有馬街道の出発点、変わりゆく景観と残る痕跡

重光 さおり

はじめに
兵庫県尼崎市は兵庫県の最南東に位置し、川を挟んで大阪のすぐ隣にある。大阪や京都に近いことから古くからの文献にもその名が登場することが多い歴史深い市である。今日では開発などが進み、新しい景観と古き良さを残す昔ながらの雰囲気をまとった地域が混在し、新しくも古い独特な雰囲気が感じられる。そんな尼崎市で昔から交通の要所として使用されており、そして今現在も地図に名前が残されている有馬街道を歩き、当時の痕跡をたどりながら現状や今後の課題、そして展望などを考察していく。

歴史的背景
鉄道や車が普及するはるか昔に大阪方面から有馬温泉へ向かう際、まず神崎川から渡し舟で神崎という地名の尼崎領に入る。ここを起点として有馬街道が始まるのである。神崎は多方面へ行くための重要な地点であったためここを経由して中国、四国、九州方面、はたまた大阪や京都方面へ渡る人々が多くおり、そのため宿場町として栄えた。そして尼崎には有馬温泉へ向かう街道が現在二つ確認されている。その二つは現在本道と間道と呼ばれ、本道は神崎から北上し、伊丹方面へ向かう道、そして間道は神崎から北西に進み、同じく伊丹市に入るが二つの道は交差せず、合流するのは宝塚市に入ってからである。その道の要所要所に道しるべとしての石柱が建っており人々はそれを見て行き先の方向を確かめたという。また戦国時代には豊臣秀吉が有馬へ行く際にこの道を通ったということが記されており、また江戸時代には近松門左衛門などもこの道を訪れたという。

積極的に評価する点
街道に残された痕跡
1.歴史としての石柱
この道は古くからある道であるが町の景観は変わってもそのほとんどが当時と変わらない道を舗装して使用しており、当時と同じ道を歩くことができる。そして当時の道しるべである石柱が通り道に点在しており、街道の近くに寺跡や城跡などが多くあることから当時にとってとても重要な道であったということが感じられ、その時代に思いをはせながら歩くことができる。そしてこの石柱は当時を探る上でとても大切なものであり、その道しるべである石柱が今現在でも残っている事、さらに当時の道しるべを建て、管理していたのが(写真1)の當村世話人ということがわかるが、現在においてもここが有馬道であったということを残すために、また町おこしの一環として当時と同じ地区の人々が道しるべを新しく設置しているという点(写真2)である。
また、この道しるべが市道の片隅に置かれているという点も評価したい。例えば歴史博物館などに移動させてしまってそこにしか展示していないとなれば当然歴史にほとんど興味がない人などの目に触れるハードルは上がってしまう。どうしてもわざわざそこに見に行くという言葉が付きまとってしまうが、一方で誰でも通る可能性のある場所にそのまま置かれているとなればなんだろうなんて書いてあるのだろう、読んでみたいという興味を持ってくれる可能性は上がるのである。

2.道しるべとしての石柱
この石柱としての役割はやはり行きかう人々に分かりやすく向かう方向を教えることである。道しるべの正面に立つと主に右と左という文字とともに地名が書かれておりそちらの方向に行くと彫られている地名にたどり着けるという仕組みである。さらに側面にも彫られている場合があり(写真3)側面を正面から見たときの右や左でまた行き先が彫られている。この彫られ方でとても評価できる点が行き先が右と左で彫られている点である。例えば、東西南北で行き先が彫られていた場合すぐに方角が分からないということも少なくない。だが右と左という方法で彫られていた場合、正面に立ち、見てすぐに行くべき方向が分かるのである。これには道しるべとしての徹底的な分かりやすさが詰まっていると感じる。

