「京都にあった私塾『八木CG塾』の歴史」 ─2000年からの17年間、その歴史に見つけたものは何か?─
1. 基本データ
名 称:八木CG塾
開 塾:2000年12月
閉 塾:2017年10月10日(第16回八木CG塾展終了日)
所在地:京都市北区西賀茂鹿ノ下町23番地
塾 長:八木博司(1947~2017)(資料1-1)
塾 生:延べ57名(資料4)
八木CG塾の塾長は八木博司という写真家でコンピュータグラフィックス作家であった。(資料1-1)
開塾時の塾生は4名の男たちであった。写真を撮影する技術は持っていたが、パソコンを操作して、コンピュータグラフィックス(以下CGと言う。)を制作することは全く未経験のアマチュアの者が集まった。彼らは撮影したデジタルデータからCGを制作したいという情熱に燃えていた。(資料1-2)
京都市北区西賀茂にある、八木スタジオに毎週1回、夕方7時から集まり、9時までの2時間、塾長のパソコンの周りに集まって、授業を受けたのである。授業の内容は「八木CG塾テキスト」により1ヶ月の講義を受け、さらに、実技のCGの「課題集」の説明を受け、次の授業の日までにその課題を仕上げ、そのデータをCDに保存、持参し、塾長のチェックを受けるという繰り返しを1年間続けたのである。(資料2-1、2-2)
さらに丁度この頃、カメラメーカーから発売されたデジタルカメラでRAW現像するという最新の写真技術の習得にチャレンジしたのである。
(ニコン社製デジタルカメラD100は2002年6月22日に30万円で発売された。https://www.nikon-image.com/products/slr/lineup/d100/)
八木CG塾が誕生した翌年の2002年から「塾展」という名称でCG作品の作品展を開催し、成果発表を行った。第1回の塾展は10名が作品を出品した。(資料3-1)
そして、2004年に開催した第3回塾展開催の後、共同通信社の取材を受けた。「CGで自己表現のお年寄り」というタイトルで全国の地方紙に発信され掲載された。(資料3-2)塾長を取り囲んでシニアの塾生が楽しそうに指導を受ける様子の記事と写真を見て、全国から塾長に問い合わせがあった。横浜在住で神奈川新聞の購読者の一人からは、月1回は通うから入塾したいと強い要望があった。しかし月1回の授業では授業にならないことから、遠方の入塾希望者の授業方法を検討せざるを得なくなった。検討の結果、塾生のパソコンを塾長が遠隔で操作しながら、音声はNTTの電話回線を使うという方法で授業方法が開発された。これには遠隔操作を可能にする高度な技術(VNC)が必要であったが、八木スタジオの技術陣が諸問題を解決した。(2004年にはSkypeというソフトによりパソコンで音声通話が無料で可能となった。)これで、遠隔で授業することが可能となって、2006年の第5回の塾展には仙台、横浜、城陽、堺などから遠隔授業の塾生が塾展に出品した。(資料4)
こうして2006年の第5回塾展には24名の塾生が出品するという塾生数のピークを迎えた。(資料4)
2017年に八木塾長が69歳で病により急逝したため、八木CG塾は第16回の塾展で幕を閉じた。(資料1-4)
17年間にわたる八木CG塾の歴史を眺めると、塾展には延べ298名の塾生が参加したことがわかる。(資料4)
それらの作品を生む苦しみや楽しみを塾生は体験できたことに喜びを感じて、今もそのことを懐かしみながら生きていると思われる。八木CG塾の存在は塾生にとっては大きな生きがいを生み続けたと考えられる。
2. 歴史的背景
八木CG塾が開塾された2000年頃はフィルムカメラからデジタルカメラへの変換が進んで、アマチュアにもデジタルカメラを購入して楽しめる時代が訪れた。そしてカメラのデジタル化に伴い写真の楽しみ方にも新たなものが現れ、その先駆けとして八木博司の個展や八木CG塾展などを見て、多くのシニアが入塾を希望したのである。(資料1-3、5)
八木博司塾長は塾展やホームページの御挨拶においてこのことについて何度も訴え続けている。(資料6、7)
