建造物の存在価値-横網町公園と東京都慰霊堂
はじめに
2018年7月に初めて横網町公園を訪問した。関東大震災*1の現場とは知らず、ただ伊東忠太*2設計の東京都慰霊堂が見たかったのだ。それは不思議なオーラを放ちそこにあった。何故このような建造物がここにあるのか?それが本稿を書くきっかけである。調査して初めて、この場所で阪神・淡路大震災、東日本大震災をはるかに上回る犠牲者*3が出た事を知った。9月1日が防災の日であり、関東大震災が起きた日である事は知っていたがその被害の実態は全くと言っていいほど知らなかった。横網町公園と伊東忠太の建築を通し、自分自身が歴史を知る為に調査した結果を報告する。
1.基本データ*4
名称:東京都横網町公園 東京都慰霊堂(旧震災記念堂)と東京都復興記念館(旧震災復興記念館)*5
開園年月日:昭和5年(1930)9月1日
所在地:東京都墨田区横網二丁目3番地25号
開園面積:19,579.53㎡
主な催し物:慰霊法要(東京大空襲のあった3月10日と関東大震災が起きた9月1日)
交通:JR両国駅西口下車 徒歩10分 都営地下鉄大江戸線A1出口下車 徒歩2分
指定管理者:公益財団法人 東京都慰霊協会
2.歴史的背景*6
2-1.江戸から明治:江戸時代の両国は物流の要所、北関東からの玄関口として栄えた*7。明暦の大火*8で大きな被害を受けたが、幕府による復興再生計画により新たに整備され活気を取り戻した。その後、お竹蔵*9と呼ばれる広大な敷地に建築資材、米などを保管するようになり、明治になってその場所が陸軍被服廠(以下被服廠)*10となった。
2-2. 震災当時:大正11年(1922)、被服廠(被服本廠)の移転により跡地を東京市(当時)が買収、近代的な公園*11として整備、造成を行っていた。その最中に起きたのが関東大震災である。
大正12年(1923)9月1日地震発生、更地であったこの場所に近隣住人が家財道具と共に大挙して避難、折からの火災旋風により多数の犠牲者が出た。この場所での犠牲者は3万8千人、東京府全体の犠牲者の半数以上*12が被服廠跡に集中するという大惨事が起きた。大量の遺体はその場で荼毘に付された*13。
2-3.震災後から戦前:大正13年(1924)東京市(当時)は被服廠跡に震災遭難者を慰霊する大正震災記念公園(現横網町公園)を建設、遺骨を安置し、後世に関東大震災を伝え慰霊と教化啓蒙の施設とする事を決定した。その中心となる震災記念堂(現東京都慰霊堂)は昭和3年(1928)6月着工、昭和5年(1930)4月竣工、同年9月1日に震災7周年法要が営まれた。付帯施設である復興記念館は昭和6年(1931)4月に竣工、多くの震災記念品が納められ一般公開された。
2-4. 戦後から現在*14:昭和20年(1945)3月10日に起きた東京大空襲*15により、再び東京は壊滅状態となり多くの犠牲者が出た。これらの戦災殉難者の遺骨はGHQの示唆により、震災記念堂に納骨、奉安される事になった。その後、名称も震災記念堂から東京都慰霊堂に改められた*16。現在、東京都慰霊堂には震災遭難者5万8000人、戦災殉難者10万5000人*17の遺骨が安置されている。公園管理、春秋法要、遺骨身元照会、引取などの業務は東京都から受託し公益財団法人東京都慰霊協会*18が行っている。
3.文化資産としての評価
3-1. 建設構想は何か
東京市(当時)による慰霊公園(現横網町公園)建設構想は以下の3点である。
① 人々が大震災の悲劇を忘れず、天災の恐ろしさを常に忘れない心がけを持つようにする。
② 数万の犠牲者の納骨堂を作り、その霊を恒久的に慰霊する霊廟とする。
③ 社会教化機関として利用、震災・防災の被害を科学的に解明できる震災記念品を蒐集した記念館の機能をも兼ねる*19。
慰霊公園造成に際し、各方面から多くの寄付、浄財を寄せられ*20、建設構想は一般市民から広く賛同を得ていた事が伺える。当時、東京市長であった永田秀次郎*21は建設費用について「幸いにして難を逃れた市民からの寄付で賄うことが妥当である」とした。納骨堂を併設する事への反対意見*22もあったが、当初の構想通り慰霊公園が作られた。
3-2. 象徴としての建造物
