東京都国立市民のシンボル「赤い三角屋根」駅舎
東京都国立市民のシンボル「赤い三角屋根」駅舎
I.はじめに
私が生まれ育った東京都国立市のシンボル、国立駅舎は「赤い三角屋根」の愛称で長年親しまれてきたが、中央線線路の高架化に伴って2006年10月惜しまれながら解体された。しかし解体後も市民の駅舎への想いは強く、10年の歳月を経て2016年に復元が決定した。この経緯を調査し報告する。
II.国立駅
a)基本情報
所在地:東京都国立市北1丁目14-22
東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の高架駅
乗客数:105,372人 乗車人員:53,274人/日
開業年月日:1926年4月1日
b)沿革
1926年、東京郊外の開発を手がけていた箱根土地株式会社(現プリンスホテル)の経営者、堤康次郎が関東大震災で倒壊した東京商科大学(現一橋大学)や住民の誘致のために国立駅を作り鉄道省へ譲渡した。全国でも珍しい「請願駅」である。その際大学側は①開発地域の北部を走る「甲武鉄道」に新たな駅を作ること、②またその外観に配慮すること、の2つを条件とした。駅名「国立」は中央本線国分寺、立川の両駅から一字ずつ取って名付けられた。
駅舎の特徴は赤い三角屋根にあるが、帝国ホテル新館設計時にフランク・ロイド・ライトに師事した河野傳が設計し、清水建設が工事を担当した。イギリス田園都市の小住宅のデザインを取り入れた大きな三角切妻屋根を持つ建物である。欧風の住宅地を分譲する大学町の広告塔となり、大正時代の駅舎が持つ親しみやすさとデザインの美しさで、1998年「関東の駅百選」にも選出されている。屋根窓と大きな半円形の窓も特徴的で、窓の中には銀杏型の枠が、入り口には住宅のような扉が付いていた。構造の一部に日本の八幡製鉄所、イギリス、ドイツ、ベルギーなどで作られた古いレールが用いられていて当時の鉄道建築の貴重な資料となっている。また駅前広場を持ち駅舎と街路が一体的に整備された事例は戦前には珍しく、日本の都市計画史上においても重要である。
Ⅲ.高架化工事
2003年より中央線の連続立体交差事業が開始された。道路と鉄道を連続して立体化し、踏切での交通渋滞や事故の解消、線路により分断されている地域の一体化などが目的である。国立駅では2005年9月24日深夜から工事が始まり、2007年に全てが仮線に切り替わった後、高架化への建設がスタートした。2010年11月には三鷹〜立川間の踏切は全て廃止された。
Ⅳ.解体
当初は高架化の工事の間、駅舎を曵き家により一時駅前円形公園へ移設し、工事終了後に元の位置に再移設し、国立市指定文化財とする計画であった。しかし2005年この案は国立市市議会で用地の確保や財源計画が不明瞭であると否決された。その結果曳き家での駅舎保存は困難となり、JRの工事の都合上撤去を余儀なくされた。そして2006年10月8日夜、市民の歌う「ふるさと」の合唱の中で80年7ヶ月に渡る駅舎の役目を終えた。
約2ヶ月の解体作業期間中に、将来の再築を前提に全ての部材に番号や記号が記された。それらは現在まで市に大切に保管されている。さらに市は2006年10月26日には旧駅舎を市有形文化財に指定している。指定の理由は次の4点である。
①三角屋根の強い個性の意匠を持ち大正期木造駅舎としての希少価値が高い。
②大正期の国立学園都市計画の中で駅舎が需要な位置付けとなった歴史的環境。
③基本的な構造、いわゆる軸組、小屋組がよく残っている。
④明治から大正期にかけての典型的な構造技法であるキングポストトラス等、技法的、技術的に重要である。
Ⅴ.復元
駅舎の復元に向けて市と市民は取り組んできたが、2015年春になり国の社会資本整備総合交付金事業に採択され、再建に動き出した。同年11月より再建工事を担う事業者を公募し、2016年2月25日には再構築業者が決定した。契約金は上限2億9千万円で、竹中工務店東京本店が優先交渉権を得た。設計から建設までを担い、保管していた部材や柱をそのまま用い、開業当初の様子を復元する。2017年11月までに部材の調査や設計を完了し、2017年度から2019年度にかけて工事を行い、2020年2月末の完成を目指す。
用地については2016年11月14日に地権者であるJR東日本と売買契約の覚書を交わしたと発表された。市は12月補正予算案に用地取得費6億6千万円を計上し、2017年2月に正式に契約の予定となっている。JR東日本から買収するのは、国立駅南口の510平方メートルで、市道部分を合わせた648平方メートルが復元駅舎の敷地面積となる。土地取得費のうち1億9千万円は国の補助金、残りは市民らの寄付金や旧駐車場料金収入からなる基金で賄う。2016年11月28日付で、寄付金の金額は累計約9,067万円となった。「赤い三角屋根プロジェクト古本基金」や「ふるさと納税」で引き続き基金を募っている。
