豊多摩監獄の価値とその遺産

齋藤 夏菜

中野区では、2020年1月現在、豊多摩監獄の正門の保存の是非についての議論が交わされている。正門が建っている場所に区立小学校の建設が予定されているためである。2018年10月、意見を公募した結果、建築学会や美術評論家から多くの保存要望が寄せられ、現地保存し都文化財指定を目指す方針に一旦は決定した。しかし、2019年に入ると雲行きが怪しくなり、方針撤回の可能性が出てきたのである。
豊多摩監獄の正門には、どれだけの価値があるのか。そもそも、豊多摩監獄とは、どのような存在であったのか。歴史や類似事例との比較から、その価値について考えてみる。

1.豊多摩監獄の概要
豊多摩監獄とは、1915年(大正4年)から1983年(昭和58年)までの間、中野区新井3丁目に存在した、13万㎡を超える敷地を持つ刑務所である。歴史の中で、「豊多摩刑務所」「中野刑務所」と名前を変えていったが、本稿では、基本的に、完成当初の「豊多摩監獄」の呼称を用いる。
豊多摩監獄は、大正時代の名建築の一つとして高く評価されている。設計者は、司法省技師の後藤慶二。完成当初は、建物だけでなく外塀まで、壮麗な総赤レンガ作りであった。主な建物は、事務所、中央看守所、分房監(2棟)、雑居監(2棟)、特別監(4棟)、教誨堂、検身所(2棟)、工場(4棟)、病監(3棟)、炊所、倉庫、医務所、農作物置場など。なお、建築に使われた煉瓦はすべて小菅刑務所の囚人が焼いたもので、工事はごく一部の特殊な作業を除き、すべて囚人の手で行われた。
廃丁後は、正門のみを残して解体された。跡地は中野区と東京都の所有となり、平和の森公園、都市水道局中野水再生センター(下水処理場)、法務省矯正研修所東京支所として利用されてきた。が、矯正研修所は既に閉鎖されており、跡地には前述の通り区立小学校が建設される予定である。平和の森公園は大規模な再開発工事中である。

2.豊多摩監獄の歴史
豊多摩監獄の歴史は、江戸時代まで遡る。1613年(慶長18年)、江戸常盤橋門外に初めての牢屋敷がつくられた。その数年後、江戸の中心部である日本橋小伝馬町に移転し、「小伝馬町牢屋敷」が完成。以来、260年間に渡って、江戸の犯罪者の収容を一手に引き受けた。初期の行刑は威嚇的で残虐なものであったが、時代が下るにつれ、囚人の待遇は改善されていった。明治時代になると、小伝馬町牢屋敷は町奉行の管轄から東京府政裁判所の管轄へと変わり、「懲役法」などの人道的な法律が制定された。
1875年(明治8年)に市ヶ谷谷町に移転し、「市ヶ谷監獄」となった。市ヶ谷監獄は衛生面に配慮された施設であったが、収容人員が少なかったため、犯罪者を収容し切れなくなった。
1909年(明治42年)、市ヶ谷監獄が、広大な荒地であった現在の位置に移転。そして、5年の歳月をかけて、1915年(大正4年)に「豊多摩監獄」として完成した。同年、「豊多摩監獄階級処遇規程」がつくられ、日本で初めて、犯罪者の悪性の程度による累進処遇制度が適用された。1922年(大正11年)には「豊多摩刑務所」と改称して再出発した。
1923年(大正12年)、関東大震災で倒壊し、8年かけて修復した。この時期、治安維持法違反での検挙者が激増し、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高といった高名な思想家たちが相次いで豊多摩刑務所の十字舎房に収容された。1945年(昭和20年)には、空襲を受けて、工場、医務所、宿舎などが壊滅状態になった。
1946年(昭和21年)、連合軍に接収され、米軍拘禁所(「米軍中野スタッケード」)となった。以後10年間、刑務所の機能は、浦和刑務支所跡や習志野作業所に移管されていた。
1957年(昭和32年)に返還され、「中野刑務所」と改称。病舎の建築、舎房の改装、工場の新設などの修理を行い、日本初の犯罪者の分類センターや職業訓練所の機能を持つ施設として再出発した。安保闘争の時代には、公安被告の収容に充てられた。
1983年(昭和58年)、中野区民の熱心な刑務所解放運動により、廃丁となった。