また、さらに「カラー版 世界写真史」にも「デジタルカメラの進化」や「新たなコミュニケーションのスタイルが成立しつつある」と記されていて、八木CG塾の誕生とデジタルカメラの本格的な誕生が同じ時期であったことがわかる。(参考1)
3. 評価
塾生の作品の社会的評価をみると、数多くの公募展などにおいて多数の評価を得たのである。(資料8)
CG作品が写真コンテストや絵画の版画部門のコンテストなどにおいて評価されたことは画期的であった。
4. 特筆点
写真コンテストなどの作品づくりを指導するフィルム時代の指導者はいたのであるが、デジタル化時代に入ってから、パソコンを使った作品づくりの指導者は大阪近辺には見つけることは出来ず、八木博司に指導を仰いだと、井上久一氏は電話取材(Skypeを使用)で述べている。(参考2-2)八木博司はデジタル時代の指導者として関西圏では唯一無二の存在であったことがわかる。
絵画や版画、そして写真などのアートの歴史からすれば私塾「八木CG塾」はたったの17年の短期間の存在であった。塾長と塾生たちの活動はアートの世界では新しい活動であった。そのうえ、さらに革新的でもあった。また、たとえば太陽の塔に子供たちが登っている作品があるが、それを見た塾展の観客から「いつ登れるの?」と質問を受けるなど作品のようなシーンが現実に存在するかのように思わせたのである。(資料8の赤枠部分の作品)
5. 今後の展望について
1. 八木CG塾の17年間はアートの世界では瞬間であっても、その技術や手法は塾生に植え付けられ今も作品の制作は続いている。
元塾生の一人である藤田多朗氏にメールにて取材したところ、「生前の八木塾長からコラージュによる個展の開催を勧められ、コツコツと作品をつくり続け個展の開催にこぎつけた。」とのこと(2019年6月、京都・同時代ギャラリーにて個展を開催)。彼は八木CG塾でCGを習い、CGの技術や手法をさらに高めようとしているのである。(参考2-1)
元塾生の中で最高齢の93歳の井上久一氏は今も、作品づくりに励んでおり、「パソコンで作品をつくることが生きがいである」と八木塾長との出会いとCGの世界に生きていることに感謝している。(参考2-2)
このように元塾生は塾で習った教えを生かした生活を送っていることを確認した。その内訳は次のとおりである。
・公募展などに出品している元塾生(4名)。
・公募展には出品していないが、グループ展に出品している元塾生(2名)。
・高齢かつ、コロナ禍で外出できなくとも自宅でCG制作を続けている元塾生(1名)。
・2回目の個展開催を目指して作品を次々と制作している元塾生(1名)。彼は、京都芸術大学(通信・芸術教養学部)2019年度卒業済み。(参考2-1)
・写真の道をさらに探求するため京都芸術大学(通信・写真コース)に2020年度入学して在学中の元塾生(1名)。(参考2-3)
2.遠隔で個別指導を行うCG塾は唯一で他にはなかった。
共同通信社が地方紙へ配信した記事を見て、京都から遠方の新聞購読者(横浜、東京、仙台など)から入塾したいと希望があり、2004年9月から塾生の自宅と京都・西賀茂の塾長とをオンラインで結んだ授業方法を開発し、遠隔でCGを習うことが出来るようにした。(資料4)
塾生と塾長とを一対一で結ぶ方法で、より細かな指導を行うことが出来るようにした。この方法は、その後も水平展開してこのような遠隔地を結んでの授業に活用された。
6. まとめ
八木博司塾長が目指した「八木CG塾」は17年間で24名の塾生を育て、デジタル時代のCGをシニアにパソコンを使って「写真で絵を描く」を実践することを定着させたと言える。このことは塾展や個展の挨拶などによって観客に訴え続けたのである。(資料6、7)
その結果、塾展で数多くの作品を見た観客に大きな感動を与えたのである。このことは京都新聞(2012年9月29日第11回八木CG塾展)やNHKのニュース番組(2007年10月3日第6回塾展)にて報道された。(資料5)
塾生の大多数がシニアであったため、すでに亡くなった方もあるが、93歳で
