蒲郡市で栄えた三河木綿―消えゆく伝統を継承するために

小島 緩実

はじめに
愛知県蒲郡市には、「三河木綿」と呼ばれる、美しい縞模様の木綿が存在する。しかし、その存在はあまり知られておらず、蒲郡市に在住している人であっても「名前を聞いたことはあるような?」という程度の知名度である。本稿では、三河木綿について、TCC竹島クラフトセンター テキスタイルデザイナーの鈴木 敏泰氏と、手織三河木綿工房手織場会員の平田 里江氏の聞き取りを行い、三河木綿の歴史や文化を、三河木綿に関わる人々を通して今後の文化継承について考察する。

1.基本データ
1-1.三河木綿とは
三河木綿とは、愛知県三河産の木綿を使った織物類のことである。三河木綿は三河縞と呼ばれる縦縞模様と、藍染めに特徴がある。平成19年(2007)三河織物工業協同組合(愛知県蒲郡市神明町12番20号)により、地域団体商標に登録された。〔1〕木綿の産地は全国各地に存在するが、三河木綿は「太くて、毛足が短くて、強い綿」が特徴である。平田氏が「同じ綿の種を倉敷の友人の畑で作ったら、感じが違った」と証言していることからも分かるように、畑の質と、三河の気候で育てた木綿である故の特徴であるとことは明らかである。ほかの木綿にはない丈夫でざらざらしていてシャリ感がある為、野良着として重宝されていた。

1-2.製作工程
①綿繰り
②綿打ち
③「よりこ」を作る
④糸つむぎ
⑤かせ作り
⑥整経
⑦梭とおし
⑧機巻
⑨機織

2.歴史的背景
日本の歴史に木綿についての最初の記録が見られるのは、延暦18年(799)、崑崙人の小舟が愛知県の三河湾(現在の西尾市天竹町)のあたりであったとされる。このことは、『日本後記』〔2〕や『類聚国史』〔3〕に細かく記されている。西尾市天竹町には全国で唯一綿神さまを祀る「天竹神社」があり、境内には「綿資料館」として綿の貴重な資料を展示している。(資料5)しかし、799年の綿種の試植は失敗に終わり、以降700年もの永い間国内では綿の栽培は行われなかったとされる。〔4〕その後、室町時代後期から綿の栽培と木綿織の技術が三河地方にも広まり、国内で最も古い木綿の産地の一つとして発展していった。永正7年(1510)の『興福寺大乗院文書』に、「三川木綿」との記述があることからも三河地方で綿が栽培されていたことがわかる。〔5〕
江戸時代に入ると、三河地綿で織ったものを三河白木綿として江戸へ送り、硬くて丈夫である事が売りとなって流通していった。しかし、明治時代になると国家の方針で欧米の機械技術により大量生産を目指すものになり、均整で生産性の高い紡績へと方向が変わっていったのである。(資料8)
終戦直後の原料不足により三河木綿の織布業は衰退したが、戦後の衣食住の極端な欠乏時代において、三河木綿の需要は衣料の中心として蒲郡地域の機業を復活させた。特に昭和22年(1947)から23年頃は、作ればいくらでも高値で売れるという「ガチャマン時代」を迎えた。しかし、24年から①政府保有の国有綿の放出による原料不足の緩和、②ドッジラインによる厳しい緊縮財政、③織機一台に3万円の課税、などが重なり、倒産する織機業者が多く出て再び織布業は衰退することとなる。〔6〕その衰退していく中で、自殺をする者や、孤立をする織機業者も増えたという。〔資料1〕
その後、蒲郡市が地場産業の復興を目的として立ち上げたのが『ルネッサンス事業』であった。蒲郡市が2003年に「手織場スタッフ」と「三河繊維産品アンテナショップ『夢織人』スタッフ」を募集し、伝統継承に乗り出したのである。(資料7)また、個人的に機織業の現状を直接市に訴え、伝統継承に積極的に取り組んで始めたのが「TCC竹島クラフトセンター」である。

3.積極的に評価している点
3-1.教室形態で伝統技術を継承する「手織三河木綿工房手織場」(以下、手織場」〔資料2.3〕
手織場は、蒲郡市が立ち上げて、市の補助で運営してきた三河木綿伝承の場である。財政もあり6年前に一時解散の危機もあったが、現在は自主運動的に活動されている。手織場の主な活動は、三河木綿の織物体験と、織物講座である。受講会員になると、製作工程①~⑨までの全ての技術を学ぶことができ、「白木綿を織る→無地を織る→縞を織る」この3工程を終了すると卒業となるようなシステムである。このようにしっかりと手紡ぎの技術を学べることは、評価すべき点である。