Ⅵ.他の復元駅
全国の数々の復元駅のうち、文化的価値に加え、復元を望む市民運動によって復元された次の2駅と比較する。
a)田園調布駅舎:1923年目黒蒲田電鉄の駅として開業した。矢部金太郎による設計でマンサードルーフ型という屋根を持ち欧州中世期の民家をモデルとしている。都市計画と駅舎とを同じ建築家が担当し、半円状の都市計画の中心に駅舎が位置し、どの街路からも国立同様に駅舎を見ることができる。1990年駅地下化のため解体されたが、東京急行電鉄により2000年にシンボルとして復元竣工した。東急との交渉は主に田園調布会という自治組織により行われた。復元に際しては現物保存よりも原位置に存在することが重視された。2000年「関東の駅百選」に選定されている。
b)旧軽井沢駅舎:1910年に別荘地として人気の軽井沢へ一等客を迎える為に改築された駅舎である。洋風二階建てで、二階中央部分には貴賓室があり皇族等が利用した。1998年長野新幹線開業に伴い駅舎は解体され、2000年に旧軽井沢駅舎記念館として原位置から西側に移動してイメージ復元され、観光案内所と展示施設を兼ねた公共施設として利用されている。保存運動は駅を普段利用する地元住民ではなく別荘所有者を中心とした団体によるものであった。駅舎保存に関しては、原場所や部材の保存にこだわらず別荘地としてのまちの雰囲気、歴史、文化が重要視された。
c)国立駅舎: 国立駅舎の復元は、市民の署名運動により始まり様々な小団体がそれぞれに活動していた。一橋大学同窓会(如水会)も保存活動を行った。国立市側も保存に賛同し、当初統一されていなかった活動を積極的に取りまとめ、東京都やJR側との交渉も行った。また、市は解体が決定した時点で復元に向けて全ての部材を保管した。さらに駅周辺を整備し、復元駅舎を中心とした新しいまちつくりを長期計画している。行政も住民も大学も一致協力し、元の部材を用い元の場所に復元しようとしていることは特筆出来る。
Ⅶ.今後の展望
復元駅舎は、駅施設ではなく展示・観光施設となる。文化財として国立の歴史に関する展示や、観光案内など市の情報発信に活用される。
国立駅舎は開業当初から国立学園都市の玄関口であり、また広告塔として、大きな役割を担ってきた。現在、市では現在駅周辺の南北方向のネットワークを形成する主要な道路を整備中である。歩行者、自転車の主動線と、その中心となる国立広場の実現や新たな景観の創出など旧駅舎の復元と合わせて駅周辺のまちつくりが進行中である。
国立駅舎の復元の経緯をその文化的価値、市民的価値の観点から調査したが、現存する最古の木造駅舎「原宿駅」の存続が危ぶまれる今、2番目に古い国立駅舎の復元は重要な意義を持つ。昨今都区内の駅は複雑な交通網の要としての役割が主で、駅舎そのものの存在は希薄になっている。その中で国立市は駅舎を未来のまちつくりの中心と据えていることは特異であり、駅とまちの歴史を未来に伝えるという重要な意味も持っている。
- 1926年 開業当初の国立駅舎のデザイン 正面入り口上部のロマネスク風のアーチ窓と三角屋根が特徴 入り口には扉がある 国立市ホームページより
- 雪の日の旧国立駅舎 開業当初のデザインとほとんど変わらず国立市のシンボルとして愛されていた
- 2006.10.7 解体前夜の駅舎と写真を撮る市民 実際に自身も足を運び撮影をした
- 国立市の市報(第1138号) 駅の復元の実現のための募金についての記事が掲載されている
- 左:田園調布駅舎(2000年復元) 右:旧軽井沢駅舎(2000年復元)
- 現在の国立駅 駅舎のない国立駅は中央線の他の駅と区別困難で個性が感じられないという市民からの声が多かった
- 復元駅舎を中心とした景観計画 駅舎の東側に南北を貫く新道路を整備し 駅舎前には市民が交流出来る広場を設ける予定 国立市ホームページより
- 国立市役所には「国立駅周辺まちづくり課」「国立駅舎周辺整備係」の部署がありお話を伺うことができた
参考文献
今尾恵介著『地図で解明!東京の鉄道発達史』ジェイティビィパブリッシング
杉崎行恭著『日本の駅舎 残しておきたい駅舎建築100選』JTBキャンブックス
小野田滋著『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』株式会社講談社
高柳誠也、中井祐『保存運動からみる駅舎建築の市民的価値の形成と変容』景観デザイン研究講演集
国立市ホームページ
『国立駅周辺まちつくり基本計画』(概要版)国立市
東京新聞 2016/2/23
日本経済新聞 2016/2/23 朝刊
国立写真店ホームページ 昭和20年代の国立駅周辺
市報 くにたち 2014/7/5, 2016/12/5, 2017/1/5