正福寺地蔵堂・市民に寄り添う都内唯一の国宝寺院建造物

中村 秀一郎

はじめに
東京都には、「迎賓館赤坂離宮」(1909年)と本報告書で取り上げた「正福寺地蔵堂」(1407年)の2つの国宝建造物がある。[写真1] 都内唯一の国宝寺院建造物である正福寺地蔵堂は、建立年代が判明している禅宗様仏殿の代表的遺構であるとともに、その呼称が示すように地蔵信仰を通して地域に深くかかわってきた。以下、その特徴及び文化的価値について調査、考察した。

正福寺地蔵堂の基本データ
所在地:東京都東村山市野口町四丁目
所有者:金剛山正福寺(臨済宗建長寺派)
建立年:1407年(室町時代)
建築様式:禅宗様 方三間一重裳階(もこし)付仏殿
国宝指定:1929年7月1日(国宝保存法)、1952年3月29日(文化財保護法)
平面積:身舎(もや)34.563平方メートル、裳階身舎共 72.505平方メートル
地蔵堂本尊:地蔵菩薩立像(像高127センチ、寄木造り、玉眼嵌入、漆箔仕上げ、白毫
水晶製、胸飾金属製)[写真2]
奉納小仏像:約900体(一木削りの丸彫で、像高15cm~30cm程度。形状、表面仕上げ、
像高などにより、17種類程度に分類されている)[写真3]

歴史的背景
正福寺地蔵堂は、昭和2年(1927年)10月、東京府史蹟保存物調査で発見された。円覚寺舎利殿(鎌倉市)に酷似した建造物が東京で発見されたことは、当時、極めて大きな話題となった。[写真4] その後、昭和8~9年(1933~34年)に解体修理がおこなわれ、その詳細は昭和43年(1968年)に東村山市史編纂事業に伴い刊行された『国宝正福寺地蔵堂修理報告書』によって公となった。この解体修理によって建立年が確定したことで、類例建造物に対する年代推定の基準となりうる価値を有することとなった。また、千体近くの小地蔵が奉納されていたことから、「千体地蔵堂」とも称されている。
地蔵堂がある正福寺は、弘安元年(1278年)、南宋の径山興聖万寿禅寺の石渓心月を開山とし、当時の鎌倉幕府執権・北条時宗の開創とされているが、時宗の父である時頼、さらには時頼よりも前の時代という伝承もあった。しかし、地蔵堂の発見により、建立時期のズレが1世紀以上あることが判明したことで、正福寺縁起はさらに混迷を深めることとなった。残念ながら地蔵堂以外の建造物は火災などで失われてしまったために縁起を裏付ける資料が現存せず、地蔵堂の建立者も含めて確認することはできない。

評価される特徴と類例比較
評価される特徴として、禅宗様形式仏殿としての優れたデザイン性と地蔵信仰を挙げることができる。
正面と側面の柱と柱の間が三つある方形構造の外側に裳階という空間がついた方三間一重裳階付という様式であり、屋根は重層入母屋造で上層(身舎屋根)は杮葺き、下層(裳階屋根)が板葺(上に銅板葺)となっている。大きな反りのある屋根、波型欄間や花頭窓、上昇感がある内部空間(鏡天井)、詰組および扇垂木などに優れたデザイン性を見ることができる。[写真5] 特に放射状に広がる上層屋根の扇垂木は、軒の反りの美しさと合わせて禅宗様建築の特徴がよく現れている。これらを可能にしたのは、「規矩術」といわれる角度を正確に出す高水準の技法によるといわれている。この貴重な建造物が、建立時に近い形で見ることができるのは、前述した昭和の解体修理時の発見によるところが大きい。屋根勾配を急にした形跡などの発見により、建立時の杮葺きが茅葺に改修されていたことが判明した。[写真6] 屋根を建立時の形状と材質に改修したことで、本来の美しさを取り戻すことができた。茅葺への改修が、いつ、どのような理由で行われたかは確認できないが、改修当時は文化遺産としての認識が希薄で、その時点における可能な方法で修理したのではないかと考えられる。
さらに、墨書銘の発見により建立年代が判明したことと、扇垂木などが創建以降に大きな修理を経ていないことが確認されたことで、禅宗様建築研究の基準作としての価値をもったことも重要な点でである。この発見は、禅宗様形式仏殿の代表格といわれている円覚寺舎利殿年代判定の根拠にもなった。また、正福寺地蔵堂と同時期に建立され、現存している方三間一重裳階付き建造物8ヶ所について、文献の写真などで比較、検証した結果、デザイン的に大きな違いは見られなかった。[表1] このことは、この時代における禅宗様建築の規格が、全国的に統一されていたと見ることができる。
2点目として挙げた地蔵信仰では、地域と深くかかわってきたことが理解できる。類例には仏殿や観音堂の名称が多くみられるが、地蔵堂という名称は近世以前の国宝・重要文化財の寺院建造物においては唯一であり、他に存在しない。地蔵信仰は平安のころから貴族、武士たちの間で盛んになり、江戸時代には庶民へと広がったとされている。正福寺地蔵堂に奉納された小地蔵の大多数は、享保期のものと推定されていることから、地蔵信仰に傾倒していった大きな要因は、享保の改革による新しい時代への変貌に対する庶民が抱えた大きな不安であったと考えられている。現存する小地蔵で年代が確認できるものは24体あで、その内訳は正徳4年(1714年)から天保11年(1840年)の間にあり、享保9年(1724年)から享保14年(1729年)が20体という圧倒的な数になっている。従って、年代確認ができない他の小地蔵の奉納時期も享保の5年間に集中していたと推測されている。その後、幕末まで奉納は続いたと考えられているが、非常に少ない数であったと推測されている。奉納した人の地域的広がりであるが、現在の地名で東村山市、所沢市、東大和市、小平市、国分寺市、国立市、清瀬市、小金井市、立川市、武蔵村山市の広範囲にわたっていたことが、小地蔵に記載された地名から確認されている。また、奉納者の多くは、農民が2~8人程度の連名で奉納したと考えられているが、宗教者や寺院名が記載されている小地蔵も散見される。奉納の目的は、後世の安楽祈願および先祖、二親、無縁などの供養であったとされている。
幕末で途絶えてしまった地蔵信仰であるが、現在は形態を変えて復活している。市内の福祉作業所で作成された小地蔵は、開眼法要が行われ、厄除け、子供供養、火除け、その他のお札を添えて有料にて頒布され、各自が1年間保管したのち、11月3日の地蔵祭りの際に正福寺に安置される。[写真7] ここでは、江戸時代から続いた「借り仏信仰」の復活と説明されている。
デザイン性において、類例との大きな違いは見いだせなかったものの、建立年代が明らかで、禅宗様建築研究の基準作としての価値、他に類を見ない地蔵信仰による地域との結びつきの歴史および現在における市民に寄り添う身近な国宝としての存在は、いずれも高く評価されるべきものである。