元気な元塾生が先に述べたように、今も塾長の教えを生かしたCG制作に励んでいる。これらの活動が次世代への橋渡しを必ず果たして、八木塾長の教えはすなわち「写真で絵を描く」ことであり、永遠に引き継がれ生き残っていくものと考える。
参考文献
参考文献
(1)監修=飯沢耕太郎「カラー版 世界写真史」美術出版社、2014年、p.176-179
◎デジタルカメラの進化
フィルムを使わない電子式のカメラとして最初に発表されたのは1981年の「マピカ」(ソニー)だった。だがこのカメラはフロッピー・ディスクに電気信号をアナログ式で記録する「電子スチルカメラ」で、画像も粗く、実用化には程と受かった。
CCDと記録媒体を備えた本格的なデジタルカメラが発売されるのは1991年である。その後デジタルカメラは恐るべきスピードで進化し、約10年でかつては夢と思われていた高画質、低価格を実現した。2000年以降は、400から600万画素クラスの中級機でも、かつての一眼レフカメラ並の性能を発揮するようになり、市場では完全にアナログカメラより優位に立つようになっている。
2000年には、携帯電話にカメラがついた機種が発売された。この「写メール」もまたた<間に普及し、撮影した画像をその場ですぐ送信したり交換したりする、新たなコミュニケーションのスタイルが成立しつつある。[飯沢]
―ホログラフィとデジタルイメージ、新たなメディアへの広がり―
(前段省略)また、もはや現在の写真分野は「デジタルイメージ」抜きには語れないほどになってしまったが、それは1945年のアナログ型コンピュータENIACの誕生に始まる画像生成技術であった。最初はミサイルの弾道計算に用いる軍事目的での開発だったが、やがてそれがNASAの宇宙開発にもつながってさらに劇的な進歩をみせる。80年代以降にデジタル・コンピュータが普及し、アップル社のマッキントッシュやマイクロソフト社のウィンドウズといった機器やアプリケーション・ソフトウェアの普及にともない、パーソナル・コンピュータは、かつての幻燈機のように、私たちの視覚世界に影響を及ぼす重要な映像装置となった。
アトムからビットヘの移行につれて、フィルムをCCD(電荷結合素子)に替え、
銀粒子をピクセルに置き換え、デジタルカメラを採用することで、可能になったスペックは非常に増えた。化学的現像処理が不要で、 直接プリンタにつなげばプリントも自分でできる、パソコン上で加工できる。さらに携帯やウェブといったネット上に配信できる。データの蓄積が容易といった省力化の恩恵もある。高解像度のハイエンド・デジタルカメラでも色ムラ/モアレ/逆光によるフレア/グラデーションのムラなどはまだ多少残るものの、普及型が何100万台と流通し愛用されているという現状は、赤瀬川原平のいう「撮ったものを物に定着するんじゃなくて、数の無限世界に浮かせている」という感覚そのものである。
かつてヘンリー・ピーチ・ロビンソンが「五月の収穫]制作のために見事なコラージュ技法を駆使した軌跡を、私たちは残されたプロセスのプリントから知ることができるが、もはや写真コラージュのために実際に鋏を使うことは少ない。イメージをオペレーションすることで、デペイズマンも容易になった。デュコ=デュ::オーロンが早期に展開したゼラチン・シルバー・プリントによるディストーションの試みも、デジタルなアナモルフォーズとして誰もが追体験できる《7-26》。エイジングに伴うフェイスリフトならぬデジタル・リフティングも可能であり、日本で人気ミュージシャンや、アーティスト、女優の肖像写真、アノニマスな若者の姿をとらえ続ける三橋純が試みるように、極限まで人体のノイズを消し去ったCGガールも出現させることができる。森村泰昌が90年代に展開したイメージの変容や、やなぎみわが現在も生み出し続ける非在の風景も、こうしたデジタルな環境を背景としている《7-27》。
-メディアアートとの結び付き―視覚メディアの未来へ一