震災記念堂(以下記念堂)の建設は設計を公募*23としたが、モダニズムを基調とした当選作に反対意見*24が出たため変更を余儀なくされた。曰く、当選作の外観が西洋の模倣に過ぎず、国民感情にそぐわないと批判を浴びたのだ。明治維新後、熱心に西欧化を進め復興にあたっては近代都市を目指したが、日本人の根底にある慰霊と鎮魂に対する思いは別にあった。伊東忠太による「純日本風」設計は外観だけではなく、その心情を理解し表現したデザインである点が受け入れられたと考える。細部の意匠*25に伊東らしい特徴が見られるが、全体は日本人にとっての「精神的実用を果たす建築である事」*26を考慮したロングライフデザインと言えるのではないか。地域も歴史も違う様式を組み合わせる事で特定の宗教性を排し、建物全体を慰霊と鎮魂に集約した点に筆者は伊東の合理性と公平性を見る。儀礼に際しては荘厳を保つが、平素は誰もが訪れ祈りを捧げる開かれた場所とした*27。記念堂は大勢の不慮の死を前に、人々が自ずと抱く心情を受容する場としても存在意義がある建造物と考える。
付帯施設である震災復興記念館(以下記念館)は多くの震災記念品を展示し惨禍の記憶と復興の軌跡を後世に伝える目的で作られた*28。第二次世界大戦後、記念堂に戦災殉難者を合祀する事になり、記念館には東京大空襲に関する展示が追加された。現在も記念堂と記念館は一対となって、慰霊と鎮魂の儀礼*29を継承し、災害の記録と復興の軌跡を伝える役割を担っている。社会状況、周辺環境は大きく変化したが、歴史と記憶のランドマークとして継承されるべき建造物であると評価する。
4.比較事例 消えた横浜市震災記念館と再び現れた震災遺構
かつて横浜にも震災記念館があった。震災当時、横浜市教育課長であった中川直亮*30により計画立案、震災の体験と教訓を後世に伝える社会教化施設として、震災翌年に横浜市震災記念館は開館した。その後、施設は数度の移転、戦争激化による金属供出と続く閉館、戦後は施設利用の変更、老朽化による取り壊しにより、跡地は現在の横浜市中央図書館となった。筆者も行ってみたが何の痕跡も見られず、ここに震災記念館があったと知る人は少ない*31。経済、貿易、観光産業の復興と発展を最優先で目指す中で、震災は負の記憶という印象が強かったことも存続を難しくしたと推察する*32。
近年横浜市は近代の遺跡についても発掘調査対象とし*33建て替え工事などで発見された遺構の調査、保存を行っている*34。時間の経過は記憶を風化させたが、復興と発展の歴史という文脈で新たな解釈をする事により、震災遺構の価値が再評価されていると考える。
横網町公園は現場そのものを慰霊公園とし、象徴的建造物を建て後世に歴史と記憶を伝える選択をした。東京と横浜の取り組みは、方法は違うが記憶継承の必要性と意義を認識している点に共通性がみられる。
5. おわりに
記憶は時間の経過と共に風化する。悲劇の経験は当事者には忘れ難い負の記憶である点も留意すべきだろう。それでも残しておくべき記憶がある事を今回の調査によって知ることが出来た。東京の風景は日々変化し、歴史的建造物であっても様々な事情により消えていく運命にさらされる*35。
横網町公園は悲劇の現場であるが、同時に近代から現代へ激動の時代を記憶し記録している場所でもある。残念ながらその事実を知る人は、長年東京に住んでいても少ないのではないか。江戸から続く首都として、復興と再生を繰り返した歴史を記憶として留める努力が必要と考える。今後は関東大震災100周年に向けた情報発信、現存する伊東忠太設計の建造物の価値を踏まえ、近現代史、文化芸術などの教育分野、社会人対象のフィールドワーク*36など、生涯学習の場としても積極的な施設活用を提案したい。過去を知り未来を考える上で横網町公園と東京都慰霊堂は歴史的価値があり貴重な文化資産である事を報告する。
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資料1
横網町公園 園内マップ及び現況写真 -
資料1
震災記念堂(現東京都慰霊堂)震災復興記念館(現東京都復興館)建物概要 -
資料1
震災記念堂(現東京都慰霊堂)震災復興記念館(現東京都復興館)建物概要 -
資料2
江戸後期から現在までの地図と説明 -
資料2
江戸後期から現在までの地図と説明 -
資料3
建造物成立課程及び現況写真資料他 -
資料3
建造物成立課程及び現況写真資料他 -
資料3
建造物成立課程及び現況写真資料他 -
資料3
建造物成立課程及び現況写真資料他 -
フィールドワーク資料2
筆者参加のフィールドワーク記録 -
フィールドワーク資料2
筆者参加のフィールドワーク記録 -
