道と川が織り成す名古屋城下の基盤割

中島 すえみ

♦はじめに
日本の国の中心地である尾張は戦国の英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を生んだ地である。
家康は天下分け目の戦に勝利。当時、尾張は清州城が拠点であったが、豊臣方の西方からの攻めに備えるために名古屋城の築城を始め、と同時に名古屋の経済発展の町づくりも行った。400年を越えて、今なお残る『基盤割』の町の歴史的景観と今後の在り方について考察する。

♦基本データ
所在地  名古屋市中区丸の内1丁目~3丁目
錦1丁目~3丁目
基盤割は東西通り(現)外堀通りから広小路通り(9筋)
南北通り(現)御園町通りから久屋大通り(11通り)

♦歴史的背景
6千年前は名古屋の半分は海であった。熱田台地の先端に熱田神宮が鎮座した。
かつては『那古野』といい、一説によるとこの地方の方言で霧のことを「なご」と呼び、かつて湿地であったので「なごの降る野」ということで『なごや』と呼んだといわれている。₍₁₎
家康が数々の戦を乗り越え、関ケ原の戦いに勝利し、それまでの要所は清州城であったが、清州城は低湿地帯のために水害に弱く、手狭であったことや今後の動向のため、武士を多数養うための城や城下町が必要となり、新しく軍事的に適地であった熱田台地の北西に城を構えることとなった。この地は台地のため北西部の低湿地との高低差10mが西から攻められたときの防御になり、城から南へ広がる平地は経済力を高めるために好立地であった。₍₂₎
慶長15年(1610)に名古屋城は家康が西国の大名達に命じて天下普請が始まった。と同時に家康は堀川を福島正則に命じ、開削させた。名古屋城築城のための資材運搬のみならず、河岸地として水運による商業集落を形成し、経済活動を活発にさせるためでもあった。
もう一つ、家康は城を建て兵力を保持していくためにそれを支える経済活動を高めるための町づくりを始めたのである。こうして家康は、名古屋の城下町を『基盤割』をし、壮大な引っ越しをしたのである。尾張の要所だった清州城から名古屋城へ町ぐるみ、町民、寺社、橋、町名までも移動させたのである。この移動には清州から五条川にて伊勢の海に出て堀川を遡るという舟運と美濃街道が使われたのである。これらを『清州越し』といい、歴史的に見ても稀有な新都の幕開けであった。清州の町で使われていた町名を名古屋の城下町で使われたということはその町名に由来した町民が住まい、または町名の職業をし、経済活動を活発にし、以後の名古屋の発展に貢献したのである。₍₃₎

♦評価点
400年の歳月を越えて、『基盤割』の区画は現在、ほぼ原形をとどめている。基盤割の中心を走る本町通りは昭和の初めまで名古屋の基幹道路として名古屋の大店や銀行が軒を連ねていた。
料亭 河文は河内屋文左衛門が清州越しで、魚屋として創業、その後、尾張徳川家に目利きを認められ、仕出し、料理屋として名古屋で一番古い料亭として大体、現在地で商いをしておられる。敷地内の塀、脇門、表門、主屋、新用亭、渡り廊下、用々亭、厨房が国の登録有形文化財されている。また、あまり知られていないようだが、中庭の東側に高さ15mほどの1本の大きな木があるが、名古屋城築城の際に東西南北に大きな木を植えて資材運搬の人が目印にしたのだそうである。真南の目印の椎の木を見せていただいた。風雨にさらされ、戦禍にも枯れず、400年、河文の庭を見下ろしていた。₍₄₎
御菓子所 両口屋是清の初代猿屋三郎右衛門は大阪から一旗揚げようと現在の地に来たという。「いつかはお殿様の御用菓子に」という思いでお店を開き、2代目の三郎兵衛が「御菓子所 両口屋是清」の表看板を頂き、まもなく350年を迎えようとしている。創業当時の資料は火事や戦争で残っていないが、唯一残っているのが通筥である。1段10㎝が5段30㎝角の大きな通筥である。漆塗りの葵の御紋入りの通筥は名古屋城に持って上がる時に和菓子を詰め、通行証代わりになったという。江戸時代から途切れずにお菓子のみの商いをし、暖簾を守ってきたのである。₍₅₎
忘れてならないのが、いとう呉服店。「呉服小間物商伊藤屋」という屋号で伊藤蘭丸祐道が始めたといわれている。清州越しで本町に店を構え、以後、火災や戦争を経て、本町から広小路へ進出。社名も『松坂屋』と変え、全国に進出、成功を収めてみえる。₍₆₎
料亭河文、両口屋是清、松坂屋いずれも美術工芸品や高級品を見せびらかすというのではなく、築城の際の目印の椎の木、お城に上がるときの通筥、商売の心意気という誠実な態度を重く受け止め、真摯な商いをし、400年の時を越えて景観と共に歴史を感じさせてくれている。
基盤割の町並みが残って居ることも評価しなくてはいけないが、つい見過ごしがちなことも景観と共に評価したいのである。

