岡崎市が生んだ「味噌六太鼓」
1:はじめに
「味噌六太鼓」(図1)とは、岡崎市で製造される「八丁味噌」を仕込む木桶を用いて作られた大太鼓(桶胴太鼓)(図4-1)である。桶胴に用いられる古材は150年以上も味噌仕込みに利用された杉材であり、味噌の香りがしみこんでいる。
本稿では「味噌六太鼓」の文化遺産的価値について述べる。
2:基本データ
太鼓形式:桶胴太鼓
桶胴材:八丁味噌仕込み桶の底板を再利用
2017年6月1号機完成。2018年2号機、2019年3号機が完成。
3:歴史的背景
・徳川家ゆかりのまち
岡崎市は徳川家康生誕の地であり、岡崎城や大樹寺に代表される史跡がある。
大樹寺は徳川氏の菩提寺で、家康から14代家茂までの等身大の位牌がおさめられており、3代将軍徳川家光により改築された。現在も残る家光建立の三門は、家光の指示「本堂から三門をとおし、岡崎城の天守閣が見えるようにせよ。」を守り、現在でも岡崎城天守閣が望める。この間約3km。このラインをビスタライン(図2-1、2、3)と名づけ、現在岡崎市条例によりこの眺望をさえぎる高層建築は許可されない。観光資源としての景観を保っている。
・瀧山寺
瀧山寺は天武天皇の頃、役小角が瀧から薬師如来を見つけて安置した伝説からおこった。平安の終わりには熱田神宮の宮司一族が住職となり、源頼朝と従兄弟であった関係から頼朝の庇護を受け、逝去の際には頼朝を祀るため、運慶に等身大《聖観音菩薩立像》(註1)を造らせ、胎内に頼朝の歯と鬢を収めたと伝えられる。また「鬼祭り(火祭り)」という巨大たいまつを振り回す奇祭が、頼朝の霊を慰めるために始まった。室町時代に下火になるが、徳川家光が復活させ、国家の安寧を祈る幕府行事、徳川家の祭祀として執り行うように命じた。この時家光は瀧山東照宮も建立している(図2-4、5)。
よって現在でも瀧山寺鬼祭りは徳川家の主催行事で、平成28年には徳川18代宗家当主徳川恒孝氏が来臨された(図7-1)。
この由緒ある瀧山寺の境内を借りて、味噌六太鼓は製作され、同時に家光縁の徳川宗家の葵のご紋を味噌六太鼓に戴くことになった。
・八丁味噌
「八丁味噌」とは、愛知県岡崎市で製造される豆味噌である。
味噌は醤油と同源で古墳時代に発生し、「味噌」という名称は平安時代に現れる(図3-1)。当時は貴族しか食せない超高級品であり、くしくも絹織物と同時期にもたらされ、平安貴族に愛でられた。その後室町期に至って、農家が自家製造するようになり、庶民の口に入るようになった。
味噌には「米味噌」「麦味噌」「豆味噌」があり(図3-2)、八丁味噌は豆味噌である。味噌の由来には大陸渡来説や日本発生説等あるが、豆味噌だけは、大陸からの渡来だとされる(註2)。三河の地は大豆栽培が盛んであり、吉良地方の塩田があったため、味噌製造が根付いた。戦国時代には、徳川家康が戦闘食として愛用した。すなわち、岡崎の地には1337年に「まるや」1560年に「カクキュー」という二軒の老舗味噌業者が創業し(図3-2、3)、この二軒は切磋琢磨し現在に至る。この二軒が「岡崎城から八丁の距離」にあるため、「八丁味噌」と呼ばれるようになった。
岡崎の食文化を代表する味噌桶を材料に、味噌六太鼓はつくられた。
4:味噌六太鼓誕生の経緯
味噌六太鼓は、三浦太鼓店六代目彌市氏、たった一人によって始められた。
岡崎市では瀧山寺、伊賀八幡宮等の祭りが古くから有名である。市民の「夏祭り」は「花火大会」に付随して行政が細々と運営しており、7年前に中止宣言されたが、有志が署名活動を行い、民間委託として継続可能になった。有志の中に六代目彌市氏がいた。六代目は月並みなイベントではなく、文化的に後世に残るものにしたいとの思いが強かった。
この時、六代目は地方で見た豪壮に太鼓台を担ぐ祭りを思い出し、あわせて、懇意の八丁味噌蔵の廃棄桶を思い出した。「八丁味噌の仕込桶で大太鼓を造ればどうだろう」
これが味噌六太鼓誕生の瞬間であった(図4-2、3、4)。
5:味噌六太鼓の意義
・和太鼓の盛衰(図4-1)
三浦太鼓店創業は慶応元年(図5-1)。明治時代は太鼓需要も多かった。主力は神社仏閣の長胴太鼓である。だが、時代とともに需要は減少し、三浦太鼓店も存亡の危機にあったが、近年、和太鼓に変化が起きた。演奏の舞台化、パーソナルユース化、IT化である。
和太鼓演奏を行う集団が現れ、魅力をアピールし、人気を得るようになった。六代目も自ら「和太鼓零~ZERO~」を率いている。
