈尊の命によって、末代弘教の為に涌出された。菩薩の上首が、上行菩薩で次が無辺行・浄行・安立行となっている。(別紙1)

◎事例のどんな点について積極的に評価しているのか
徳川家康の入府により反映する池上本門寺に建立される五重塔
 池上本門寺は日蓮宗の大本山で日蓮入滅した霊跡としてしられている。草創は明かでないが、日蓮入滅の弘安五年(1282年)から正応元年(1288年)頃と考えられている。池上本門寺が急速に発展したのは、徳川家康の入府に合わせて堂塔や什物の寄進を得て伽藍が整備されていった。五重塔は、江戸幕府二代将軍秀忠が、その乳母正心院日幸の発願に依って、慶長十三年(1608年)に建立したものである。

◎国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか
1.起源は国外でインド、中国、朝鮮半島を経由
 五重塔を建てる目的の起源を調べてみたが、インドで仏教を開かれたお釈迦様のお骨を納めるお墓を作ったことに由来すると言われていて、つまりはお墓である。最初のお釈迦様のお墓はどんな形状をしていたのかと言うと、インド・サーンチのストゥーパの形が五重塔の始まりで、二重の基壇の上にお饅頭をかぶせたような煉瓦で造られた形のうえに傘をかぶっている姿が最初の塔の姿といわれています。日本で見る五重塔の平面形状は、四角がほとんどだが八角形の平面形状もあり、中国から朝鮮半島を通って姿を変えながら日本に伝わってきたのである。初期の飛鳥時代の五重塔は、心柱といって塔の中心にある柱の下には、お釈迦様のお骨を分骨して、舎利容器に納めて心礎の下に納めてある。その後、お釈迦様のお墓としての五重塔は、山地伽藍、新しい宗教の出現により、寺院建築としてのシンボル的意義が強くなり、境内の中心地、周囲からの眺望、象徴性が重要な目的となって、建立されていったと考えられる。そして初重に被られる対象も仏舎利の他、如来、菩薩などの仏像、開祖像、建立のための浄財布施者の仏など、五重塔によって異なってきている。(別紙2)

2.時代によるプロポーションの比較
 全国の五重塔は一見特徴などない様に見えるが、外観的な特徴を挙げるとすれば一番わかりやすいのは塔のプロポーションである。五重に重なっている屋根は上に行くほどだんだん小さくなっているが、その小さくなっていくことを逓減と呼び、一般的には、古い塔ほどこの逓減が大きく末広がりの形をしており、近世の塔ではこの逓減が小さく背高のっぽな形となる特徴があります。(別紙3)

◎今後の展望について
 重要文化財に認定される本門寺五重塔の修復であるが、慶長十九年(1614年)には大地震で傾き、五重の屋根を土瓦から木瓦に変更している。元禄十六年(1703年)には、それまで大堂前にあった塔が現在の所に移築修復され、その後、屋根替部分修理が幾度となく施されている。五重塔は明治四十四年(1911年)に重要文化財として指定され、昭和三十三年(1958年)に屋根替修理が施されたが、近年建物の傾斜や経年による各部材の弛緩と腐朽・破損が著しいため解体修理に至った。事業は平成九年(1997年)十月に着手したが、解体後、甚大な破損が判明し、実地に伴い事業費の増額と工期の延長を行い、総事業費六億三千七百万円とし、五十四ヵ月を要して平成十四年(2002年)三月に完了した。
今後も重要文化財として未来永劫途絶えることなく修復を継続していただくことを願いたいものである。

◎まとめ
 日本に所在する建造物の有形文化財、歴史上・芸術上の価値の高く学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府が指定した文化財として、国宝・重要文化財の木造五重塔は22塔ほど日本に現存しているが、私が住んでいる東京都内には台東区にある旧寛永寺五重塔と、大田区にある本門寺五重塔の2塔である。とても近隣に属する大田区の本門寺五重塔を選択したが、本門寺五重塔のことを改めて調べることで歴史があり重要な建築物であることが理解でき良い学習ができたことを貴重な経験である。この数少ない地元の重要文化財にも指定されている「池上本門寺五重塔」を後世の人々のためにも修復作業を継続して良い状態で残し続けることが必要である。

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  • e588a5e7b499efbc92_page-0001 別紙2
  • e588a5e7b499efbc93_page-0001 別紙3

参考文献

「重要文化財本門寺五重塔修理工事報告書」
発行者:重要文化財本門寺五重塔修理委員会 
出版社:重要文化財本門寺五重塔修理委員会
出版年月:1958年

「重要文化財本門寺五重塔保存修理工事報告書」 
発行者:文化財建造物保存技術協会/編集
出版社:東京 池上本門寺 
出版年月:2002年3月

「池上本門寺探訪集収編(複写製本版)」
発行者:森岡多一郎
出版社:東京 森岡多一郎 
出版年月:2002年8月

「五重塔のはなし」
発行者:浜島 正士/監修  坂本 功/監修  「五重塔のはなし」編集委員会/編著
出版社:建築資料研究社
出版年月:2010年8月

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