明石公園
明石公園は、兵庫県が管理する城址公園で、所在地は明石市公園1−27、明石駅の北側に隣接し、面積は54.8ha(50ha以上広域公園)である。明石城史跡、運動施設、サービスセンター、喫茶などの施設が点在するが、大部分は緑が主体のオープンスペースの都市公園である1、2)。明石公園は現在に至るまで憩いの場、スポーツの場、さまざまな活動の場として利用され多くの市民に愛されてきた。さらに、公園の緑は周辺の人々に癒しの空間を与えてきた。実際、私の診療所でも患者さんや付き添いの家族が明石公園を目を細めて眺めている光景をよくであう。このように明石公園は住民の心に深く刻まれており、市民の大切な文化的資産であると考えられる。今回調べてみると、その誕生以降に市民に親しまれてきた歴史があることや、文化的資産としての特徴と関係していることがうかがわれた。また、今後の展望についても歴史的背景を踏まえて考えたい。
「明石公園の歴史」
① 明石城の築城
明石は古代から交通の要衝で、徳川幕府が全国を支配する上で重要であった。1618年に将軍秀忠が小笠原秀忠に命じ築城された。本丸の4隅には、4つの櫓、坤櫓(現存)・巽櫓(現存)・艮櫓・乾櫓がたてられたが、天守閣は作られなかった3)。その他にも二の丸、三の丸合わせて20の櫓がたてられた。天守台からは海岸線までは800メートルほどで、明石海峡から淡路島、大阪湾が見渡せ、船の往来を監視するには絶好の立地であった。天守閣こそないが、櫓は3層からなる立派なもので、石垣の美しい積み石と共に勇姿を誇っており、別名「喜春城」と呼ばれている。立地条件、美しい櫓と石垣は、城址公園としての重要な要素と考えられる。また、築城時には剣豪宮本武蔵が整然とした町割をおこなったといわれており4)、その町割は今なお健在で、地元住民と明石城の結びつきは深い。
② 明治維新「民営明石公園』
明治4年の廃藩置県により、藩主松平直致は城を追われ、建物も払い下げが進んだ。明治6年の廃城令により城は3つの櫓と土塀が残るのみとなってしまった。明治9年に地元の人が誇りとしていた角櫓が払い下げられることになり、旧藩士たちは騒然となり騒動がおこった。旧藩士らによる必死の訴えにより、借地申請が認められることになり明治16年5月31日に民営「明石公園」(本丸、二の丸、三の丸のみ)が誕生した。現在のように公園の自然を楽しむという考えがまだない中、本丸跡に開帳していた人丸神社への参詣が、当時の人たちのリクリエーションの1つとして活用されたと考えられる。明石公園は地元の人の主導で開園されたことは重要と思う。
③ 県立明石公園への移管〜戦前
民営公園として運営されていた明石公園は、現在のJRや山陽電鉄の伸長で、利用者が大幅に増加し、公園の公共性が徐々に浸透したため、明治29年に管理が郡部に移管された。その後、明治31年に明石公園は宮内省管轄の御領地の時代を経て、大正7年4月14日に県立公園が開園する。県議会が提出した公園開設意見書には、「県民に保健」という視点が強調されており、それまでの物見遊山の公園と一線を画した革新的なもので、その後の公園の整備や運営に反映された。運営費の多くの部分が山陽電鉄はじめとする地元からの寄付で賄われ、地元の協力が不可欠であった。開園に際しておこなわれた整備は、現在の明石公園の景観の重要な要素である。正面前大路(太鼓門〜城崖)は、当時としては幅広い道(21.8m)が一直線に本丸に伸びており、その距離はさほど長くないのであるが、2つの櫓、石垣と相まって堂々とした佇まいを醸し出している。大正7年の4月14日の一般公開に先立ち行われた開園式には約800名が参加し、入り口にはアーチ、園遊会の楽隊、模擬店や花火が打ち上げられ町内をあげて盛大に行われた。軍楽隊による演奏会、人々は喫茶店でのコーヒーや洋菓子を楽しんだという。大正12年には菊花展が初開催され園内には菊花栽培場が設置され、現在も引き継がれている。昭和の有償払い下げで、広い芝生広場、幅広い園道(幅14.4m正面入り口から剛之池まで)、桜の植樹、剛の池畔の整備、野球場の整備、東西の不浄門の解放されほぼ現在の明石公園の形となった。
④ 戦時中
明石市は川崎航空機明石工場、神戸製鋼、川崎車両など軍需工場があったため、激しい空襲に見舞われた。第2回目の空襲は明石公園にも襲来し、公園の樹木を焼き尽くし、公園に逃げ込んだ市民269名が犠牲になった。その時の悲痛な思い出を語ることができる人は少なくなっているが、常緑広葉樹で株立ちなっているのは今に残る空襲による被災の証拠である。
⑤ 戦災からの復興
市街地の61%が消失した明石市ではあったが、幸いにして明石公園の不法占拠はなかった。明石公園が愛着と侵し難い場所として住民に定着していたためではないかと思う。昭和21年の朝日新聞主催の全国中等学校野球大会の兵庫県予選を明石公園で行うことが決定したことで、学生による奉仕活動により急ピッチで野球場の復興が行われた。その後の公園の復興は戦後の失業対策として多くの人々が就労した。総合運動場、バレーボールコート、テニス場、競輪場、文化博物館、図書館などが誕生した。復興でも、住民が大きく貢献した。
⑥ 現在の明石公園
