【白凰時代より今日まで法灯を繋いできた古代寺院・影向寺について】
1.はじめに
影向寺(ようごうじ)は、「国史跡橘樹(たちばな)官衙遺跡群」(註1)の影向寺遺跡上に建つ南関東屈指の古刹である。『新編武蔵風土記稿』をはじめ多くの地誌紀行にはその霊験が伝えられている。その創建は寺域の発掘調査により、7世紀後半(白凰時代末期)にまで遡ることができる。一地方寺院でありながら、その創建が奈良・法隆寺西院伽藍とほぼ同時期で、かつ国分寺に先行していると言うだけでなく、今日までその法灯が連綿と伝えられてきた他に比肩するものがない寺院である。法灯が伝えられてきた理由について、影向寺の文化財をもとに考察する。
2.影向寺の基本データ
(1)名称
天台宗・威徳山影向寺
(2)本尊
薬師三尊像(国指定重要文化財、平安時代後期)
(3)所在地
神奈川県川崎市宮前区野川419番地
(4)影向寺の主な文化財
①『影向寺仮名縁起』(写真1参照)
宝永7(1710)年の撰述で、聖武天皇(701~756年)が光明皇后の病気平癒を願い、高僧・行基に命じて天平12年(740)に影向寺を創建したことが記述されている。
②薬師堂(写真2参照)
現薬師堂は、元禄7年(1694)に再興された、正面5間・側面5間・寄せ棟造りの密 教本堂様式である。再興に当たっては、前身堂の様式を踏襲したと考えられている。現在で は、数少ない密教本堂の例として、昭和52年に神奈川県の重要文化財に指定された。
薬師堂内には、特に眼病平癒を祈る人の願いを込めた大小さまざまの絵馬が奉納されている。「め」の字や「向かい目」を描いた願掛け絵馬が特徴である(写真3参照)。
③安置堂(写真4参照)
安置堂には国指定重要文化財の薬師如来坐像などが安置されている。正月や影向寺縁日など年に数回、ガラス越しに参拝することができる。
■木造薬師如来坐像(国指定重要文化財、平安時代後期)
ケヤキ材の一木造で、像高139センチの安定感のある大作である。藤原時代の特徴を持つ一方、地方的な素朴さも見受けられる。当時主流となっていた定朝様式とは趣が若干異なる仏像である。
■日光菩薩像・月光菩薩像(国指定重要文化財、平安時代後期)
藤原朝の特徴を持つ、日光・月光両菩薩像はサクラ材の一木造である。
■木造二天像(平安時代後期)
両像とも一木造の彫眼である。両像は口の開閉、踏み上げる足、腰の捻る向きなど形姿がきちんと対になるように造られている。
■木造十二神将立像(南北朝時代)
薬師如来の脊属とされる十二神将は、各像ともヒノキ材で造られ、当初は胡粉下地の彩色であったとされている。
④太子堂(写真5参照)
影向寺・太子講によって昭和60年に建立された。疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像(鎌倉時代後期、川崎市重要文化財)が安置されている。
⑤影向石(写真6参照)
影向寺のいわれとなった霊石で(註2)、薬師堂前方右手に所在する。奈良時代に建立された三重塔の塔心礎石跡と考えられている。その中心には、心柱のほぞ穴と舎利納入穴が瓢箪型にならんでいる。そのくぼみに溜まる水は、「霊水」として眼病等の病気に効くと信じられるようになった。
⑥乳イチョウ(樹齢約600年、神奈川県の名木100選)
銀杏の古木で、樹皮に多くの瘤状のものが現れている。これが女性の乳房の形に似ているとされ、乳の出のよくない産婦の信仰の対象となった。この老樹の気根を削って飲むと乳が出るようになるという。
3.影向寺の歴史
影向寺がいつ創建されたのか、文献資料が乏しく、明確ではなかったが、昭和50年代からの寺域の発掘調査による考古学的情報の蓄積によって、『影向寺仮名縁起』の時代を遡る7世紀後半であることが明らかになってきた。
(1)古代の影向寺
白鳳時代は、仏教がようやく地方へも伸展をみせはじめた時代である。
①7世紀後半頃に現在の薬師堂とほぼ同じ場所に総瓦葺の金堂と思われる建物が創建された。寺院の創建者は、発掘された文字瓦から、橘樹郡外にも影響力を持った有力豪族と考えられている(註3)。
②8世紀中頃に金堂の規模が拡大され、金堂の南東側に三重塔が建立されるなど伽藍が整備された。継続的に伽藍整備が進められた理由として、寺域から武蔵国分寺などでも使用された鐙瓦が出土していることから(写真7参照)、武蔵国分寺を中心とした新たな仏教政策に組み込まれ、豪族の氏寺から南武蔵地域における郡寺となって行ったことが推測される。
③現本尊の薬師如来座像は平安時代の作であり、白鳳・天平期の影向寺本尊は別の本尊があったと推定されるが、手掛かりとなる資料は残っていない。
