原風景は感動を呼び起こす「景観」の要素     大宮公園、第二・第三公園の水辺を散策して

萩原 和彦

はじめに
現在の氷川神社および大宮公園が位置する地は元来、芝川の浸食によって生まれた見沼低地を望む台地の縁辺部にあたり、アカマツや萩、ススキをはじめとする原生林に覆われた土地であった。 また、現在の第二・第三公園が位置するあたりは見沼と呼ばれる広大な湖沼があった。見沼はかつて「神沼」や「御沼」とも呼ばれ、豊かな恵みを与える神聖な水をたたえた湖沼であった。この見沼が氷川神社の成立に重要な位置を占めていると考えられている。
現在の大宮公園、第二・第三公園は、一世紀余りをかけて少しずつ植林・造園された公園で、四季を通じて人々を楽しませてくれる。今回、大宮公園、第二・第三公園の水辺を中心に散策して感じた美しい「景観」は、アシの影のカエルの気配であり、ヒコバエの新緑や雑草の水滴、菖蒲田とトンボのブルー、交差する松と桜の枝、夕日が反射する水面といった、自然そのものであった。ではこの豊かな自然、原風景を感じる情緒的な「景観」はどのように形成され、そしてどのように維持されていくのか。実際に、大宮公園、第二・第三公園の水辺を中心に散策し、その「景観」の歴史をたどり、評価すべき点などを考察する。

対象の場所
大宮公園、第二・第三公園は、大宮駅から東側に歩いて15分ほどの氷川神社からその先の芝川までの間に連なる公園である。住所は埼玉県さいたま市大宮区および見沼区である。合計67.8ヘクタールの面積を有する。

大宮公園、第二・第三公園の概要
大宮公園は、1885年(明治18年)に「氷川公園」の名で開園して以来、広く人々に親しまれて今日に至っている。大宮駅に程近く、また武蔵一宮・氷川神社に隣接するという恵まれた立地条件に加え、四季を彩る草木の美しさ、野球・サッカー・水泳・弓道などの各種競技施設を備えていることは人々が公園に足を向ける大きな要素となっている。
近年、公園は拡張されている。第二公園は1980年(昭和55)年に開設。多目的広場やひょうたん池(河川調節池)を中心とする広場や梅林、 アジサイ園、菖蒲田など四季折々の花の観賞スポット、テニスコートや軟式野球場等の施設がある。
第三公園は2001年(平成13)年に開設。 芝生広場やジョギングコースを有する広場園路があるほか、見沼田んぼの原風景を再現した湿地(みぬまの沼)や、野鳥観察小屋がある。

大宮公園の歴史
1)江戸から明治へ
江戸時代後期の地誌『江戸名所図会』には「大宮驛 氷川明神社(おおみやのえき ひかわみょうじんのやしろ)」が載せられており、この当時から氷川神社が地元はもとより広く江戸の住人たちからも親しまれていたことがうかがえ、大宮公園のあたりは松林が描かれている。
明治に入り欧化政策を推進する政府は、1873年(明治6年)に西欧諸国に倣って公園を設置するべく、その候補地の選定を大政官布告により各府県に対して求めた。大宮でも1883年(明治16年)の上野〜熊谷間の鉄道開通を契機に、大宮駅の設置と旧氷川神社領官有地の公園化を二本柱とした地元住民による請願活動が始まり、1885年(明治18年)の3月に大宮駅が開設され、9月には県が中心となって「氷川公園」の開園式が行われた。「氷川公園」は当時から「大宮公園」とも称されていたが、公式に「埼玉県立大宮公園」となったのは、1948年(昭和23年)である。

2)明治から大正へ
館内に鉱泉を専有していた万松楼をはじめ、1902年(明治35年)には、八重垣、石州楼、三橋亭を加えた四軒の割烹旅館が公園内にあった。また1907年(明治40年)以降、東京から各種学校が大宮公園を頻繁に訪れ始めた。このころの「景観」は当時の文学から想像できる。

「ふみこんで帰る道なし萩の原」
正岡子規が学生であったころ万松楼に滞在中に詠んだ句。1891年(明治24年)の秋。

「大宮公園は、静かな好い處だ。初夏の朝など殊に好い。黄くなった麦畑、田植の済んだ青々とした水田、松林に朝霧がかかって、あたりが茫としている。」
田山花袋の『一日の行楽』の一文から。 1918年(大正7年)。