資料4 比較事例
比較事例に関する写真資料他 -
資料4 比較事例
比較事例に関する写真資料他
参考文献
註釈
*1 「関東大震災」とは大正12年(1923)9月1日に発生したマグニチュード7.9の巨大地震により引き起こされた被害全体をさす言葉。『忘れない。伝えたい。』東京都復興記念館説明冊子5pより。
*2 伊東忠太 生没年:慶応3年(1867)11月21日~昭和29年(1954)4月7日 工学博士、建築界初の文化勲章受章者。山形県米沢市出身、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)卒業
明治26年(1893)に『法隆寺建築論』発表。法隆寺が日本最古の木造建築であり、柱の形状からヘレニズム文化の影響を受けたとし、日本の建築史研究の端緒を開いた。明治35年(1902)から3年間にわたるアジア・欧米留学に出発、帰国後に東京帝国大学教授になる。「造家」と訳されたアーキテクチュアを「建築」にせよと説いたのも伊東忠太である。建築家であり建築史家でもあった。『生き続ける建築-2 伊東忠太』より筆者要約。
*3 平成7年(1995)1月17日発生、阪神・淡路大震災における死者数6,402名(兵庫県資料)、平成23年(2011)3月11日発生、東日本大震災死者数13,135名(警視庁資料から内閣府作成)。
*4 資料1横網町公園マップ参照。
*5 資料1-2建物概要参照。
*6 資料2:過去の地図参照。
*7 資料2-図1。
*8 明暦3年(1657)正月、本郷丸山本妙寺から出火、翌日は麹町五丁目からも出火、焼失町数500 余、死者10 万人を越えるという説あり。江戸史上最大の大火。「振袖火事」ともいわれる。犠牲者の大半は身元不明の無縁仏だった。幕府は無縁の亡骸を慰霊する寺を建立、それが両国回向院である。宗派に拘らず無縁供養即ち、回向を行うとした。内閣府防災情報ページ「1657明暦の江戸大火」参照。
*9 資料2-図1-2参照。
*10 資料2-図2参照。
*11 一周300mの本格トラック中心にスタンド、野外劇場、日本庭園を併設する公園計画があった。復興記念館展示より。
*12 関東大震災における東京府(当時)の犠牲者は6万9000人と言われ、その内、被服廠跡における犠牲者は3万8000人、被服廠跡含む本所区(当時)全体で5万4000人が犠牲となった。『横網町公園東京都慰霊堂・復興記念館』第3章関東大震災と被服廠跡より。
*13 資料2-図3参照。
*14 資料2-図4参照。
*15 昭和20年(1945)3月9日から10日にかけ、東京下町には300機以上のB29による大規模空襲にさらされた。アジア・太平洋戦争中、東京は130回以上の空襲にさらされたが、中でも死者推定10万人以上の被害を受けたこの空襲を東京大空襲と呼ぶ。『忘れない。伝えたい。』東京都復興記念館説明冊子24pより。
*16 昭和21年(1946)に文京区小石川に一般戦災者の慰霊納骨堂建設計画があったがGHQより認可されず、横網町の震災記念堂に戦災者の遺骨を合祀してはという示唆があった。その為、都内公園などに仮埋葬されていた身元不明の遺体を改葬、荼毘に付した上で改めて慰霊堂に合祀した。これを戦災殃死者改葬事業といい、事業終了後昭和26年(1951)9月に名称を東京都慰霊堂に改めた。東京都復興記念館戦災コーナー展示パネルより。
*17 『忘れない。伝えたい。』東京都復興記念館説明冊子25pより。
*18 昭和20年(1945)9月、政治と宗教行事は分離すべきとなり、公共的祭祀法要は禁止され東京都主催の慰霊法要は開催出来なくなった。東京都は慰霊法要を継続する為、外郭団体として昭和22年(1947)3月に財団法人東京都慰霊協会が設立認可された。特定の宗教祭祀ではないが慰霊執行の為、宗教団体に協力を仰ぎ昭和27年(1952)より法要を継続している。公益財団法人 東京都慰霊協会発行『関東大震災』より。受託業務で記載した春秋法要については東京都慰霊協会独自の事業として開催されている。
*19『横網町公園 東京都慰霊堂・復興記念館』第4章震災記念堂より引用要約。
*20 資料3-1:写真1.2参照 記念事業推進の為、外部団体として大正13年(1924)5月に「財団法人東京震災記念事業協会」設立、財団は寄付金募集、資産管理、設計公募も行った。皇室をはじめ、内務省、仏教会、各地の震災救護団体からの寄付の他、一般寄付に財源を求めた。