④地震や火災あるいは雷火などで伽藍が倒壊・焼失して、以後は簡素な掘立柱式の仮仏堂の時期が暫くあった(註4)。
(2)中世の影向寺
①15世紀後半に仮仏堂を廃して、小規模な密教本堂様式の仏堂を再建した。密教本堂様式が、次第に金堂に代わるものとなって行った。
②鎌倉・室町幕府などの時の政権と特別な縁故のない影向寺では、伽藍の維持が大きな問題となった。深大寺の学僧の協力を得て(註5)、僧侶が民間に出向いて勧進を行ない、ようやく小規模な密教本堂を再建した。
③聖徳太子孝養像や十二神将像の仏像は、中世に造立された。このことは、勧進活動によって、橘樹郡以外の広い地域で、檀越を越えた民衆の支持を集めることができたと考えられる。
(3)近世の影向寺
①影向寺は、寛永19年(1642)に江戸幕府より朱印状が交付された。江戸幕府は、農民を確実に掌握するため、地方の信仰の中心である有力な社寺に朱印状を交付した。
②江戸時代の檀家制度で地方寺院は檀家の負担によって維持されることとなったが、影向寺に属した檀家数は、近隣の寺院に比べて極めて少なかった。
③元禄7年(1694)に現薬師堂が建立された。
④寛文年間(1661~1673年)刊行の『江戸名所記』や天保年間(1831~1845年)刊行の『江戸名所図会』(写真8参照)には、江戸ではないが影向寺の薬師堂や影向石が紹介されている。
4.影向寺の法灯を繋いできたもの
古代においては、聖武天皇の詔勅(741年)により、国分寺を中心とした新たな仏教政策の中で、寺院創建が相次いだ。中世後期には中央・地方を問わず、国家の後ろ盾を亡くし、時の政権と特別な縁故のない寺院では、寺院経営が成り立たず、伽藍の維持が困難になった。また、戦乱や雷火によって伽藍が焼失したり、檀越を失ってやがて廃寺となる運命をたどる寺院がほとんどであった(註6)。その中で影向寺は、その法灯を保持し、今日にまで至っている。その理由としては、勧進といった新しい時代に対応した宗教活動も認められるが、それ以前から連綿と続く信仰を、影向寺の文化財を基に考察したい。
影向寺の信仰は、寺院創建の契機とされる聖武天皇の勅願や聖徳太子孝養像の造立といった疾病消除祈願の流れのなかで位置づけられる。その中心は、もちろん本尊としての薬師如来を奉安することで、近世の影向寺を支えていたのは、檀家制度の枠を越え、地理的制約も越えた民衆の信仰の拡がりにあった。しかしながら、筆者は霊石である影向石に注目したい。
日本人の民衆信仰の中で、特に強いものとして、岩石や古木などの自然物に神仏が宿るという観念がある。『影向寺仮名縁起』にも、こういったアミニズム的信仰の名残が感じられる。特に石に対する疾病消除祈願の信仰は多く、その中でくぼみを持つ石に対するものが特徴的で、そのくぼみに溜まった水を治療に使用すると効果が高いとされる(註7)。
『江戸名所記』にあるように、すでに江戸時代前期に影向寺が江戸市中にまで知られていたことは、霊石への信仰がよほど遡るものであると考えた。すなわち、平安時代前期の「相模・武蔵地震」で三重塔はすでに倒壊・焼失していて、塔心礎石だけが残った。この時、影向石の霊水への信仰が、眼病平癒などの疾病消除祈願で現れた。医薬を司る薬師如来像の造立と薬師如来の”影向”は、後の世のこととなる。中世の影向寺の法灯を繋いできたものは、影向石に対する霊石信仰がベースではなかったかと結論付ける。
5.今後の展望について
「国史跡橘樹官衙遺跡群」は、神奈川県川崎市高津区・宮前区において、昭和50年代からの継続的な発掘調査の結果、全国的にも20数例しか見つかっていない郡寺と郡衙がセットで発掘された遺跡として注目を浴びている。川崎市では、遺跡の保存だけではなく活用も入れた遺跡公園を整備していく予定である。住宅地内という遺跡の立地条件に制約はあるが、今後の調査と研究の更なる進展を期待する。
縁日にはボランティアによる「影向寺の乳銀杏」の民話劇などの上演が行なわれているが、しかしながら薬師堂内の願掛け絵馬が取り外されたりしていることや、以前の薬師如来の縁日では檀家による影向石「霊水」の配布があったことを考えると民間伝承が消え入りそうな危機感を持っている。都市部にありながら、同地区は他にも文化財が多いので、小中学校やこども会と連携して、文化財を身近に感じてもらえるようなイベントの企画が望まれる。
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(写真1)『影向寺仮名縁起』(昭和51年筆者撮影)
(影向寺ホームページより抜粋)
