長谷観音は何故これほどまでに信仰されてきたのか
(1)はじめに
大和国長谷寺は、西国三十三所観音霊場のひとつである。長谷観音は、『源氏物語』などの平安文学にも数多く語られ(註1)、露の五郎は、お伊勢参りの代参としての初瀬詣噺(註2)を今に伝えている。これほどまでに長谷観音が信仰されてきた理由は何なのか。長谷観音を、その立地との関わりから考察する。
(2)大和国長谷寺の基本データ
名称:西国三十三所第八番札所 豊山長谷寺
所在地:奈良県桜井市初瀬731-1
宗派:真言宗豊山派総本山
本尊:十一面観世音菩薩立像
開山(註3):徳道上人
開創年:朱鳥元年(686年)
神亀4年(727年)、徳道上人は聖武天皇の詔勅により十一面観世音菩薩を祀り、伽藍を建立。上人は観音信仰に厚く、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となったことから、長谷寺は西国三十三所の根本霊場とも目されるようになった。以来、度重なる火災により再造を繰り返してきた。現尊像は、寄木造りの十一面観世音菩薩立像で国の重要文化財である。慶安3年(1650年)再建の本堂は国宝に指定されている。
(3)泊瀬(初瀬)の地
古代、海柘榴市(Fig.1長谷寺エリア図およびFig.2長谷寺イメージの(イ)、以下図(イ)と記す)は大和川を通じ、難波(なにわ)と大和とを結ぶ重要な海運ルートの拠点であった。六世紀半ば、大陸からの仏教はここ海柘榴市に伝来した(図(ロ))とされる。また、この地は陸路の要地でもあり、東へは初瀬谷を抜けて伊勢に通じた。平安の時代から、京や難波からの初瀬詣はここ海柘榴市が起点となっていた(註4)。『源氏物語』の玉鬘が右近と偶然出会う(註5)のも、長谷寺の御利益を頼む参詣途中の海柘榴市の宿である。
海柘榴市から長谷寺までは、初瀬街道を初瀬川(大和川上流)沿いに遡る約5kmの道のりである。川沿いの参道(図(ハ))を歩いて、左に大きく迂回した川の両岸を取り囲むように連なった山々が泊瀬山(図(二))である。大泊瀬與喜山の麓には與喜天満宮(図(ホ))がある。天照大神が初めて降臨した地と伝えられており、このあたり一帯は仏教が伝来する以前から、人々に信仰されてきた聖なる場所であった。長谷寺はそんな「こもりく(隠国)の泊瀬」に建つ。
(4)観音信仰と変化観音
日本人が特に親しみを感じ崇拝したのが、「観音・地蔵・不動(註6)」である。これら修行中の仏尊は、浄土に御座す如来と違い此岸まで降りてきて現世の願いを聞いてくれた。各尊それぞれのご利益が「経典」により理解されはじめると、宗派とは関係なく、その仏独自への信仰が展開されていく。
観音菩薩のご利益は、『観音経』に説かれる極めて広い現世利益である。また、「娑婆界に遊行し、救うべき相手に応じ姿を変えて(三十三身)説法する」とも記されている。観音のなかでも信仰を多く集めてきたのは変化観音である。西国三十三寺をみても、人の姿に近い聖観音3尊に対して、千手観音15尊、十一面観音と如意輪観音が各6尊と、多面多臂の観音が圧倒的に多い(註7)。変化観音がこれほどまでに受け入れられたのは、現世利益をより多くもたらしてくれる、ご利益の強い観音を欲したからであろう。
(5)初瀬の「十一面観音」
十一面観音は、右手首に数珠をつけ「与願印」あるいは「施無畏印」を結び、左手は紅蓮華をさした水瓶を持つのが一般的である。そのご利益は、「十種類の現世利益と四種類の来世の果報(註8)」とされている。
仁王門(図(ヘ))をくぐり、緩やかな登廊(図(ト))を上る。下中上の三廊399段からなり、中廊途中の石段のひとつに小さな穴が開いている。廊構築時、使役の牛が疲れよろめき角で開けた穴であり、当時のご住職の「変えるに及ばず」との断で現在に残ったと伝えられる(註9)。登廊を上り詰めると本堂(図(チ))にでる。ここに本尊十一面観世音菩薩が祀られている。
通常、本堂礼堂でのお参りでは尊像の上半身しか拝観できないが、今回(註10)は僧呂のご案内で本堂内陣に入る機会を得た。像高が10メートルを超える大きさにまず圧倒される。右手に数珠をつけ(a)錫杖を持ついわゆる長谷寺式十一面観音(長谷型観音)である。そして、(b)磐石の上に立ち、(c)脇侍に難陀龍王、雨宝童子を従えている。他寺の同尊格の尊像と比べ、この(a)〜(c)の三つが長谷観音の特徴であり、長谷観音が崇め奉られてきた理由でもある。
(a)錫杖と遊行