また、従来の長胴太鼓は無垢の木をくりぬくため、コストが高いうえ重量が重くハンドリングしにくい。六代目は桶胴太鼓に着目した。桶胴太鼓は胴が桶構造であり、軽く、コストが安い。これにより個人購入の「マイ太鼓」を可能にした。「個性」を重視し、女性向けも含めた専用デザイン太鼓へと発展している(図5-2)。Eコマースの発達に伴って営業業績も向上している。
三浦太鼓店の経営安定化が味噌六太鼓製作を可能にした。
・桶胴の内製化
三浦太鼓店の桶胴は、従来秋田の桶職人五十嵐氏に外注していたが、ご高齢で、「マイ太鼓」で大きく伸びた需要に対応出来なくなった。六代目は桶の内製化を決意する。五十嵐氏に製法の伝授をお願いするも拒絶。実はご病気で、一年後には逝去された。
結局、愛知県の桶職人永谷氏より教わったが、道具類が無い。
そこへ故五十嵐氏の妻祐子さんが手を差し伸べ、工房にあった道具類一式をすべて譲渡された(図5-3、4、5)。このようにして「職人魂のバトン」が引き継がれ味噌六太鼓実現につながった。
大きい木桶を製作できる職人は日本にほぼいない現状(註3)において、太鼓の桶胴とはいえ、技術を継承した意義は大きいといえる。
・一般市民の参加による活動の盛り上げ(図6-1、2、3、4)
「味噌六太鼓」プロジェクト最大のカギは、太鼓製作を市民を中心とした一般の人々の協力によって造るということにあった。胴材へのかんな掛け、革張り、革への葵のご紋描き込等の作業に一般市民自らが従事し、そして、桶胴の内側へ記念に自分の名前を書き込むという仕上げをした。岡崎市民の「自分たちの太鼓」となったのである。
・徳川宗家の葵紋(図7-1)
味噌六太鼓に描かれた葵紋は徳川宗家、三代家光までが使用した紋である。味噌六太鼓は家光縁の瀧山寺で製作された。その瀧山寺鬼祭りは徳川宗家の祭りである。味噌六太鼓は徳川宗家の縁につながる証としての「宗家紋」を頂いているのである。徳川縁のまち岡崎の象徴にふさわしい誇らしさである。
・岡崎市の種々の文化の総合的象徴(図7-2)
これまで述べてきたように味噌六太鼓は、八丁味噌、徳川家、瀧山寺等の岡崎の種々文化を総合的に象徴したかのような存在であるといえる。そして2019年「愛知未来創造大賞優秀賞」「中日新聞社賞」をダブル受賞する栄誉に輝いた(図7-4)。
6:比較事例
味噌六太鼓の意義を「地場産業が、その不要物を再利用することによって地域社会へ貢献したこと」と考えると、「西陣の町家再生プロジェクト」(註4)と類似している。空き家が目立った西陣織の織屋建屋を、アーティストたちの工房兼住居、「新しい町家」として再生し、地域の活性化につなげた事例である(図7-3)。
工芸品と建物という相違はあるが、双方の持つ歴史的背景や文化的位置づけは驚くほど似ている(図7-2、3)。八丁味噌も西陣織も古墳時代に大陸から伝来した古い歴史を持つ(図3-1)。かたや徳川宗家と深い関わりを持ち、かたや天皇を頂く古都の歴史を誇る。
だが、天下の古都京都は観光都市としてゆるぎない王者である。西陣の再生町家の集客力も訴求力も巨大である。一地方都市の岡崎市にはまぶしい存在であると言えよう。
西陣の町家再生も、古都京都の持つ歴史文化遺産の総合力の上に乗っている。岡崎市も徳川家による歴史文化遺産の総合力がある。この力をもっと活用する方向を模索することで王者京都に近づけるのではないだろうか。
7:今後の展望とまとめ
味噌六太鼓は岡崎という地域の様々な文化・歴史・伝統を象徴しており、今後も祭り等のイベントで継続的に地域の活性化に資することが可能である点、また消えゆく製桶技術を伝承した点においても、非常に優れた文化遺産だといえる。
20年夏、新生移転した三浦太鼓店に、味噌六太鼓が修理に戻って来た(図8-1、2)。修理し、また祭り等のイベントへ出ていくのが活動の本筋である。
コロナ禍の中、家康公生誕祭(図8-3、4)のようなイベントの復活を待ち望む。
- 1:味噌六太鼓
- 2:ビスタラインと瀧山寺配置図
- 2:ビスタラインと瀧山寺配置図
- 2:ビスタラインと瀧山寺配置図
- 2:ビスタラインと瀧山寺配置図
- 2:ビスタラインと瀧山寺配置図
- 3:八丁味噌について
- 3:八丁味噌について
- 3:八丁味噌について
- 4:味噌六太鼓経緯
- 4:味噌六太鼓経緯
- 4:味噌六太鼓経緯
- 4:味噌六太鼓経緯
- 5:桶の内製化
- 5:桶の内製化
- 5:桶の内製化
- 5:桶の内製化
- 5:桶の内製化
- 6:市民の作業
- 6:市民の作業
- 6:市民の作業