最古の縁起によれば、天平11年(739)光明皇后が眼病を患った折、聖武天皇の御夢の中に一人の僧が現れ、「武蔵の国橘樹郡橘郷に霊地があって、その地に不思議な霊石があります。その石の上にはいつも聖浄比なき水が湛えてあります。此処に伽藍を建立し、薬師如来を安置し奉るならば、皇后の御悩み立ちどころに御平癒となるでありましょう」と申し上げました。天皇は早速、高僧・行基を遣わし祈願させたところ、霊験あらたかで皇后の御病気も快癒されたそうです。天皇の勅命によりこの地に伽藍がそびえたのは、その翌年のことであると伝えられています。
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(写真2)薬師堂正面(平成30年11月3日筆者撮影)
仏堂内部が格子によって、前方の外陣と後方の内陣に分けられる密教本堂形式である。一般の参拝は外陣で行なわれる。本尊薬師如来は内陣に安置される。昭和62年の薬師堂の半解体修理で、古代の礎石や室町時代の屋根材などが部材の一部として再利用されていることが発見された。 -
(写真3)外陣の「向かい目」を描いた願掛け絵馬(昭和51年筆者撮影)
眼病平癒を祈る人の願いを込めている。 -
(写真4)木造薬師如来坐像、日光菩薩像・月光菩薩像(平成30年11月3日筆者撮影)
安置堂に安置されている影向寺の本尊である。 -
(写真5)聖徳太子孝養像(平成30年11月3日筆者撮影)
太子16歳の時、父用明天皇がご病気となられなかなか回復されない、そこで太子は衣服も解かず、昼夜把香炉をもって仏前に祈られ、その甲斐あって天皇が平癒されたという伝承。 -
(写真6)影向石
万治年間(1658~1661年)に近隣の火事で薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でて、この石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあらためた。 -
(写真7)遺跡出土の鐙瓦
上:武蔵国分寺出土の鐙瓦(武蔵国分寺跡資料館蔵、平成31年1月14日筆者撮影)
下:影向寺遺跡出土の鐙瓦(川崎市市民ミュージアム蔵、昭和51年筆者撮影)
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(写真8)江戸名所図会 3巻 稲毛 薬師堂(国立国会図書館デジタルコレクションより)
赤で囲った部分に影向石が記載されている。影向寺は、稲毛七薬師のひとつと数えられている。
参考文献
■脚註
(註1)「国史跡橘樹官衙遺跡群」
古代武蔵野国橘樹郡の役所跡と古代寺院跡から構成される古代官衙関連遺構等は、7世紀から10世紀における、地方官衙の成立から廃絶に至る経過を研究できる重要な遺跡として平成27年に川崎市初の国史跡に指定された。
(註2)
「影向」とは、神仏が石や木に出現して人間の願いごとを聞くという信仰である。影向石と名付けられる霊石は、日本の各地にあり、いずれも神仏が影向された伝承を伴う。
(註3)
影向寺の創建瓦の中に「无射志国荏原評」や「都」と刻まれた文字瓦が発見されている。これは、寺院造立に際し、武蔵国南部の隣接する荏原評(郡)や都筑評(郡)から、瓦が寄進されたと考えられている。
(註4)「相模・武蔵地震」
元慶2年(878)に発生した推定マグニチュード7.4の地震で、現在の関東地方南部に大きな被害をもたらした。
(註5)
影向寺は、一時、調布の深大寺の末寺であった。
(註6)以下の文献を参考にした。
・佐藤信編『古代東国の地方官衙と寺院』、山川出版社、2017年
・神奈川県考古学会編「かながわの古代寺院」、神奈川県考古学会、2001年
(註7)以下の文献を参考にした。
・五来重著『石の宗教』、講談社、2017年
・野本寛一著『石と日本人』、樹石社、1982年
■その他の参考文献
・威徳山影向寺ホームページ「http://yougouji.org/index.html」
・川崎市教育委員会編「影向寺文化財総合調査報告書」、川崎市教育委員会、1981年
・川崎市教育委員会編「国指定遺跡 橘樹官衙遺跡群を活かす」、川崎市教育委員会、2016年
・川崎市教育委員会編「川崎市遺跡リーフレット① 橘樹官衙遺跡群」、川崎市教育委員会、2016年
・影向寺編『古刹影向寺』、影向寺、2006年
・三輪修三著『影向寺小誌 増補版』、影向寺、1977年
・村田文夫著『武蔵国橘樹官衙遺跡群の古代学』、かわさき市民アカデミー、2016年
・村田文夫著『川崎・たちばなの古代史』、有隣新書、2010年
・村田文夫著『ふるさと川崎ぷろむなあど』、村田文夫、2003年
・国分寺市教育委員会編『武蔵国分寺のはなし』、国分寺市教育委員会、2014年
・萩坂昇著『かわさきのむかし話 改訂版』、むさしの児童文化の会、1976年