文化資産評価報告書 【京都五山の送り火の1つ、松ヶ崎妙法送り火の特殊性】
文化資産評価報告書 【京都五山の送り火の1つ、松ヶ崎妙法送り火の特殊性】
1.基本データ(比較のために五山全てのデータ、大文字から点火順に。)(注.大きさは最大部)
A. 大文字(東山・如意ヶ嶽) 火床75基 大きさ:約100m
B. 松ヶ崎妙法
([妙]松ヶ崎西山=万灯籠山) 火床103基 大きさ:約95m
([法]松ヶ崎東山=大黒天山) 火床63基 大きさ:約80m
C. 船形万燈籠(西賀茂船山) 火床79基 大きさ:約200m
D. 左大文字(大北山=大文字山) 火床53基 大きさ:約60m
E. 鳥居形松明(曼陀羅山) 火床108基 大きさ:約76m
※松ヶ崎妙法は2つ合わせて、最大の規模。
2. 「京都五山の送り火」の歴史的背景
5つの起源・縁起のいわれは様々で、実際に調べれば調べるほど統一性は無く、点火のプロセスや消火方法などは、古くから宗派の違う有力なパトロンを持つ各寺が個性を競って送り火を炊いていたようである。
現在の5山以外に、江戸後期には[市原野]の「い」、[鳴滝]の「一」、[西山]の「竹の先に鈴」、[北嵯峨]の「蛇」、[観音寺村]の「長刀」などの送り火も存在していたそうであるが、今は残っていない。
(注.[ ]は京都の地名)
送り火は、世界大戦などで中止されたこともあり、逆に明治24年、ロシアの皇太子が京都に来られたときには5月でありながら全山点火されたこともある。
一番謎の多い「松ヶ崎妙法」は別々の2つの送り火であったものを後世1つにまとめてしまったそうで、万灯籠山にある涌泉寺の寺伝によると、「妙」は徳治2年(1307年)に松ヶ崎の村民が日蓮宗に改宗したときに日蓮上人の孫弟子に当たる日像上人が書き、「法」はかなり遅れて後世に日良上人が書いたと伝えられる。
「妙」と「法」は明らかに書体が違いまとまりがない。
2つの山は少し離れており、近くへ行くほどに両方見える場所が無くなる。
京都五山の送り火の中で、洛北の夜空に映える「妙法」の二字は、「妙法」の山、即ち松ヶ崎がまさに法華宗門徒の聖地でもあるとアピールするものである。
3.国内外の他の事例との比較
国内、海外においても良く知られた伝統行事であるが、その文献や記録は意外と少なく、特に「松ヶ崎妙法」に至ってはほとんど見つからない。
このあと、続いて述べるように五山の送り火全体が統一して運営されていない、と云う大きな問題を抱えている。「五山の送り火」と言うと、5つで1セットと思われている方が多いようだが、実はその由来や主催する保存会、点火/消火方法など、全てがばらばらで、話し合いで統一されているのは点火開始時刻のみである。
「送り火」とまとめて呼んでいるが、「燈籠」「松明」など、正式な呼び名もまちまちである。
(注.主催する団体・組織は便宜上、一括して呼ぶ場合は「保存会」と記述する)
現在では観光的側面が強い伝統行事・文化遺産であり、京都市(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課内 大文字五山保存会連合会事務局)が音頭を取って遂行しているが、保存会毎の運営は統一性がなく、財政基盤も善意に頼るところが多く、大きな伝統行事でありながら、その中心がはっきりしない例は他には少なく、「松ヶ崎妙法」は、その中に於いても最も特殊である。もちろん参加したくても、「松ヶ崎妙法」を初めとして参加することも出来ない山が多い。
4.「松ヶ崎妙法」の運営
運営は「松ヶ崎妙法保存会」よっておこなわれている。この保存会は「財団法人松ヶ崎立正会」が母体となっており、妙法は法華のお題目そのものであり、日蓮宗の信仰と密接な関係を持っている。保存会の会員は80世帯であり基本的に世襲で、その構成員が保存会員兼立正会会員である。
「妙」の西山(万灯籠山)は立正会の所有地であり、103基の火床を旧5ヶ町が交替で担当し、うち2基だけは松ヶ崎浄水場の職員が担当している。これは「妙」の山の裏側に松ヶ崎浄水場があるからである。
「法」の東山(大黒天山)は個人の所有地であり、家ごとに担当の火床が決まっており変わることはないが、それだけに後継者問題が深刻である。