- 6:市民の作業
- 7:葵紋と文化的位置づけ概念図
- 7:葵紋と文化的位置づけ概念図
- 7:葵紋と文化的位置づけ概念図
- 7:葵紋と文化的位置づけ概念図
- 8:新店舗と生誕祭
- 8:新店舗と生誕祭
- 8:新店舗と生誕祭
- 8:新店舗と生誕祭
参考文献
註1:瀧山寺公式HP 《聖観音菩薩立像》 http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
註2:「この豆味噌は、日本で発生したのではなく、大昔に朝鮮半島から高麗人によって
日本にもたらされ、それが東海地区で根を下ろした、ということがほぼ確実」
「高麗人による豆味噌の日本への伝来経路は、日本海から若狭湾の敦賀付近に入り、
そこから陸路近江の余呉、浅井を抜けて関が原から美濃平野に入り、まず飛騨味噌
で発達し、一部は北上して信州の一地区に及んだが大半はそれが三河に広まった。
そして、三河の地は昔から大豆生産が盛んな土地である上に、矢作川河口には吉良塩田
を持っていて、そこでいっそう発展したのであった。」小泉武夫『醤油・味噌・酢はすごい』、中公新書、2016年、103、104頁。
註3:カクキューへのインタビュー:
ヒアリング先:カクキュー企画部:2020年2月10日(月)14:00より電話にて。
「Q:現在、八丁味噌を仕込む新桶はどこで製作しているのか?
A:日本ではほとんど1軒だけになってしまっており、大阪の「藤井製桶所」というところに発注している。」
・藤井製桶所は、加藤薫『桶屋の挑戦』(中公新書、2008年)に主要な桶屋として登場している。
註4:アネモメトリーNo8・9『京都 西陣の町家とものづくり』京都芸術大学
<参考文献>
・アネモメトリーNo8・9『京都 西陣の町家とものづくり』京都芸術大学
・岡崎市教育委員会『瀧山寺日吉山王社総合調査報告Ⅰ 建造物:日吉山王社本殿の調査報告書』2011年。
・小野美枝子(監修)『和太鼓のひみつ』、PHP研究所、2016年。
・片方信也『西陣 織と住のまちづくり考』、つむぎ出版、1995年。
・片方信也『西陣 織のまち・京町家』、つむぎ出版、2007年。
・片方信也編『『歴史的街区』は再生できるのか
-京都・町家の変遷から協調空間の提言へ』、かもがわ出版、2013年。
・加藤薫『桶屋の挑戦』、中公新書、2008年。
・小泉武夫『醤油・味噌・酢はすごい』、中公新書、2016年。
・高尾弘『西陣 織屋の覚書-京都西陣織の系譜と世界の染織』、世界文化社、2015年。
・三浦和也『平成30年度味噌六太鼓実績報告書』岡崎市役所、2018年。
<参考論文>
・成瀬 友美『徳川家康公の故郷で守り継がれた歴史的眺望「ビスタライン」』 、京都造形芸術大学通信教育部芸術教養学科卒業論文、2020年。http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/2267/
・眞野美奈『岡崎の誇り 八丁味噌とカクキュー』、京都造形芸術大学通信教育部芸術教養学科卒業論文、2018年。http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1454/
・山根将午『愛知県岡崎市の伝統食「八丁味噌」~蔵元まるや八丁味噌の取り組み~』、京都造形芸術大学通信教育部芸術教養学科卒業論文、2017年。http://g.kyotoーart.ac.jp/reports/643/
<参考HP>
・岡崎市役所HP :http://www.city.okazaki.lg.jp/index.html :最終閲覧日21年1月7日
・カクキューHP:http://www.kakukyu.jp/company_history.asp:最終閲覧日21年1月7日
・瀧山寺公式HP:http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html:最終閲覧日21年1月7日
・西陣織会館HP:https://nishijin.or.jp/whats-nishijin/history:最終閲覧日21年1月7日
・まるやHP:https://www.8miso.co.jp/company2.html:最終閲覧日21年1月7日
・三浦太鼓店HP:https://taikoya.net/:最終閲覧日21年1月7日
・味噌六HP http://misoroku.com/:最終閲覧日21年1月7日