旧神谷伝兵衛稲毛別荘~保養地の歴史的空間を伝える別荘建築の存在~

息才 博

はじめに
旧神谷伝兵衛稲毛別荘は、国道14号線沿いの海岸段丘の上、黒松に囲まれた庭園にある千葉市民ギャラリー・いなげ内に存在する建築物である。1918年(大正7年)に旧神谷伝兵衛稲毛別荘は、かつては眼下に海が広がり、潮の香りが漂う緑の松林に囲まれた千葉市稲毛の保養地に、実業家である神谷伝兵衛が来賓用別荘として建てられた。〔図.1〕歴史的文化財として残されている近代和風建築物の空間デザインである。そして稲毛が海辺の保養地だった頃の記憶を物語る建物として旧神谷伝兵衛稲毛別荘を取り上げて考察する。〔図.3〕

1.  基本データー
住所地  千葉県千葉市稲毛区稲毛1丁目8番35号
施 行  大正7年(1918年)
設計者  不明
構 造  鉄筋コンクリート造
地上2階、地下1階
建築面積113㎡
延面積  291㎡
文化材登録  平成9年国有登録有形文化財

2. 歴史的背景
2-1明治・大正時代の稲毛の海辺
神谷伝兵衛稲毛別荘の前には美しい海岸が広がっていた。明治21年に小さな海辺の街・稲毛に千葉県初の海水浴場が設けられた。同年には保養地として浜辺を臨む松林の中に「稲毛海気療養所」(後の旅館「海気館」)も開業された。〔図.2〕そこには海水浴や潮干狩りに訪れる客が増え、稲毛には多くの旅館や別荘が建てられる。〔図.6〕

2-2神谷伝兵衛の人物像
神谷伝兵衛は安政3年、三河・松木島村(現在の愛知県西尾市一色町)の名主の6男として生まれた。東京・浅草で「電気ブラン」や「蜂印香竄葡萄酒」などを生み出し洋酒を普及させるとともに、フランスから本格的なワイン製造技術を導入し日本人に合う甘口の再生葡萄酒を販売に着手したことで知られる明治・大正期の実業家である。
明治13年には日本初のバーとなる「みかはや銘酒店」(現在の神谷バー)を浅草で開業する。輸入葡萄酒を原料とする日本人好みのワインは評判となり、明治18年に「蜂印葡萄酒」、翌19年には「蜂印香竄葡萄酒」を売り出し世界でも高い評価を受ける。明治31年に茨城県牛久市の原野を開墾して神谷葡萄園を開園し念願の葡萄酒づくりに着手する。〔図.8〕明治36年にはワイン醸造場「牛久シャトー」(現在のシャトーカミヤ)を開設した。〔図.7〕

2-3、稲毛別荘と神谷伝兵衛
神谷伝兵衛は、還暦を迎えて大正6年に休養を目的とした台地に別荘を建てる。稲毛別荘に現存しているゲストハウスの洋館の他にも木造雁行型の和館と、付属施設としての管理人の住宅と海岸に面した小住宅の4棟を建築した。洋館の構造は鉄筋コンクリート造りで、千葉県内で現存する鉄筋コンクリート建築としては最も古く、別荘として当時、全国的にも希少な初期の鉄筋コンクリート建築である。大正12年の関東大震災でも崩れることなく残されてきた。〔図.11〕

3. 建築物の特徴と評価
神谷伝兵衛の稲毛別荘に現存している洋館の主要構造は、鉄筋コンクリート構造の地下1階地上2階で屋根架構は洋風キングボックス・トラストである。建物内部の1階は本格的な洋間であるに対し、2階は古典的な和室で落ち着いた趣を見せている。建物の正面左手には丸窓があり、右側面には突出したレンガで組まれた曲線のある出窓(眺望台)が設置されている。〔 図.14〕
1階ピロテ正面には、5連の円形アーチが並びネオロマネスク建築を基調としており、吹き放ちの床廊が配置されている。モディリオン(持ち送り)が設置され、直線的なデザインはアールヌーヴォー調のアーチの装飾やゼセッソン風の幾何学的な換気窓、トスカナ式の柱がある。玄関のホールは、シャンデリアを吊り下げる円形装飾に蔓を絡めた葡萄を模った天井のレリーフを使う特徴がみられる。〔図.15〕
1階の洋間は応接間として客人を迎えたメインの部屋で、天井が高く漆喰天井である。入口にはアーキトレープ装飾が見られ、幾何学的な美しい模様をつくる寄せ木張りの床。[ 図.22]応接間には装飾・マントルピースは白い大理石製で両脇にオーダー(柱)を配した本格派の暖炉。炉脇にはアールヌーヴォー調の図柄が描かれた英国製ビクトリアンスタイルの絵描きタイルをはめこんだ暖炉がある〔図.21〕
地下は3つの区切られた部屋があり、床にはベランダとお揃いの英国性床タイル、壁面は白いタイルで雷紋が入った模様になっている。〔図.26〕1階洋間の真下に位置する最も広い部屋は、1年間を通して涼しい環境であることから、湿度調整用と思われる床の開口等が見られワインカーブであったと考えられている。〔図.24〕
一階から二階へと続く壁を緩やかな白漆喰で仕上げるなど、この階段の特徴のひとつになっている。〔図.17〕四辺を飾っているモディリオンの少し幾何学的な意匠がバランスよく溶け込んだ、大正時代らしい気風が感じられる。
2階の主室は、13.5畳に4畳の床の間を付し、棚と付書院を配した奇数屋風の書院造りで、周囲には広縁を廻している。書院づくりの主室の天井は囲炉裏にいぶされた煤竹に縁どられた2段のお利上げ格天井である。〔図.27〕竹の皮で編まれた床の間の網代天井や床柱は、葡萄材をフランスから取り寄せた古木を使用され、上部にある欄間に葡萄のツタを這わせるなどワイン王神谷伝兵衛を偲ばせる特徴が随所にみられる。〔図.28〕欄間に葡萄、ハチ、トンボが透かし彫りのデザインがされて、その欄間を斜めから見ると、光によって不思議に立体的に飛んでいるかのように見える。〔図.30〕「ワイン王」ならではの意匠を随所に取り入れた空間は神谷伝兵衛の意思が感じられる。