♦比較
城下町は本来、敵に攻められた時の護りを考え、できるだけ城に近づきにくい複雑な道路網を敷くのであるが、家康は多々の戦を終え、太平の世を作りたかったのであろうか、名古屋に限って言えば、『基盤割』は現代にまでも通用する都市計画法だったのではないだろうか。名古屋城築城以前に家康が天下普請をした江戸城の城下町は古地図を見る限り、とてもランダムで基盤割のように見えるところもあるが、きっちりとはしていない。また、現在の地図を見ても基盤割のようなところと放射線状のところが混在している。それは大火や震災、戦禍が関係しているようだが、しかしながら、名古屋も大火もあり、戦禍にもあっているが、道路幅などは違えど、ほぼそのままに残っている。₍₇₎
家康は京都を模して『基盤割』の町づくりをしたようだが、京都の基盤割は正方形や短冊形が混在しているのである。秀吉は「天正の地割」という、1辺が120mの正方形を基本とし、通りに面した町づくりを形成した。通りに接していない中心部は空き地となり、空き地を有効活用するために正方形を縦に分割し、南北に道を作った。これが短冊形の街区ができた理由である。祇園祭で巡行する山鉾を33基出している町は正方形の街区である。経済力のある町を地割させなかったのには、「地割で無理に切ったら秩序や伝統も壊すことになる」したがって天下の秀吉といえども地割に着手できなかったという。その後、明治時代のメインストリートは三条通りであったが、三条通りを拡幅できなかったことや路面電車のルートから外れてしまいメインストリートではなくなってしまった。しかし、現在では、それが三条通りの歴史的景観や近代建築が残されたことによる新たな魅力があふれ、個性的な町となった。₍₈₎
名古屋の城下町の『基盤割』は家康が残した秩序ある町割りで、以後、道路の拡幅はあるものの現在まで守られてきたが、交通網が発達し、名古屋駅ができたことにより、本町は衰退し、代わって広小路に都市開発の波が移っていったのである。

♦今後の展望
日本の3大都市、東京と大阪と名古屋、東京と大阪に挟まれて「名古屋飛ばし」なんていうこともあるし、少しだけ知名度が低い。言い換えれば、東京と大阪は観光地が手招きして呼んでいるのだが、名古屋は違うのだ。工業生産高は他の2都市を押さえて断トツの一位。ものづくりに1500年の歴史を持っているのに寡黙なのである。寡黙に日本を支えているのである。支えているのだが、アピールをしていない。『基盤割』のみならず、歴史のあるもの、世界に誇れるものが数々あるのだけれどもアピールをしないのである。折しも名古屋城の木造復元工事で名古屋の歴史的景観が見直されているようである。河文の椎の木も両口屋是清の通筥もとても歴史あるものが街中にあふれているので官民共同で価値を高め、『基盤割』の町の歴史的景観にプラスして味わい深い名古屋の街になることを願っている。

  • %e4%b8%ad%e5%b3%b61%e5%b7%ae%e6%9b%bf_%e5%90%8d%e5%8f%a4%e5%b1%8b%e5%9f%8e%e4%b8%8b%e7%94%ba 基盤割の範囲 筆者作図
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b62 熱田台地 「名古屋并熱田図」徳川美術館蔵 筆者作図
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b63 ③札ノ辻 上 「札ノ辻」尾張名所図会」 蓬左文庫蔵
         下  現在の 札ノ辻 本町通伝馬町交差点 2019/1/27 筆者撮影
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b64 ④料亭 河文 左 江戸時代から立っている椎の木 2019/1/18 筆者撮影
           右 表門 国の有形文化財 2019/1/18 筆者撮影
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b65 ⑤左上 両口屋是清栄店 通筥 2019/1/18 筆者撮影
     左下 両口屋是清本店 外観 2018/8/16 筆者撮影
     右上 本町京町筋交差点 道標 2019/8/16 筆者撮影
     右下 アイリス愛知 外観 2019/1/18 筆者撮影
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b66 ➅右上 広小路 本町より久屋大通 東向       右下 本町より熱田方面 南向
     左上    本町より久屋大通 名古屋駅方面 西向 左下 本町より名古屋城方面北向
                                     すべて 2019/1/18 筆者撮影
  • %e4%b8%ad%e5%b3%b67 ⑦右  堀川沿い 中橋 土蔵 前面道路 四間道
     左上 堀川沿い 五条橋 土蔵 現在はレストラン
     左下 堀川沿い 荷揚げ場 五条橋の擬宝珠も清州越しでもってきた。すべて筆者撮影

参考文献

₍₁₎ 名古屋市HP city.nagoya.jp
₍₂₎ 名古屋歴史散歩 都市研究会 洋泉社 2018.1.26
₍₃₎ ナゴヤ歴史探検 名古屋市教育委員会 ぴあ 2018.6.20
₍₄₎ 料亭河文 若女将 香川絢子様 河文にてインタビュー 2018.1.18
₍₅₎ 御菓子所両口屋是清企画部広報グループ 浅井慎也様 メールにて質問書 
₍₆₎ 一般財団法人J.フロントリテイリング史料室 加藤恵美様 メールにて質問書
₍₇₎ http://tettu.hatenablog.jp/entry 日本世界地図を読み込むと意外と面白い 2019/1/11
₍₈₎ http://www.sanjyo-kyo.jp/sanjyostreet.htel 京の三条まちづくり協議会 2019/1/29

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