*21永田秀次郎(ながた ひでじろう)生没年月日:明治9年7月23日〜昭和18年9月17日(1876年7月23日〜1943年9月17日) 明治32年(1899)第三高等学校卒。兵庫県立洲本中学校長、京都府警察部長、三重県知事などを経て、大正5年(1916)内務省警保局長。7年貴族院議員。12年以降、2度にわたり東京市長に就任。「近代日本人の肖像-国会図書館」より。
*22 「このような悲惨な災害が起きた場所にその犠牲者の遺骨を永久に留め且つ、惨事を後世に伝える事は余りに刺激が強すぎ、反って人々に恐怖の念を与え復興の鋭気を削ぐ。遺骨は多摩墓地なりその他適当な場所に葬るべきである」 『被服廠跡 : 東京震災記念事業協会事業報告』国会図書館デジタルアーカイブ引用
震災の記憶は復興の妨げという考えがあった。これは横浜の事例とも共通する。
*23 資料3-2:震災記念堂設計公募資料及び伊東忠太設計案参照。
*24 仏教連合会から建議書、本所区会協議会から陳情書が震災記念事業協会に提出された。『東京都慰霊堂誕生秘話』展示カタログ9p。
*25 資料3-4:伊東忠太の妖怪と呼ばれる意匠の写真。
*26『東京都慰霊堂誕生秘話』展示カタログ10p参照。
*27 資料3-3:慰霊堂内部現況写真参照。
*28 資料3-1:写真3 大正13年(1924)9月震災復興博覧会の為、出品募集したところ蒐集品多数につき、別の展示施設が必要となったため復興記念館が作られた。
*29 春秋慰霊大法要:3月10日(東京大空襲)、9月1日(関東大震災)の年2回、東京都慰霊堂にて執り行われている。昭和18年(1943)までは東京都主催で行われていた。
*30 中川直亮(なかがわちょくりょう)生没年:明治13年(1880)11月27日~昭和33年(1958)12月23日 石川県出身 大正11年(1922)横浜市教育課長就任、震災記念館の計画立案をした。震災で焼失した小学校を鉄筋コンクリートの校舎建設を推進するなど教育施設復興にも力を尽くした。『横浜に震災記念館があった』付録二より。
*31 資料4-1.横浜市震災記念館略歴参照。
*32『横浜に震災記念館があった』に掲載された「震災記念館の思い出」によると、「悲惨な思い出をよみがえらせたくない」と入場しなかった人、「暗くて恐ろしかった」という証言があり、利用者の精神的苦痛も存続しなかった要因の一つではないか。
*33 平成21年(2009)、横浜市は「横浜市の近代遺跡及び近代建造物の保護に関する要綱」を制定した。それまでにも関内、山手地区では古い建物の解体、新たな建設工事の際に地中から関東大震災時の瓦礫や基礎が見つかっている。『関東大震災と横浜-廃墟から復興まで』15p参照。
*34 資料4-2参照 例として横浜開港記念会館付近の遺構 2018年12月14日訪問。
*35 平成9年(1997)3月24日に社団法人日本建築学会より東京都知事あてに「東京都復興記念館の保存に関する要望書」が提出されている。これによると「都平和記念館」(仮称)建設の為、復興記念館既存建物過半部分の取り壊しを予定していた事がわかる。
*36 筆者が参加したフィールドワーク写真参照。
参考文献
加藤雍太郎、中島宏、小暮亘男著 東京都建設局公園緑地部監修・東京都公園文庫『東京都横網町公園-東京都慰霊堂・復興記念館』(財)東京都慰霊協会 2009年。
ジラルデッリ青木美由紀著『明治の建築家伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(株)ウェッジ 2015年。
関東大震災90周年記念行事実行委員会編『関東大震災記憶の継承-歴史・地域・運動から現在を問う』(株)日本経済評論社 2014年。
国際宗教研究所編『現代宗教2006』特集:慰霊と追悼 (株)東京堂出版 2006年。
一ノ木星樹、生出恵哉、小森秀治、中島信一編 よこれき双書第14巻『横浜に震災記念館があった』発行所:横浜郷土研究会 1995年3月30日発行。
横浜都市開発記念館、横浜開港資料館編『関東大震災と横浜-廃墟から復興まで』関東大震災90周年展示図録 発行:公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 2013年。