このように写真は「真」を写さなくなったが、現代の日本には、小型化しパーソナル化したカメラによって生み出された多数のストレート・フォトやストリート・スナップが、作品として、またはアノニマスな画像として、コンビニ雑誌に見るような日常の中に氾濫している。若い読者たちはそれらを受け入れ、写真によってカリスマ店員などのファッション・リーダーをチェックし、模倣し消費していくのである。先ごろ、長島有里枝・蛯川実花・HIROMIXという年若い写真家が2000年度の木村伊兵衛賞を同時受賞するという快挙が報道された。センセーショナルなヌード表現も含む、ジェンダーを超える映像表現という流れの直中にあって、彼女たちの視覚表現は「ガーリー・フォト」という甘い響きとは対極に、硬質な輝きを放っている。
その一方で、受容側にとって都合のよい要素のみを満載できるデジタル・クリーチャーとしてのバーチャルアイドルが、人間なみに肖像権を主張しはじめた反面、昔ながらの紙媒体による「写真集」を出版することや、知覚を総動員する複合現実感(ミクストリアリティ)の世界でもいまだに二次元の「写真的リアリティー」が採用されている事実は象徴的である。インタラクティヴ全盛のメディアアート表現の中にも、ハンガリーのタマシュ・ヴァリッキーが展開する[FocusⅡ] 《7-28》のように、シンプルでオーソドックスな写真イメージを用い、被写界深度とパーソナルな人間関係とを美しくリンクさせた静謐な作品もある。このインスタレーションでは、体験者がタプレットで自在に画面に触れると、家族/仕事仲間/友人といったパーソナルな関係を持つ特定のグループに同時にフォーカスが合い、作家の想いが瞬時に浮き彫りにされるのである。写真・映画以前の映像装置によるイメージ生成の瞬間へのオマージュをもとに制作を続け、国内外で高く評価される岩井俊雄のような現代作家もいる。
ますます多様化し細分化する写真イメージは、思わぬ形で私たちの日常の中に入り込んでいる。街角で手軽に撮影できてシール・プリントが作れる「プリクラ」は、アノニマスな若者同士のコミュニケーションツールとしても大量に流通し、連写やアーティストのカスタマイズ版、全身サイズ版、3D版、レンチキュラー・アニメ版などヴァリエーションも尽きない。これはヨーロッパの名剌判写真や明治の印紙写真にも遡る、写真が本来持っていたメディアとしての機能を今様にリヴァイヴァルしたものであった。さらに近年では、カメラ付き携帯での画像配信によって、紙媒体でない写真イメージが無数に空間を飛び交っているのである。
多様な映像テクノロジーが模索され、無限に拡張するかにみえる今日においても、カメラ・オプスクラが持つ、開の中に外界のイメージをとらえるという役割は普遍的である。建築の外壁そのものをスクリーンに展開されるケン&リシャールの巨大な幻燈芝居《7-29》、サンフランシスコの海岸にある老人ホームの庭に今も残るカメラ・オプスクラ、アトランタやハーグの地に現存する巨大なサイクロラマやパノラマ館―映像メディア教育が必修化される今日、それらが映し出す写真的イメージをどう展開させていくか、そして「写真」をどのようにとらえ問い直していくか、それが新世紀を生きる私たちに与えられた課題である。
(2)聞き取り調査
(2-1) 藤田多朗 2022年4月21日 メ―ルにて実施
私が八木CG塾に入塾したきっかけと京都造形大学に入学することになった経緯
私が八木博司先生にコンピューターグラフィックスを教えてもらう事となったのは
母親が知恩院に八木先生の個展を見に行っていったことがきっかけであった。