3-2.観光客に体験を通して伝統技術を伝承する「TCC竹島クラフトセンター」(以下、クラフトセンター)〔資料1.3〕
クラフトセンターは、主に観光客をターゲットとして、手機体験をしている施設である。機屋が廃業していく中、人々の希望が無くなりゆく現状を市役所に訴えかけたのが、鈴木氏であった。市の理解を得た時に、「蒲郡でできたものを全国から来た観光客に買ってもらえるようなお店をつくろう」という思いから立ち上げたのが、「クラフトセンター」である。現在建物が存在する場所は、観光地でも有名な竹島の近くにある竹島園地内であるため、立地を生かして観光客に三河木綿を広める取り組みを行っていることが評価できる。

手織場・クラフトセンター共に、筆者が実際に体験を行った。手織場では、製作工程の①②③④⑨を、クラフトセンターでは製作工程の①②④⑨を、実際に昔ながらの器具を使いながらの体験であった。体験と聞き取りの中で、蒲郡市が三河木綿の復興に力を注いだこと、しっかりとした体験内容、三河木綿伝承に対する強い思いが感じられるところも、評価したい。

4.特質点:知多木綿との比較
知多木綿は、愛知県知多市岡田の町で栄えた織物である。江戸初期の慶長年間(1596〜1614)ごろ、農家が農作業の合間に行う副業として発展していった。知多の白木綿は江戸で浴衣・下帯・手ぬぐいなどに加工されて販売されていた。『機を織れないものは、嫁に行けぬ』と言われたほど、どの家庭でも行う手仕事の一つであった。
岡田の町には大きな織機工場もあり、長野や熊本から女工さんが出稼ぎに来るほど栄えていた。しかし50年前くらいに、安価で大量生産を進める政府の政策で木綿産業は廃れていった。「織機を壊したら、300万円上げると国から言われて、皆織機を壊してしまった」との証言は、衝撃を受けるものである。(資料6)
知多木綿は、町おこしとは関係なく、うち織の再現をする為に、知多市歴史民俗博物館で講座として行ったのが復興の最初であった。今回聞き取りを行った「木綿蔵ちた」と「伝承知多木綿つものき」の会員は、知多市歴史民俗博物館で手機を習った人々である。実際に体験を行った印象は、三河木綿のように昔ながらの器具を使いしっかりとした体験をするのではなく、手紡ぎ・手機を簡単に親しみやすく体験をすることを目的としているような感じであった。(資料6)
時代の流れで廃れてしまった木綿業界の事情は共通するものがある。また、手織り体験や講座を通して伝統を継承する取り組みは共通するところである。しかし、聞き取りを行う中で、町おこしとして取り組んでいるわけではないことや、伝統を継承するという強い思いを持った人が減っているということ、体験の内容などから、伝統継承に掛ける思いの強さが三河木綿よりも薄い印象を受けた。

5.今後の展望
聞き取りの中で感じた問題点は、三河木綿継承に携わっている人たちの高齢化である。三河木綿を伝承する取り組みとして、各施設での体験・講座や、アンテナショップ等(資料4)での販売、インスタグラム等での発信を行っているが、知名度は低い。三河木綿を印象付けるために「最初に棉が伝わったのは三河である」という歴史をもっと前面に出すことも有効であると考える。また、蒲郡市内の社寺の協力を得て、御朱印帳やお守りに生地を使用するなど、もっと町全体で盛り上げていく必要があるのではないだろうか。
今よりも更に三河木綿への関心を増やし、伝統を継承する担い手を増やすことが課題である。

6.まとめ
手紡ぎ木綿制作の伝統継承について佐貫匡は、「先人は全工程を通して雑念を払い気合を込めて、ひたむきな取り組みをしていました。それによって秘められている美的な素地が一つひとつ目ざめ、美しさが自然に滲み出てくるのです。この心情は現代の私たちもそのまま受け継いでいかなければなりません。」〔7〕と述べている。このことからも、技術のみではなく、先人たちの心情までも受け継いでいくことが重要であると考える。今回体験を通して出会った人たちは、大変だと言いながらも楽しさを感じながら手織りに向き合っている姿が印象的であった。この先も、技術と共に心情を繋ぎ、美しい木綿織りが継承されていくことを期待したい。

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  • 81191_011_31581072_1_6_E79FA5E5A49AE69CA8E7B6BF_page-0002 【資料6】知多木綿「『木綿蔵ちた』の織物体験記録/『伝承知多木綿 つものき』会員への聞き取り」
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参考文献