平成にはいり公園の管理や利用の促進に重点が置かれる時代となった。明石公園は、築城から、明治・大正・昭和の長い年月をかけて、地域住民がその時代ごとに関わりを持ちながら成長してきたため、文化施設として深く根ずいていることは、特筆すべき特徴ではないかと思う。地元の人であれば誰でも一つや二つ明石公園にまつわる思い出を持っている。その思い出は、高校野球の県大会や菊花展などの催しや、桜の時期の公園内の散策などさまざまである。公園に足を運び非日常を味わう経験は、人間再生の場であり、文化であると捉えることができると思う。現代生活で損なわれがちな人間性を回復させ、人と文明調和させる働きをもつ機能が公園には期待されるのであるが、明石公園は十二分に役目をはしていると考えられる。しかし、今後急速に変化する社会情勢に対し、より市民に愛され親しまれるための努力も必要と考えられる。
《今後の展望》
現在、高齢化が重要な問題で、健康寿命を延ばすことはすべての人の希望であろう。テレビでも健康に関する情報番組が放映されない日はない。私は健康を維持するためには、食事・運動・睡眠・休養の4要素が重要と考える。その中の運動・休養に関して公園は寄与できるだろう。緑の公園内を歩くことだけでも十分健康増進できるが、園内に遊歩道のわかりやすい表示、たとえば歩行距離や目安時間などがあればより取り組みやすい。現在は子供、成人対象の施設や配慮が主であるので、今後は高齢化に対応し、足が虚弱になった者でも気軽に歩けるようなコースの整備など全年齢層にたいしての細やかな対応を望みたい。また、上野公園にあるスターバックスなどのように集客力のある喫茶店の誘致も良いと思う。食事や喫茶のために訪れるという新しい利用目的が生まれるだろう。明石公園には重要で興味ある歴史事項があるので、わかりやすい標識を望みたい。例えば、空襲で明石公園が焼け野原になったことは、あまり知られていないので、標識をつくり身近な場所の戦争の惨事を次世代に伝えることは重要なことでないかと思う。現在、明石公園では色々な催しが開催されている。5月のロハス・ミーツ明石は公園という自然空間と非常に相性の良い催しだと思う。しかし、中には公園というスペースにそぐわない催しもあるので適切な選考も必要ではないだろうか。今後も明石公園の良さを味わってもらう工夫を地道に積み重ね市民に愛され続ける文化施設であり続けてほしい。
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① 明石公園 巽櫓
明石公園正面入り口前より撮影。現存しているのは巽櫓と坤櫓のみである。3層の建物で天守閣にも相当する堂々とした姿を誇っている。手前に見える外灯は明治時代のもの。(平成30年5月1日撮影)
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② 明石公園 坤櫓
天守台より撮影。昭和55年には解体修理が行われた。しかしその後の阪神大震災で土台石垣の落下など大きな被害を被った。できるだけ元の建築法を残す形で耐震化がおこなわれた。坤櫓の建築には伏見城の廃材が使われた。(平成30年5月1日撮影)
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③ 明石公園 剛之池
池のボートより撮影。剛之池は明石城の西北に位置する。かつては、外堀の代わりに防衛に役立っていた。現在は家族連れがボート遊びを楽しんでいる。春には、池の周囲の桜が美しく咲き、花見客で賑わう。(平成30年4月30日撮影)
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④ 明石公園 ロハス・ミーツ明石
ロハスとはlifestyle of health and sustainability (健康で持続可能な生活スタイル)の略。公園という公共空間にふさわしいイベントであった。来場者も多くみられた。(平成30年5月3日撮影)
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⑤ 明石公園 時のウイーク
明石には日本標準時の子午線がある。6月10日は時の記念日で、時のウイークと称してイベントが開かれた。(平成30年6月10日撮影) -
⑥ 明石公園 標識
正面入口を入ってすぐにある標識。初めて訪れる人にはどこに行ったら良いのか分かり難い。その時々で必要な標識を継ぎ足しているように思われる。(平成30年5月1日撮影) -
⑦ 国立附属自然教育園 (東京都港区)の標識の例
標識の良い例と考えられる。表示が大きくて見やすい。見所がわかりやすく表示されていて、予備知識がない人にもわかりやすい。そのため、来場者が散策をより楽しめるようになっていると思う。(平成30年5月25日撮影)
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⑧「港区旧町名由来板「白金」」標識
歴史的背景が写真なども使用され表示されている。予備知識がない人にもよくわかる。明石公園でも、明石公園の歴史・築城や公園の設立の経緯・戦争や震災の被災状況なども、重要な事柄であるので是非標識を作って欲しいと思う。(平成30年5月25日撮影)
参考文献
1)明石公園百年史編集員会 『明石公園百年史』、神戸新聞出版センター、昭和62年
2)辰巳信哉 『歴史の証人 明石公園』、 神戸新聞総合出版センター、2005年
3)小西隆久 『殿様の 真意 なぜ天守閣は建てられなかったのか 明石城築城400年へ』、神戸新聞、 2018年 5月5日、6日、8日、9日、10日掲載
4)魚の棚事務所 『魚の棚 今昔物語』広報紙