3.デザインとしての石柱
石柱のデザインはシンプルかつ伝わりやすいということを目的とし必要な情報以外を一切遮断したものであると感じる。だが数ある石柱の中でも自身の名前を残したり、日付を彫りいれるなど(写真4)しているものもある。これは単に簡単な道しるべとして創ったものではなく、続く後世にも使い続けてもらうために作ったものということなのだろうか、現代の橋がかけられた年月が彫られているものがふと思い出される。また石の形もどの年代のものもほとんどが四角柱で作られており、高さや幅は違えど三角の形でも丸でもなく、四角というところがデザインの統一性がうかがえる。さらによく見てみるとどの石柱も上部がとがったデザインをしている。これは何か利便性を求めてのことだろうか、それとも単なるデザインなのだろうか、そしてどの石柱もデザインが統一されているということはとても気持ちがよく芸術性の観点から見てもとても評価したい点である。

現在における課題
評価する点の項目にも記述したが、石柱はほとんどが当時のままその場所に置かれている。歴史的観点からみて石柱はその場からできる限り動かすべきではないと感じているがそれと同時に材質が石であるために雨風にさらされ、欠けてしまったり文字が薄くなっていき読み取りにくくなっていくということが懸念される。実際文字が薄くなっていきかろうじて読むことができる道しるべ(写真5)も多数あり、早急に保護が求められる。だが残念なことに行政などに有馬街道を伝え残そうとする動きはまだない。千葉県我孫子市や愛媛県では道しるべの保存や博物館での保護が行われておりそのような事例を参考にし、有馬街道の道しるべも保存や保護をすることは決して不可能な話ではないのでこれは今後の課題である。
さらにこの街道を伝え残そうとする動きが現在地区の自治会のみという現実も問題点として挙げられる。自治会のみではいずれ限界が来てしまうのでこれも早急に行政に対応してもらいたいと感じている。

今後の展望について
尼崎の有馬街道を歩き歴史に触れてきたが、まず第一にあまり知られていないのではないかということが思い浮かんだ。歴史的遺物である道しるべがこんなにも点在しているのによほどの歴史好きぐらいにしか知られていないような場所というのはたいそう残念な気持ちになる。歴史を学ぶ街歩きや、石柱をチェックポイントとした企画などを打診してみたいところだ。
そして道しるべを保護、保存することも今後の課題の一つである。例えるならば石柱に屋根のついた囲いをつけるということや、愛媛県の事例のように歴史博物館に展示保存してもらうことなど今残っている歴史遺産をどうやって守っていくかを考えることが重要である。その為にこの有馬街道や道しるべが歴史においてどのような位置づけにあって、どれほど重要なものであるかを今一度考え、知っていく必要がある。そして知ることにより町全体で守っていけるような手立てを見つけることが課題であり、今後につながっていくと考えている。

まとめ
本レポートのきっかけは、市内にある数個の石柱の存在は知っていたがそれが有馬街道に点在しているということを知ったことから始まる。文字が薄くなり消えそうになっている道しるべを見て、このまま雨風にさらされ続けたら消えてしまうのでどうにかできないものかと考えたことがきっかけである。町は新しく現代風にに変わっていく一方で行政は歴史的遺物に興味はないのかとさえ考えたこともあり、どうにか後世に残していきたいという思いでいっぱいである。
今後なにもなされなければこのまま時の流れとともに失われていくものではあるが、今動けばまだ可能性は十分にあるので市や住民の理解を得て保護、保存を働きかけること、そしてかつて人の往来が絶えなかった場所であるということから地域の人々や町ぐるみでの企画や行事などを開催することで活気ある場所になってほしいと願う。その為には住民の理解と行政の努力が必要であり、どちらかが欠けては成り立たないのである。

  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 写真1 當村世話人と彫られた道しるべ
    筆者撮影2023.1
  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 写真2 近年新しく作られた道しるべ
    筆者撮影2023.1
  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 写真3 方向が分かりやすい道しるべ
    筆者撮影2023.1
  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 写真4 日付が彫られている道しるべ
    筆者撮影2023.1
  • OLYMPUS DIGITAL CAMERA 写真5 かろうじて読める道しるべ
    筆者撮影2023.1

参考文献

年月と地域
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