注釈・引用文献

〔1〕アイリンク国際特許商標事務所、愛知県の地域ブランド「三河木綿」、https://www.syouhyou-touroku.or.jp/touroku-syouhyou-tiiki-brand/aichi-kenn/mikawa-momenn/ 2024.1.26閲覧

〔2〕『日本後記』巻八 桓武天皇 延暦18年7月是月条
「秋七月、(中略)
是の月、一人ありて、小船に乗り、参河國に漂着す。布を以て背を覆ひ、犢鼻ありて、袴を着さず、左肩に紺布を着る。形、袈裟に似たり。年、廿ばかりなり。身長五尺五分、耳長三寸余り。言語、通ぜず、何の國の人か知らず。大唐人らこれを見て、僉曰く、「崑崙人」と。」後に頗る中國語を習ひ、自ら天竺人と謂ふ。常に一弦の琴を弾く。歌声、哀楚なり。其の資物を閲するに、草の寛の如きもの有り。これを綿の種と謂ふ。その願ひに依り、川原寺に住まはせしむ。即ち随身物を賣る。屋を西の槨の外路の邊に立て、窮人をして休息せしむ。後に近江國の國分寺に遷り住む。」(西尾市史編集委員会編、『新編西尾市史研究第一号』、西尾市、2015年、P8)

〔3〕公益財団法人前田郁徳会尊経閣文庫所蔵本大永本『類聚国史』巻百九十九 殊俗部 崑崙
「崑崙 
桓武天皇延暦十八年七月、一人ありて、小船に乗り、参河國に漂着す。布を以て背を覆ひ、犢鼻ありて、袴を着さず、左肩に紺布を着る。形、袈裟に似たり。年、廿ばかりなり。身長五尺五分、耳長三寸余り。言語、通ぜず、何の國の人か知らず。大唐人らこれを見て、僉曰く、「崑崙人」と。」後に頗る中國語を習ひ、自ら天竺人と謂ふ。常に一弦の琴を弾く。歌声、哀楚なり。其の資物を閲するに、草の寛の如きもの有り。これを綿の種と謂ふ。その願ひに依り、川原寺に住まはせしむ。即ち随身物を賣る。屋を西の槨の外路の邊に立て、窮人をして休息せしむ。後に近江國の國分寺に遷り住む。
 延暦十九年夏四月庚辰、流れ來たるの崑崙人、齎すところの綿種を以て、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊豫・土佐及び大宰府の諸國に賜ひて之を殖ふ。この法、先ず陽地沃壌を簡みて、之を掘りて穴を作ること、深さ一寸、衆穴相去ること四尺なり。乃ち種を洗ひて之を漬す。一宿を經しめ、明旦に之を殖ふ。一穴に四枚、土を以て之を掩ひ、手を以て之を按ふ。毎旦に水を灌ぎ、常に潤澤ならしめ、生るを持ちて之を芸る。」(西尾市史編集委員会編、『新編西尾市史研究第一号』、西尾市、2015年、P9)

〔4〕佐貫匡著『続木綿伝承先人に学ぶ手わざと心』、染織と生活社、2009年、P5

〔5〕佐貫匡著『続木綿伝承先人に学ぶ手わざと心』、染織と生活社、2009年、P9

〔6〕蒲郡市史編さん事業実行委員会編、『蒲郡市史本文編4現代編』、蒲郡市、2006、P100

〔7〕佐貫匡著『続木綿伝承先人に学ぶ手わざと心』、染織と生活社、2009年、P184 引用

参考文献一覧
・アイリンク国際特許商標事務所、愛知県の地域ブランド「三河木綿」、https://www.syouhyou-touroku.or.jp/touroku-syouhyou-tiiki-brand/aichi-kenn/mikawa-momenn/ 2024.1.26
・西尾市史編集委員会編、『新編西尾市史研究第一号』、西尾市、2015年
・佐貫匡著『続木綿伝承先人に学ぶ手わざと心』、染織と生活社、2009年
・蒲郡市史編さん事業実行委員会編、『蒲郡市史本文編4現代編』、蒲郡市、2006
・【知多木綿の魅力再発見】昭和初期に一世を風靡した「知多木綿」ってなに? https://chita-kanko.com/feature/detail/3/ 2024.1.26
・知多市歴史民俗博物館カタログ、知多もめんー手織りの時代、2001.10.20~2001.12.2
・名鉄グループエリア魅力発見マガジンウィンド、1月号(第740号)、2022.10.29

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