3.他の事例との比較
では、豊多摩監獄の特性とは何処にあるのであろうか。類似事例として、明治五大監獄(千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島)を簡単に見てみる。
明治五大監獄とは、明治時代に全国5ヶ所に造られた監獄のことである。設計者はいずれも後藤慶二の先輩にあたる山下啓二郎である。鹿児島監獄は石造、その他は赤レンガ作りであった。

3-1.千葉監獄
1907年(明治40年)竣工。現在も千葉刑務所として使われているが、現存する明治時代の建築は正門と事務棟のみである。

3-2.金沢監獄
1907年(明治40年)竣工。跡地は金沢美術工芸大学として使われている。正門・中央看守所・監房は愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。

3-3.奈良監獄
1908年(明治41年)竣工。1946年以降は奈良少年刑務所として使われていたが、2017年に老朽化により閉鎖された。重要文化財に指定され、近々ホテルとして生まれ変わる予定である。五大監獄の中で唯一、全貌を残す建築である。

3-4.長崎監獄
1908年(明治41年)竣工。1992年に移転した。
2007年に取り壊され、跡地は商業施設などとなっている。現存する建築は正門のみである。

3-5.鹿児島監獄
1908年(明治41年)竣工。1985年(昭和60年)に移転した。跡地の大半は鹿児島アリーナなり、一部は鹿児島拘置支所として残った。現存する建築は正門のみである。

どの監獄も、長い歴史の中で、柔軟に役割を変えてきたことが分かる。建物の老朽化は免れないので、奈良監獄以外は、正門などのごく一部しか現存していない。とはいえ、少なくとも一部は、歴史的建造物として丁重に保存されている。これは、古い監獄建築が貴重な芸術作品として世間的に認められている証拠である。それに対し、同じく貴重な芸術作品であるはずの豊多摩監獄は、今、跡形もなく消される危機にある。

4.積極的に評価できる点
豊多摩監獄の評価できる特性の一つは、なんと言っても、天才建築技師後藤慶二の唯一の完成作品であるという点であろう。山下啓二郎の作品はいくつもあるが、後藤慶二の作品は実質これ一つだけなのである。
後藤は、東京帝国大学工科大学建築科を卒業すると同時に司法省に入省した。豊多摩監獄の設計は、入省後最初に与えられた仕事であった。もともと画家を志していた後藤は、画家になりたいという夢との狭間で煩悶しながら、その芸術的才能と科学的才能とをこの建築に注ぎ込んだ。そして、ヨーロッパの建築を参考に、その手法を設計図に落とし込んでいき、鉄筋コンクリート造りの床や梁、鉄骨で造られたドームなど、日本で初めての建築的試みを随所に採り入れた。西洋の童話に出てきそうな牧歌的雰囲気を持ったこの建築は、一目で人々を魅了した。そして、後藤は、豊多摩監獄一作をもって、建築家としての地位を認められたのである。その後、東京区裁判所の設計も任されたが、完成前に36歳の若さで夭逝してしまった。
また、豊多摩監獄は、その歴史を見ても分かる通り、江戸時代以来ずっと、日本の首都の刑務所であった。よって、必然的に、常に日本の行刑の最先端であり、中心であった。そのため、諸外国からの参観も多かった。治安維持法違反で思想家たちが続々と投獄された時期にも、首都東京の豊多摩監獄には、リーダー格の重要人物がより多く収容された。豊多摩監獄は、いわば日本の行刑の歴史の第一証人であったのである。

5.今後の展望
以上で見てきたように、豊多摩監獄には、建築面から見ても、歴史面から見ても、他には替えがたい価値がある。しかし、廃丁後40年近く経つ現在、豊多摩監獄のことを話題にする人は少なく、その存在は風化しつつある。それどころか、街に監獄の面影を残すことがマイナスイメージとして敬遠されているようである。
犯罪や刑務所は、社会の、歴史の、重要な一面である。単なる汚点として視界から排除するべきではない。それに、このような貴重な芸術作品を失うことは、人類にとっての損失といえる。正門は何としてでも保存してほしい。そして、刑務所という特殊な世界が、偏見から免れ、広く理解され考察されるきっかけとなるような公の場所として活用してほしい。

  • 添付資料すべて非掲載

参考文献

中村鎭『後藤慶二氏遺稿』、ゆまに書房、2009年。
中野区企画部編『中野のまちと刑務所 中野刑務所発祥から水と緑の公園まで』、中野区、1984年。
芦原義信編『東京人no.140』、1999年。

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