盆行事である送り火と、その消火後に涌泉寺でおこなわれる「題目踊り」と「さし踊り」は松ヶ崎では大きな行事である。
5.「松ヶ崎妙法」の準備~点火執行
7月下旬に、山道や火床の近くの雑木刈やその他の作業を村の全員参加で実施する。
8月上旬に、松の割木などの資材を各家へ配布する。
8月15日〜16日早朝に、割木等を火床へかつぎ上げ、割木組みをする。割木は400束、松葉170束程である。
また15日の午後8時から松ヶ崎立正会員とその家族により、題目踊が約30分おこなわれ、続いて地元の人々を含めてさし踊が約1時間おこなわれる。
古くは杭の上に松明を結んで点火していたが、現在では鉄製の受皿火床が整備された(妙:昭和41年、法:昭和44年完成)。
「妙法」は、2つの山に同時に点火する必要があるので、昔は涌泉寺の鐘が鳴ると火小屋(現在の工芸繊維大学西北角あたりにあった)の前で菜種の殻や麦藁を燃やし点火の合図をおこなっていたそうであるが、現在では簡易保険事務センターの屋上から立正会(保存会)役員が合図をしている。
「妙法」は、火床全てに一斉点火する方法をとっているが、他山では筆書き順に点火するなどの方式もある。
点火すると「妙」の西山では涌泉寺の住職が読経をおこない精霊を送る。「法」の東山では夕方になると「門」に筵を敷いて、机に先祖の位牌と過去帳「法」の字に向けて祀り、行灯やお供物を並べ、ローソクや線香に火をつけ、点火と同時に読経をして精霊を送る。
消火は自然消火で、消えた後の午後9時頃からは、涌泉寺で題目踊り、さし踊りが催される。
6.「題目踊り」
8月15日と16日におこなわれる題目踊りは、涌泉寺の前庭で「南無妙法蓮華経」とお題目に節をつけて何度も繰り返す踊りで、徳治元年(1306)7月16日に始まった、とされる。
題目踊りが日本最古の盆踊り、またはその原形であるという説がある。
送り火の夜、松ヶ崎の住民によって題目踊りがおこなわれるように、念佛の村でお盆に六斎念佛が興業される例は日本各地に多く残っているが、法華の題目を基調にして法華教の功徳を歌詞におり込みながら踊る題目踊りは、全国的にあまり残っていない。
松ヶ崎の題目踊りはこの点でも貴重な民俗芸能であり、京都市は「松ヶ崎妙法送り火」と同時に「題目踊り・さし踊り」を無形文化財に登録している。
7.現在の「送り火」がおかれた状況と、今後の存続課題と展望について
3章で述べたように、運営と財政基盤は盤石ではない。
木こりを生業とする方や、山に慣れた檀家さんも減る一方であり、ボランティアに頼るにも、点火は暗闇の中、斜面で滑りやすく、準備も含めて作業はかなり危険をともない、簡単ではない。
ただ送り火を点灯するだけでは直接の観光収入が得られる訳でもなく、日当で作業されている職人の方もいるが、奉仕活動を継承しているだけの方が多数を占めているのが実態である。
護摩木の奉納を募っている山もあり、1つはおおよそ300円で集められているが、現地に当日出向かなければ奉納は出来ない..などの制限もあり、財源としてはわずかなものである。
因みに「松ヶ崎妙法」では護摩木の奉納は受け付けていない。
京都市観光協会が、「京都五山送り火協賛会」として、送り火の絵はがきや扇子などを販売し、収益金を送り火への補助金の一部に充てている例はあるが、各保存会独自の活動を行政がもっと支援するべきだと感じる。
全く支援策がおこなわれていないとは思わないが、私自身、実際に京都市に居住していても、その策を目にすることもなく、協力要請に触れることもないということは、やはり支援不足と言わざるを得ないと思う。
各保存会の閉鎖性も課題ではあるが、何か協力できることを継続して考えて行きたいと思う。
参考文献
1.松ヶ崎妙法保存会[編](出版年不明)『松ヶ崎妙法送り火』京都府立総合資料館蔵
2.京都市文化観光資源保護財団、大文字五山保存会連合会[編](2000)、『京都大文字五山送り火』京都府立総合資料館蔵
3.京都市観光協会、大文字五山送り火協賛会[編](2000-2011)、『京都五山送り火』京都府立総合資料館蔵