その後、茶店・割烹旅館等が園内の主要地を占めるようになり、また公園内の施設の老朽化も進んだため、1928年(大正10年)、東京帝国大学の本多静六博士が指導・設計した「埼玉県氷川公園改良計画」がまとめられた。

3)昭和から現在へ
鉄道をはじめとする交通網の整備が進み、都市近郊の市民生活が余裕を持ち始めたこともあって、大正から昭和にかけて、市民は手軽な旅行を楽しみ始めていた。そのような中、東京から日帰り、又は一泊二泊で訪れる行楽地として、大宮公園はさらに多くの来園者を集めていった。1929年の東武野田線の開通と大宮公園駅の開設、1932年(昭和7年)には大宮駅に「省線電車」(現・京浜東北線)も乗り入れを開始した。その一方で、1934年(昭和9年)には公園内の割烹旅館が園外へ立ち退くなど、継続中の公園改良工事が順調に進められ、同年の野球場の竣工、1939年(昭和14年)の双輪場の竣工、その翌年の陸上競技場の竣工など、次第に今日の大宮公園の姿が整えられていった。戦後、東京近郊には新たに多数の行楽地が誕生したこともあって、大宮公園もその役割を県民の憩いの場に転じていく。

評価点
1)大宮第三公園(写真A)
見沼田んぼ以前の原風景を再現する湿地(みぬまの沼)が圧巻の「景観」である。アシの間から「かえる」の泣き声が聞こえ、湿地の縁にはカモたちがくつろいでいる。
この第三公園は2001年(平成13)年に開設した新しい公園ではあるが、歴史を紐解いてみるとこの公園群の最も原始的な「景観」である。これから数十年と年月が経ち、公園内の自然がより成熟した場合、最も美しい「景観」になるはずである。

2)大宮第二公園(写真B)
ひょうたん池(河川調節池)を中心とする広々とした空間である。河川調節池であるため、ひょうたん池を高台から見下ろす「景観」が壮観である。芝川と見沼用水の間にある場所で、水に生かされ水に悩まれた歴史がある。河川調節池である治水という機能を有しながら、公園としても活かされている。歴史を紐解いてみると、氷川神社のある高台から見沼の低地を見下ろしていたころの情緒を体現できる「景観」であり、原風景の再現であると考える。

3)大宮公園(写真C)
公園中央の低地にあり緑の影を映した「ボート池」を中心に、四季折々いつ出かけても自然に触れ合える空間である。ソメイヨシノをはじめ約1000本の桜があり「日本さくら名所100選」にも選ばれている。春だけでなく初夏の新緑、夏の緑と影、秋の紅葉、そして冬には静かなたたずまいの木々が癒しの「景観」を構成している。氷川神社の奥山とされていたころの松林の景観も維持されている。

特筆すべき点
大宮公園周辺にはいくつかの遺跡が分布している。公園内の北部から発見された「大宮公園内遺跡」からは、弥生時代後期(1800年前)の竪穴住居が発見され土器が出土している。住居跡だけではなく方形周溝墓と呼ばれる墓も見つかっている。この大宮公園内遺跡のように、小高い大地の上にムラと墓地がつくられ、低地や谷に水田がある景観は、日本の農村の原風景といえる構成である。第二・第三公園周辺では、多数貝塚が発見されている。見沼と呼ばれる地域が古来は海の沿岸であったことがうかがえる。特筆すべきは、公園内の北西部にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」(建物は建築家・故前川國男氏による設計)の存在により、これらの公園の過去の遺物を知り体験として過去の「景観」に思いを馳せることができる点である。

今後の展望
埼玉県は公園の歴史的価値や日本的風景を継承する、次の100年先を見据えた公園整備の基本的な考えをまとめた「大宮公園グランドデザイン」を2019年(平成31年)に作成。将来像の実現に向けたゾーニングを示している。その中で、持続可能な公園運営の仕組みづくりとして、超少子高齢化社会を背景に公共事業の予算や人員の確保の厳しさを上げ行政のみでの公園管理の難しさにふれ、民間との連携によるパークマネジメントの推進や多様な公園運営の可能性を視野に、持続可能な公園運営を行う必要があるとしている。