今後の展望について
昭和の解体修理以降、約30年ごとに屋根の葺き替え修理が行われ、直近では平成17年(2005年)に実施された。今後も同様の間隔で実施される予定である。また、昭和47年(1972年)には千體地蔵堂保存会が、檀家を中心とした市民により設立された。正福寺、千體地蔵堂保存会、市の協力によって、貴重な文化遺産の維持、管理および普及活動を継続していくことが重要である。東村山市は観光地ではないため、円覚寺舎利殿などと異なり、正福寺地蔵堂の知名度は高くない。そのため、東村山市では、『歴史の散歩道』というパンフレットを作成したり、ボランティアガイドなどによる市内の史蹟案内を行っている。これらの普及活動によって、拝観者の増加が期待できる。また、前述したとおり、復活した小地蔵奉納などによる市民とのつながりをより一層深めることで、その価値をさらに高めることが期待できる。

まとめ
正福寺地蔵堂の優れたデザイン性と地蔵信仰について、調査、考察を行った。鎌倉幕府の北条政権が来日した宋朝僧による禅宗の普及を厚く保護したことで、日本における禅宗は興隆を迎えることになった。その流れは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、全国へと拡散し、独自の中国風建築様式である禅宗様も同時に伝えられた。この個性的なデザインを有する様式で建立されたのが、正福寺地蔵堂である。市民に寄り添う国宝として、拝観料もなく、常時解放されている貴重な文化遺産が、今後も適切に維持、管理され、多くの拝観者が訪れることを期待したい。

  • 1 [写真1]:正福寺地蔵堂 2021年10月11日 筆者撮影
  • 2 [写真2]:地蔵堂本尊 2021年11月3日 筆者撮影
  • 3 [写真3]:地蔵堂内に安置されている木造小仏像(一部)2021年11月3日 筆者撮影 
  • 5 [写真5]:花頭窓、弓欄間、扇垂木、鏡天井 2021年11月3日 筆者撮影
  • 6 [写真6]:解体修理前の正福寺地蔵堂 日本民俗建築学会より提供 昭和8年 佐藤重夫氏撮影
  • 7 [写真7]:現在の小地蔵安置所と地蔵祭りにおけるお納所 2021年11月3日 筆者撮影
  • 8 [表1]:正福寺地蔵堂と同時期に建立された方三間一重裳階付建物 (類例)2021年12月22日 筆者作成

参考文献

【参考文献】

[1]文化庁 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 2021年12月7日閲覧
[2]東村山市役所 https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/ 2021年12月7日閲覧
[3]文化庁 文化財オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173812 2021年12月7日閲覧
[4]寺田剛 『東村山正福寺千体地蔵堂内小地蔵の調査と研究』, 東村山市教育委員会, 1972.
[5]今立鐵雄『正福寺と国宝千体地蔵堂』, 三恵出版貿易, 1973.
[6]清水邦彦「中世臨済宗の地蔵信仰」『印度學佛教學研究』,45巻2号, p637-639, 日本印度学仏教学会, 1997.
[7]伊原恵司, 春日井真記子「正福寺地蔵堂 唐様(禅宗様)の代表作 規矩術技法の解明」『建築雑誌』,1471号, p54-57, 日本建築学会, 2001.
[8]東村村山市教育委員会, 東村山ふるさと歴史館 『東村山市文化財調査報告第三集 ひがしむらやま文化財風土記 ―仏教美術―』,東村村山市教育委員会, 東村山ふるさと歴史館, 2001.
[9]原俊回正「日本仏教史のなかの五山禅宗」『中国-社会と文化』,24号, p195-210, 中国社会文化学会, 2009.
[10]新妻久郎「史談つれづれ(87)東村山の正福寺地蔵堂と北条時頼」『放射線と産業』,124号, p43-45 ,放射線利用振興協会, 2009.
[11]東村山ふるさと歴史館 『正福寺展 ―国宝・地蔵堂建立600周年記念―』[改訂版] ,東村山ふるさと歴史館, 2009.
[12]古川修文 「民俗建築アーカイブ(6)昭和9年の修理以前の正福寺地蔵堂の写真」『民俗建築』,146号, p76-81 ,日本民俗建築学会, 2014.
[13]溝口明則, 米澤貴紀, 小岩正樹「中世禅宗様遺構の設計技術に関する研究1:中世禅宗様仏堂と枝割制」『日本建築学会計画系論文集』,767号, p151-160, 日本建築学会, 2020.

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