もともと親戚筋が知恩院とかかわりがあった為、母親も八木先生の個展が目に入ったのだと思う。母親が個展を見に行って「教えてもらう事は可能か」と尋ねたことがことのはじまりであった。おそらくそれは私に習わしたかったのだと思う。当時の私は、心が少しふさぎ込んでいて何とかしたかったのだと思う。それまでの私はダイビングやトライアスロンに出場するなど結構活発であったが、何かのきっかけで心が塞ぎがちとなっていったのだ。ダイビングでは簡単な水中撮影を行うなどしていた為、是非に私に習わせたいと考えたのだと思う。その事がきっかけで八木CG塾の教えを乞う事となったのである。そして私は毎年行われるグループ展に加え個展を行うまでになった。それから月日がながれ八木先生が胃癌の為、逝去された。当時の私はまだまだ教えてほしい事が山の様にあった様に思うがこれが転機となり、既に入学されていたCG塾でもお世話になっている岡本陽さんの後を追って京都造形芸術大学の通信学部へ入学する事となった。先生が亡くなられたとき、今後はどうしようといった迷いもあったが、以前にも考えていた大学卒業への道にチャレンジすることが新たな目標となった。二年で卒業を目指して修了し、その間に、当時、八木先生に教えてもらっていたコラージュ技法による個展をやりなさいと言われた約束も果たせて今に至っている。入学当初は先輩である岡本陽さんに色々とアドバイスを頂き、気が付けば私の方が先に卒業する運びとなってしまいました。なぜなら二年間はその事を中心に生活をしてきたことが早い卒業へとつながった。この事をきっかけにアートに対して深く考えるようになり、またアート以外でも様々な事にチャレンジしたいと思えるようになった。
CGと出会えたこと、また大学への学びは私の自信となった。 藤田多朗
(2-2) 井上久一 2022年7月11日 電話(Skypeを使用)にて実施(主旨のみ記載する)
「パソコンを使った作品づくりの指導者は大阪近辺には見つけることは出来ず、八木博司氏に指導を仰いだ。」
「パソコンで作品をつくることが生きがいである。」
(2-3) 八木勝己 2022年3月27日メールにて実施
八木CG塾について
①八木塾への入塾した時の気持ち、動機
②亡くなられた時の将来・未来について
私が八木CG塾について知ったのは、ネットで「CG」で検索をかけた時に出てきたのがきっかけとなりました。その後塾展を2年連続で拝見させてもらいました。塾展では、八木博先生の仏像を元に作成された作品が圧倒的な輝きと奥深さに感銘を受けたことがいまだに記憶に残っています。その展示会では、岡本先生に展示作品の説明を受け、こんなことができるんだと感心させられました。さらにWeb講習会があることを知らされ、自分でもいろいろなことができるのではと印象を受けて参加するようになりました。
それまでは写真展、美術館というものに無縁で仕事の関連しか頭になかった時代でした。写真経験は、中学、高校時代のフィルムカメラの経験があるぐらいでありました、カメラも30年ぐらい前に買ったものがほこりをかぶり、レンズもカビていました。そんな私を写真、美術というものに気持ちを傾けるきっかけになったのが塾展でした。
また、八木スタジオでのスクーリングでは、先生に顔写真を撮影してもらった時にスタジオというものをはじめて見ました。その時の先生の人柄、優しさ、笑った顔、プロとしての写真家に感動したことを鮮明に記憶にあります。
先生にはデジタルカメラのなんぞやの説明を受けたり、ピントの合っていない写真は、ダメだと多くの話を聞かされました。また、仕事柄X線を利用した写真集を見せられ何か作品ができないか考えてと言われたことがいまだに頭の片隅に残っています。
亡くなられた時の印象としては、入院されてからが非常に早かったのが記憶にあります。その時に思ったのは、デジタルの写真について原理的なことは仕事で理解していたのですが、カメラ・写真について先生に説明を受けたことが多く残っています。しかしまだまだこれから多くの現象・プロから見た写真について教えを受けて自分の世界を広げることができなく残念に思ったことが昨日のように思い起こされます。
そこで、仕事も定年に達する中で医療とは全く違う世界の趣味を広げて自己を成長させたいと考えました。その時に思いついたのは、センスの無い自分でも先生の仏像の作品を思い出し、また雲の展示会の作品群を思い出し、自分世界の写真を作れればと思い、写真に向き合って深く探りを入れてみたくなりました。その結果京都造形大通信学部美術科写真コースに進み、現在に至っています。 2022.3.27八木 勝己