錫杖は本来、地蔵菩薩の持物である。地蔵尊は「大地の仏」であり、遊行の際小動物を傷つけぬよう追いやるための錫杖を持つ。長谷観音はこの錫杖を持つことにより、現世利益だけではなく、地蔵尊の成仏得脱の徳をも併せ持った。僧呂に促され尊像の前に伏せ、足を撫でて願い事をする。撫でながら左右の足先を凝視すると、ごく僅か右足を前に踏み出している。それは、スコータイ様式遊行像(註11)ほど顕著でないにしても、観音経に説かれる「観音はこの娑婆界に遊行し…」を具現化した、遊行仏としての姿位であった。
(b)磐石に立つ
仏尊は通常蓮華座という蓮の花の台座に居る。特別な台座にのる仏(註12)もあるが、長谷観音は「磐石」にのっている。長谷寺縁起(註13)によると、「神亀四年、二丈六尺の十一面観音像が完成した。すると徳道上人の夢に神が現れ、北の山の下の大岩を掘り出しその上に像を安置せよという」。そして「方八尺九寸、高さ一尺の自然湧出の盤石の上に立った」と記されている。
『華厳経』入法界品では、観音菩薩の出自は補陀落山である。そのため、尊像は補陀落山に祀られることが多く、山号や寺号に補陀落山を戴く霊場(註14)もある。しかるに長谷寺では、「こもりくの泊瀬」の地を補陀落山に見立て、小泊瀬の険しい崖に懸崖造りのお堂を建て、自然湧出に見立てた盤石に観音を安置した。「磐石に立つ」ことが長谷観音にとっては大きな意味を持っていた。
(c)右脇侍の雨宝童子
左脇侍の難陀龍王は、千手観音の眷属である二十八部衆の一尊である。眷属が脇侍に据えられることは珍しいことではない。対して右脇侍は、伊勢神宮内宮の奥の院「金剛證寺」に祀られ天照大神の化身ともいわれる雨宝童子である。雨宝童子の安置は、天照大神が初めて降臨した泊瀬の地ならではの神仏が混淆した長谷観音を象徴している。西郷信綱は、「天照大神が天の岩屋戸にこもった話と観音が岩場に示現した話が重なり、岩場が強調された結果、長谷観音と天照大神の一体説が生まれた(註15)」と指摘している。ここに、冒頭で述べた伊勢参りの代参としての初瀬詣噺が成り立っている。
(6)霊験力の相乗
観音菩薩は総じて女性的である。現世利益も、仏教本来の成仏得脱の理念から言えば異質である。かように仏尊の中でも観音菩薩は、ヒンズー教から受け継いだ女神と現世利益という性質を色濃く残す尊格と理解できる。中でも長谷観音は、すでに述べてきたように観音という尊格だけではなく、地蔵菩薩やさらに天照大神と融合した具現神として認識されてきた。
古来日本では、「仏様なら何でもいい」のではなく、自分の夢を実現してくれる個性の強い仏尊を特定して崇めてきたきらいがある。仏の有する特定の功徳を強く意識し、目的別に同時に幾つもの仏を祀ったのである。93歳の母が一人住む隠居家にも、仏間には阿弥陀如来、台所には三宝荒神、便所には鳥枢沙摩明王がいる。なかんずく、ハイブリッドな長谷観音は、昔から選択枝の有力候補であったのだろう。
「仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり(註5)」。昔から、初瀬に御座すのは単なる十一面観音なのではなく、「初瀬の観音様」なのである。
(7)おわりに
今回取り上げた長谷型観音は、他にも長谷寺(ちょうこくじ)の麻布大観音、鎌倉の長谷寺など、全国の幾つかの寺に祀られている。それらの観音菩薩が、如何なる歴史を経て錫杖を持つ「天と地」の観音に成ったのか。また、カトリックの巡礼地のひとつであるモン・サン・ミシェルは、司教オベールの夢に現れた大天使ミカエルの「あの岩盤に聖堂を建てよ」との命から、708年、そこに礼拝堂を作ったのが始まり(註16)とされる。聖書によると岩盤はイエス自身であり(註17)、神のお告げで岩盤の上に教会を建てたという由縁は、開闢年代も近い長谷寺との類似性が感じられ、興味深い課題である。
参考文献
註釈
註1 平安文学の初瀬詣話は、『源氏物語』、『更級日記』、『枕草子』、『蜻蛉日記』などに。
註2 露の五郎(二代目)『初瀬詣七色ばなし』(大本山長谷寺発行「長谷春秋」)
「伊勢まいりは、初瀬を経由し大阪からだと片道七日間、往復で十五日かかった。そこで、初瀬まで行くと、(お伊勢さんへは)観音さんが代わりに行って来てくれたり、天照大神のお姿である雨宝童子がおられたりで、伊勢で大神にお会いしてきました、と言えた」という、長谷寺代参の噺が紹介されている。(https://koza5555.exblog.jp/22629507/ 「お伊勢参りと長谷詣」)
