世田谷区の九品仏(くほんぶつ)の名で親しまれている「九品山唯在念佛淨眞寺」の歴史的・文化的価値について
はじめに
私の住んでいる町に身近にあるお寺の「九品山唯在念佛淨眞寺」を歴史的・文化的価値を考察する。
「九品仏」とは、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来像のことであるが、一般には同寺の通称となっている。
1.基本データー
正式名称:九品山唯在念佛院浄眞寺
所在地:東京都世田谷区奥沢七丁目 (東急大井町線九品佛駅下車1分)
宗 派:浄土宗に属する
面 積:境内約12万㎡(約3万6千坪)
開 山:延宝八年(1678)奥沢の地に賜った。
東京都指定文化財
有形文化財
・木造阿弥陀如来坐像(9躯)
・木造釈迦如来坐像
・木造珂碩上人坐像
・絹本著色珂碩上人像
・梵鐘
天然記念物:浄眞寺のイチョウ・カヤ
無形民俗文化財:二十五菩薩練供養
世田谷区指定文化財
史 跡:奥沢城跡
有形文化財
・仁王門・三佛堂
・乾漆珂碩上人倚像・木造五劫思惟阿弥陀如来坐像
2.歴史的背景
浄眞寺開山の地は、室町時代世田谷領吉良氏の家臣太平出羽守の居城、奥沢城の跡地である。豊臣秀吉の小田原北条氏が滅ぼされ、その後天正十八年(1590)同城は廃城となり、寛文五年(1675)に名主七左衛門が寺地としたい旨願いにより、その頃の代官野村彦太夫下が許可された後の延宝六年(1678)に、珂碩(かせき)上人が同地に浄眞寺を創建した。
境内の周囲には、旧奥沢城の主郭に収まっている城塁跡が一辺約150m、高さ2~3mの台形状で4周を廻っている土塁に残されており、北条氏の城に見られる畝掘りまたは箱薬研堀であった。
その周辺に各建物を配置され伽藍を構成している。(資料-1)
(1)伽藍配置
特に境内は、他にあまり見ない伽藍配置持っており、奥沢城跡と伝えられる土塁により囲まれた寺城を巧みに利用し、釈迦佛像を安置した本堂、九躰阿弥陀佛像をそれぞれ三躰づつ安置した三仏堂を、浄土宗の教義である極楽浄土の世界観に沿って配置した伽藍構成を有している。
明快な東西の軸線を持ち、本堂及び三仏堂はその軸線に基づき配置されている。また、土塁に囲まれた境内への入路は、本堂の東西寄りの土塁を一部切り開き、仁王門を建て、境内への結界としている。
あえて境内入口を東側に配しているのも、この軸線を意識したもので、東西に建つ仁王門を潜って西進することは、西方浄土に向かうという意図を示す配置である。
東西の軸線を基軸に本堂及び参道を配置した伽藍構成は、近年浄土宗建築の一例として、その特徴をよく表している寺院である。
本格的に伽藍造立が始まったのは、「珂碩上人」が元禄七年(1694)七十七歳で入滅した以降であり、二世「珂憶上人」が造立に関わり元禄十一年(1698)十月に建立した。
明治期以降の伽藍の配置の変化は、仁王門より東側に新たに昭和初期に東門が出来た。
三仏堂の西側にあった開山堂が、昭和五十三年に開創三百年を記念して現在の本堂の東側に移転した。
(2)九品佛像の造立など
大島村(江東区)の地に念佛堂を建立した際にこの地に九品佛像の造立を開始し、寛文四年(166年)に一躰の造立同七年に至って丈六阿弥陀像九躰が完成し、その後、釈迦如来像一躰をも造立した。この時の出来上がった像は、布貼り・漆貼りを加える以前の素木造りで、漆で地固めをされたのは二年後の寛文九年(1669)、漆箔が施され現在の完成した像になったのは、奥沢移転後である。
当時の大島村は海辺の低湿な土地で、僅かな降雨にも洪水に見舞われる危険な土地であったため寛文九年五月十八日の二度の台風に遭い、洪水のため像も損傷を受けるのである。
九品佛の像等を安全な場所に移転したいと願い、延宝二年(1674)現在の奥沢地に移転した。当時粗末小屋程度の草堂で、延宝八年八月(1680)の台風で九品佛が破損することがあったと「和尚行状」に記載されている。そして、本格的な大殿を双栄することとなり、元禄十一年(1698)に建立された三佛堂及び旧本堂の併せて四棟及び仁王門が建てられ、現在の建物の原型となした。
鐘楼堂は先の諸堂より四年ほど遅れた宝永五年(1708)建立された。
しかし、仁王門が元禄中に焼失し寛政五年(1793)に再建、再建の願いを数回出されたが凶作が続いたため再建には95年かかった。本堂も延享五年(1748)焼失その後、宝暦九年(1759)再建江戸時代後期の浄眞寺は元禄期の伽藍配置とは違いがある。
その後仁王門落成後、仁王尊を造立安置し、二十五菩薩像来迎をも造立しその二層に安置し(資料-2)、文化三年(1806)八月風神雷神像を新たに造立した。
3.事例のどんな点について積極的に評価しているか
九品佛の由来
広い境内の中に本堂の対面に三つの阿弥陀堂があり、それぞれに三躰合計九躰のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。