(3)その他
資料1
資料1-1
「八木博司プロフィール」は第16回八木CG塾展にてパネル展示されたものを筆者が撮影したものである。(2017年10月4日開催)
資料1-2
「最初の4人の塾生」はホームページ「八木博司の世界」
https://sekai.okamoto-akira.com/school/school.htmlから転載したものである。
資料1-3
「八木博司個展「仏教回廊」作品」は八木博司が1999年4月と2000年4月に知恩院の和順会館で開催した時の作品をホームページ「八木博司の世界」https://sekai.okamoto-akira.com/pt_buddha/gallery_01.htmlから転載し、筆者が編集したものである。
資料1-4
「八木CG塾の歴史」は第16回八木CG塾展の展示パネルを筆者が撮影したものである。
資料2
資料2-1
「八木CG塾テキスト(A4版16頁)」は筆者が所有していたものを撮影したものである。
資料2-2
「課題集(CDに収録)」は筆者が所有しているものを撮影したものである。
資料3
資料3-1
「八木CG塾展 案内状集」は第16回八木CG塾展にてパネル展示されたものを筆者が撮影したものである。(2017年10月4日開催)
資料3-2
「CGで自己表現のお年寄り」(2004年9月8日京都新聞掲載)は共同通信が第3回八木CG塾展(2004年7月28日から8月10日まで開催)の後、八木CG塾を取材し、全国の地方紙に配信したものである。この記事により、大きな反響があり、遠隔授業が開発されるきっかけとなったものである。
資料4
「八木塾展出品者一覧」は第16回八木CG塾展(2017年10月4日から10日まで開催)にてパネル展示されたものを筆者が撮影したもの。さらに、2022年8月17日に物故者を修正したものである。
資料5
資料5-1
「祭りや風景 CGで表現」(2012年9月29日京都新聞掲載)は京都新聞が第11回八木CG塾展(2012年9月26日から10月2日まで開催)の開催会場にて取材して、掲載したものである。
資料5-2
「NHK京都放送局長宛ての礼状」は第6回八木CG塾展(2007年10月3日から9日まで開催)の開催状況を10月3日の初日夕方のニュース番組(京都地方版)、9時前のニュース番組(関西地方版)さらに、7日ラジオ放送で取り上げたことに対する礼状である。
ラジオ放送を聴いて徳島市から来場者もあり、前回の来場者の497名から576名と大幅に増加した。これらのことに対して礼状を送ったのである。筆者が広報を担当していたため、この令状が残っていたものである。放送の内容は残念ながら残っていなかった。
資料6
資料6-1
「CGで制作・自己表現することの楽しさを味わってください」(八木CG塾 塾長 八木博司)はホームページ「八木CG塾」から転載したもので第16回八木CG塾展にパネル展示されたものを筆者が撮影したものである。
資料6-2
八木博司写真展『写真を描く』」は2015年6月3日から9日までぎゃらりぃ西利において開催された。この事前告知としてデジカメWatchのホームページに掲載されたものを転載したものである。
https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/exhibition/701845.html
資料7
「第1回八木CG塾展 御挨拶」は2002年8月8日に筆者が撮影。
「第6回八木CG塾展 御挨拶」は2007年10月5日に筆者が撮影。
「第11回八木CG塾展 御挨拶」は2012年9月29日に筆者が撮影。
「第12回八木CG塾展 御挨拶」は2013年9月27日に筆者が撮影。
「第15回八木CG塾展 御挨拶」は2016年10月8日に筆者が撮影。
それぞれに八木塾長の思いのこもった挨拶が書かれている。
資料8
「八木CG塾生の受賞・入選作品」は第16回八木CG塾展に展示されたパネルを筆者が撮影したものである。
WEB最終閲覧日はいずれも2022年12月2日