4. 建築物と比較・特筆される点
4-1洋風建築の特徴
洋風建築は、明治初期に開国とともに諸外国から伝わった技術や知識を吸収し、近代化が進んだ。明治時代にヨーロッパからもたらされた洋風建築の技術と様式によって、日本の建築が造られた。西洋の建築技術ではレンガ造りの建築物が特徴である。明治初期には日本の大工・棟梁には西洋の建築知識がなく西洋人の指導と、日本の伝統的な木造建築技術を使って西洋風の外観の建築物である。

4-2擬洋風建築の特徴
擬洋風建築は、幕末から明治頃に日本の各地で建築された。日本人の大工、宮大工や左官職人らが、西洋人の建築家が設計した建物を参考に、建てた西洋風の建築物である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、中国風の要素を混合し、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じっている。

4-3旧神谷伝兵衛稲毛別荘の特徴
鉄筋コンクリート造・半地下地上2階建で、1階の正面にはロマネスク様式風の5連アーチが並びや、吹き放ちの柱廊が配置されているなど洋風建築である。しかし2階は書院造の和室で、その天井は折り上げ格天井など、1階の洋間とは異なる和洋折衷の内装や、繊細なデザインは、洋風建築とは違い擬洋風建築の特徴を持っている。

5. 今後の展望
以上のように旧神谷伝兵衛稲毛別荘は、稲毛の海辺の保養地だった頃の記憶を物語る建物であり、千葉県に限らず全国的に見ても初期の大変貴重な建築物として、平成9年(1997年)5月7日に国の登録有形文化財に指定された。神谷伝兵衛亡き後、別荘は子孫の手を離れサンフランシスコ平和条約締結頃まで、一時アメリカの将校が自宅して使われていたが、平成元年千葉市が買い取り別荘は千葉市が管理している。
敷地内には洋風のギャラリーが建てられ、地域アート・文化の拠点となり年間を通して企画展や講座、地域と連携したイベントの開催や市民が作品の制作や展示のできるギャラリー、また世代やジャンルを越えて交流できるコミュニティの場とし活用されている。〔図.38〕旧神谷伝兵衛稲毛別荘は歴史的文化財として後世に残すべき文化遺産であり、大正時代の近代和風建築物として残され伝えていく建築物である。

まとめ
旧神谷伝兵衛稲毛別荘の魅力は、その場に立ち、見て存在の背景となる神谷伝兵衛の思いを知ることで、ひと時の時間と空間を感じ、神谷伝兵衛が愛したワインの香りが、文化の香りまでが熟成して、別荘の周囲に漂っているかのように感じる。葡萄の意匠を凝らす創りは、神谷伝兵衛ならではの空間デザインがなされた別荘である。

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参考文献

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藤本直紀「首都圏 名建築に逢う」東京新聞出版局 2008年3月17日 228~229ページ

中村哲夫 「千葉の建築探訪」崙書房出版株式会社 2004年3月31 日

近藤豊 「明治初期の擬洋風建築の研究」理工学社 1999年8月25日

菅付雅信 「はじめての編集」アルテスハブリッシング 2012年1月25日

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川添善行、早川克美「芸術教養シリーズ19、私たちのデザイン3 空間にこめられた意思をたどる」京都芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎 2014年12月17日

参考資料:WEBサイト
写真紀行・旅おりおり:神谷伝兵衛別荘
http://www.uchiyama.info/oriori/kentiku/dentou/kamiya/   
(2022年10月21日閲覧)

千葉市民ギャラリー・いなげ(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)
https://oniwa.garden/chiba-gallery-inage/
(2022年10月21日閲覧) 

虹色こまち千葉
https://nijikoma.com/views/editorial/article-editor.php?id=33
(2022年10月21日閲覧)

ニツポン旅マガジン旧神谷伝兵衛稲毛別荘(千葉市民ギャラリー・いなげ)
https://tabi-mag.jp/ch0309/
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千葉市ホームページ
https://www.city.chiba.jp/inage/chiikishinko/villa.html
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Aboutまぜたの
https://mazetano.com/kamiyabesso/
(2022年10月21日閲覧)

千葉県ホームページ
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/q111-001.html
(2022年10月21日閲覧)

月刊社長のミカタ歴史建築 散歩道
https://www.mikatadigital.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%BB%BA%E7%AF%89%E6%95%A3%E6%AD%A9%E9%81%93/%E6%97%A7%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E4%BC%9D%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%A8%B2%E6%AF%9B%E5%88%A5%E8%8D%98-%E5%8D%83%E8%91%89-%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%82/
(2022年10月21日閲覧)

千葉市民ギャラリー・いなげ
https://galleryinage.jp/
(2022年10月21日閲覧)


ユニオンペディア 擬洋風建築と明治維新
https://ja.unionpedia.org/c/%E6%93%AC%E6%B4%8B%E9%A2%A8%E5%BB%BA%E7%AF%89/vs/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
(2022年12月24日閲覧)

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