まとめ
氷川神社の奥山の公園化からスタートした大宮公園は、今も松林を中心とした原生林と低地に広がる美しい湖面を残し、拡張した第二・第三公園は、氷川神社高台から見下ろされていたであろう一面の湿地あるいはその後の見沼たんぼのような懐かしい原風景を感じることができる。これらの「景観」にはこの一世紀を余りをかけて少しずつ植林・造園された草木があり、さらにこの先もこの自然を維持していくことによって、この地域の原風景に近づいていくことになると考えられる。

  • 1 大宮公園、第二・第三公園の地図

    埼玉県公式ホームページ「交通アクセス - 埼玉県大宮公園」
    https://www.pref.saitama.lg.jp/omiya-park/access.html
    (2021年2月19日閲覧)
  • 2 大宮公園、第二・第三公園を実際に歩いたルート

    埼玉県公式ホームページ「大宮公園グランドデザイン 概要版」
    P2「図 2-1 大宮公園の施設概要」を用い、著者が歩いたルートとA~Cを記載。
    https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/oomiyagd.html
    (2021年2月19日閲覧)
  • 3 (A)大宮第三公園のみぬまの沼(2020年5月2日、筆者撮影)
  • 4 (B)大宮第二公園のひょうたん池(芝川第七調整池)(2020年7月11日、筆者撮影)
  • 5 (C)大宮公園のボート池(2020年5月3日、筆者撮影)
  • 6 大正時代の蛇松(大宮公園の現NACK5スタジアム付近から、現大宮第二・第三公園方向)
    (『写真でみる 大宮の昔と今』より)

    蛇の鎌首に似た姿から「蛇松」と呼ばれるが、徳川家光公が鷹狩りでに寵愛の鷹が行方不明となり氷川神社に祈願したところ、この松に止まり、家光公の手に戻ったという「鷹止の松」の逸話もある。今はもうこの松は残っていない。

    大宮公園より東側の見沼の地域は、一面がたんぼであったことがうかがえる。
  • 7 1940年(昭和15年)のボート池。(『写真でみる 大宮の昔と今』より)

    森鴎外が『青年』で書いた「かすかに三味線の音がする」というのは中央に見える「含翠楼(がんすいろう)」であるとされている。

    「二人は公園の門を這入った。常磐木の間に、葉の黄ばんだ雑木の交っている茂みを見込む、二本柱の門に、大宮公園と大字で書いた木札の、稍古びたのが掛かっているのである。
     落葉の散らばっている、幅の広い道に、人の影も見えない。なる程大村の散歩に来そうな処だと、純一は思った。只どこからか微かに三味線しゃみせんの音がする。純一が云った。」
    森鴎外著「青年」新潮社、1948年
  • 8 大宮公園グランドデザイン

    埼玉県公式ホームページ「大宮公園グランドデザイン 概要版」
    P11「図 7-1 将来像のイメージ」
    https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/oomiyagd.html
    (2021年2月19日閲覧)

    大宮公園グランドデザイン検討委員会は、2019年に将来像の実現に向けたゾーニングを示している。イメージは「公園内の土地利用の方向性や備えるべき主な機能の概略を示すものであり、詳細な施設の設置場所、規模、諸元、デザイン等は、今後検討していく」としている。

参考文献

埼玉県立歴史と民俗の博物館編『氷川神社と大宮公園-展示解説書-』埼玉県立歴史と民俗の博物館、2015年
斎藤幸雄著他『江戸名所図会4 新訂』筑摩書房、1996年
『大宮市遺跡調査会報告 第8集 大宮公園内遺跡』大宮市遺跡調査会、1983年
さいたま文学館編『大宮公園と文学者たち-企画展-』さいたま文学館、1999年
大宮市立博物館編『写真でみる 大宮の昔と今』大宮市教育委員会、1990年
正岡子規著他『日本の詩歌3』中央公論新社、2003年
野尻靖著『大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化』さきたま出版会、2020年
氷川神社編『武蔵一宮氷川神社 氷川の杜を訪ねて~古絵葉書集~』氷川神社、2020年

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