九種の階位は、上品・中品・下品という三つの階位のそれぞれを更に上生・中生・下生に分けて、上品上生から下品下生までの九階位としている。浄土教における極楽往生の九つの階層を表しており、極楽にいくにも九種類の往生の仕方がある。それは生きている間の人間の努力や心がけなど様々な条件によって、一番下の「下品下生」から一番上の「上品上生」まで九階位に区別され、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。
九品佛とはそれぞれが異なった印を組む九躰の阿弥陀如来様のことで、九躰そろっている例は珍しく、日本では京都府下の浄瑠璃寺(九躰寺)と、ここ淨眞寺のみと言われ我が国における東西の九品佛像の双壁である。
4.国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されているか
淨眞寺にはひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある、三年ごとに奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、江戸時代には「九本山縁起」「江戸名所図会」等で掲げられている。
二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)
浄眞寺には、念佛行者の臨終に、阿弥陀如来が二十五の菩薩をしたがえて西方極楽浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを具現化した「お面かぶり」と呼ばれる佛教行事がある。正式には「二十五菩薩来迎会」といい、これは江戸時代の文政十年(1827)の千部会の時初めて行われが、そののち一時中断されたが明治時代に復活し、現在は3年に一度、本堂は「龍護殿」と言われ浄土(厳正である彼岸)を三佛堂中央の上品堂の間に渡された橋を(六十五メートル)信者の方々が二十五菩薩のお面をかぶり僧侶らと行道する尊くもまた厳粛な儀式であり、菩薩の来迎の様子を表すものだといわれ、東京都の無形民俗文化財に昭和三十八年(1963)に指定されている。平成二十七年(2014)までは8月16日に挙行されたが、平成二十九年(2017)は5月5日に変更され、本来、令和二年(2020)5月5日に執り行われる予定であったが、翌年以降に持ち越された。
現在のお面かぶりは一日だけであるが、戦前は三日間にわたって行われていた。そして、来迎会は関東では、浄眞寺のみであるが、現在も他に全国十二か所ほど行われており、その形式は古くは平安時代の迎講にさかのぼると言われている。
5.今後の展望について
文化元年(1803年)九品佛像の修理、安政五年(1858)及び大正六年(1917)の地震の災厄より損害を受け三佛堂が修復された。昭和五十八年(1983)に三佛堂の大修復工事がおこなった。今回、浄眞寺「平成九品佛大修繕事業」大勧進を行い、九躰の佛像とも全て完成に西暦2014~2034年の20年をかけて、阿弥陀像の大修復保存を行っていることである。
現在は平成二十六年(2014)から令和二年春に亘り一躰に約二年かけて、京都「美術院」国宝修理所で大修繕が完了した「中品中生・中品上生・中品下生」の三躰が中品堂内に揃い(資料-3)、令和二年秋現在、「下品中生佛光背化佛」の佛像が修繕のため御遷座中である。(資料-4)
6.まとめ
緑濃い浄眞寺には、東京都指定天然記念物のイチョウ昭和三十八年(1963)に指定、カヤ昭和二十七年(1957)に指定があり自然に包まれたお寺で、サギソウ(世田谷区の花)が本堂脇の片隅に僅かに残っているなかで、このような「九品佛唯在念佛淨眞寺」の阿弥陀様の大修復保存を行うことにより伝統ある佛像と、伝統行事である東京都の無形民俗文化財にも指定されている「二十五菩薩来迎会」を次世代の人のために残し、継続して保存していくことが大切なことである。
参考文献
「浄真寺 文化財綜合調査報告書」
編集者:世田谷区郷土資料館
発行者:東京都世田谷区教育委員会 昭和61年3月発行
印 刷:㈱沼田写真印刷
「特別展九品仏―浄真寺」
発行者:世田谷区郷土資料館 昭和62年10月発行
印 刷:㈱福昌堂印刷所
「九品佛縁起」 発行者:浄眞寺 平成23年4月発行
「九品山報」 発行者:浄眞寺 令和元年11月号・令和2年1月号・令和2年11月号・令和3年1月号
「奥沢 世田谷区民族調査第5次報告」
発行者:東京都世田谷区教育委員会 発行:昭和60年3月
編集者世田谷区民族調査団
印 刷:㈲妻木プリント&アド・シティ企画
「史跡散歩」
発行者:東京都世田谷区 発行:昭和46年2月
編集者:世田谷区民族調査団
印 刷:大日本印刷株式会社
(『九品佛唯在念佛院 浄眞寺』https://kuhombutsu.jp/event/omenkaburi/)