公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団、近現代歴史資料課市史資料室担当編『報告書-震災復興と大横浜の時代』発行:横浜市資料室 2015年。
以下東京都復興記念館で入手 全て編集・発行:公益財団法人東京都慰霊協会
『忘れない、伝えたい 関東大震災と東京大空襲』 2018年。
『関東大震災』2014年12月1日一部改訂
東京都復興記念館戦災コーナー展示パネル説明冊子 2018年。
東京都復興記念館 館内案内 2018年。
東京都横網町公園マップ 2017年。
『平成28年東京都復興記念館秋期特別展 東京都慰霊堂 誕生秘話』カタログ 2016年。
講演会参加『伊東忠太と「荻外荘」』講師:倉方俊輔(大阪市立大学准教授/建築史家)
日時:2018年6月10日杉並区郷土博物館にて開催。
フィールドワーク参加記録は添付資料参照。
WEB閲覧
著者:東京震災記念事業協会清算事務所 編出版者:東京震災記念事業協会清算事務所 『被服廠跡 東京震災記念事業協会事業報告』出版1932.3 国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1273030 2018年12月24日閲覧
内閣府防災情報のページ 災害市事例集 災害教訓の継承に関する専門調査会 報告書(1923 関東大震災第3編)災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第3編】
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_3/index.html
内閣府防災情報のページ 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月1923 関東大震災
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html
内閣府防災情報のページ 平成23年度防災白書 参考資料6東日本大震災と阪神・淡路大震災における死者数
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/hakusho/h23/bousai2011/html/honbun/2b_sanko_siryo_06.htm
*以上、内閣府防災情報のページ全て2019年1月11日閲覧
消防防災博物館 関東大震災を描いた絵 2018年12月24日閲覧
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R205&Page=hpd_tmp
公益財団法人東京都慰霊協会HP 2018年9月1日閲覧
http://tokyoireikyoukai.or.jp/kyoukai/
東京都立横網町公園HP 2018年7月20日閲覧
http://tokyoireikyoukai.or.jp/
国会図書館デジタルコレクション 伊東忠太建築作品 震災記念堂P73-79 著者:伊東博士作品集刊行会 編出版者:城南書院 出版年月日:1941 2018年12月1日閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058918
筆者:倉方俊輔『生き続ける建築-2 伊東忠太』 2018年9月1日閲覧
https://www.bizlixil.com/resource/pic/column/inaxreport/IR168/no168_p04p14.pdf#search=%27%E7%94%9F%E3%81%8D%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%BB%BA%E7%AF%89%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%BF%A0%E5%A4%AA%27
社団法人日本建築協会「東京都復興記念館の保存に関する要望書」 2018年12月3日閲覧
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/970325.htm
近代日本人の肖像-国会図書館 永田秀次郎のページ 2019年1月4日閲覧
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/496.html?cat=49