註3 長谷寺は、朱鳥元年(686年)道明上人が、銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を安置して祈願したのが寺の始まりとされ、のち、徳道上人が開山する。徳道上人が晩年隠棲した寺「法起院(図(リ))」は、長谷寺の参道にある。
註4 「椿市までは無事に来た…などと(蜻蛉日記には)記されており、椿市が長谷詣での起点になっていたことが、紹介されている。」
(https://koza5555.exblog.jp/22689595/ 「長谷寺と蜻蛉日記」)
註5 源氏物語第二十二帖(玉鬘)では、「初瀬の観音の霊験は唐土でさえ評判になっているから」と初瀬詣でを薦められて訪山した玉鬘。ここで玉鬘と再会した右近は、「ふたもとの 杉のたちどを たづねずは 古川野辺に 君を見ましや」と詩を詠む。「二もとの杉」は長谷寺境内にある。
註6 速水侑『観音・地蔵・不動』、吉川弘文館、2018年
註7 HP「西国三十三所巡礼の旅」(https://www.saikoku33.gr.jp)および、各寺社のパンフレットを参考に、筆者が分類。他、准胝観音(1)、不空羂索観音(1)、馬頭観音(1)の計三十三尊
→ Table1 西国三十三所のご本尊
註8 『十一面神咒心経』に説かれる
註9 寺をご案内して頂いた長谷寺の僧呂のお話
註10 長谷寺へは、2012年11/21と2019年7/21(今回)に訪れた。
註11 「遊行仏」は、タイ北部のスコータイ王朝時代(14~15世紀)のワット・チェトゥポン寺院や、最近ではカンボジアアンコール遺跡群の「西トップ遺跡」(9~15世紀)の北祠堂で見つかっている。HP「朝日新聞DIGITAL」
https://www.asahi.com/articles/ASLDC01ZPLDBPTFC01Q.html)
註12 特別な台座にのる尊格には、獅子座の文殊菩薩、象座の普賢菩薩、岩座(磐石座/瑟瑟座)の不動尊など。
註13 長谷寺縁起は「今昔物語」巻十一の三十一、および
HP「大和国長谷寺」(https://www.hasedera.or.jp)
註14 西国三十三所第十七番札所「六波羅蜜寺」、第二十二番札所「総持寺」の山号は補陀洛山、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の天台宗寺院「補陀洛山寺」は寺号である。
註15 西郷信綱『古代人と夢』、平凡社、1999年、第三章「長谷寺の夢」
註16 大天使ミカエルからお告げを受ける聖オベール → Fig.3 モン・サン・ミッシェル&イメージ
註17 「わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(マタイによる福音書16章18節)」。ここでいう、この岩(ペトラ;女性名詞、「大岩盤」)とは、動かされることのない岩であるイエス・キリストなのか、それとも使徒ペテロなのか、多くの議論がある。ちなみに、ペテロ(男性名詞)は「小岩、石」の意。
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた尊い、生ける石(岩)です(ペテロ2章4節-8節)」。
参考文献
1. 速水侑『観音・地蔵・不動』、吉川弘文館、2018年
2. 梅原猛『仏像 心とかたち』、日本放送出版協会、1994年
3. 白洲正子『十一面観音巡礼』、講談社、1992年
4. 西郷信綱『古代人と夢』、平凡社、1999年
5. (パンフレット)西国三十三寺 各寺社
6. (パンフレット)モン・サン・ミシェル修道院
参照HP
HP「奈良・桜井の歴史と社会」、https://koza5555.exblog.jp/、閲覧日:2019.12.10
HP「西国三十三所巡礼の旅」、https://www.saikoku33.gr.jp、閲覧日:2019.11.27
HP「朝日新聞DIGITAL」、
https://www.asahi.com/articles/ASLDC01ZPLDBPTFC01Q.html)、閲覧日:2019.12.10
HP「大和国長谷寺」、https://www.hasedera.or.jp、閲覧日:2019.11.27
HP「曹洞宗大本山永平寺別院 長谷寺」、http://chokokuji.jiin.com、閲覧日:2019.12.08
HP「鎌倉長谷寺」、https://www.hasedera.jp/、閲覧日:2019.12.08