横浜市都筑区荏田町真福寺の釈迦如来―そのルーツをたどる―
1.荏田真福寺の釈迦如来立像
私の住まいの近く横浜市都筑区荏田町に真福寺という寺があり、ここに安置されている釈迦如来立像が、この地域では唯一の国の重要文化財とういうことを知り、この像を取り上げることにした。少し調べるごとに大変興味深いルーツがあることを知った。ここでは、そのルーツ探索と、美術史上の価値および解析について報告する。
この釈迦如来立像は、年2回、釈迦の誕生日(4月8日)とお盆の一日(8月17日)に公開され地域の多くの人々が訪れ、地域信仰の対象となっている(図1)。この像は全高162cm、榧(かや)の寄木造で鎌倉時代に作られたものと推定されるが、作年・作者は不詳である。清凉寺式釈迦如来像(以下清凉寺式像)の一つで、京都の清凉寺釈迦如来像(以下清凉寺本尊)が数多く摸刻され、全国に散らばったもののひとつであることを、同寺海野住職に伺った。現存する清凉寺式像は、70体が確認されている。その様式の特徴は、(1)頭髪が縄状である(縄状頭髪)、(2)他様式の釈迦如来立像が胸をはだけているのに対し、肩まで着衣している(通肩)、(3)着衣の衣紋は同心円状に細かく彫刻されている(同心衣紋)などである。
2.京都清凉寺の釈迦如来のルーツ
そこで私は、そのルーツをたどるべく、京都の清凉寺に足を運んだ。清凉寺本尊を図2に示す。清凉寺住職よりその由来を伺うことができた。清凉寺本尊は、奈良東大寺の高僧、奝然(ちょうねん)がインドから中国に伝わった生身(しょうじん)釈迦如来像を模刻させ中国から持ち帰ったものである。この10世紀は、京都を中心に、最澄の天台宗、空海の真言宗、という二大密教が隆盛を極め、彼の南都仏教は衰退を強いられていた。奝然は、この南都仏教の失地回復の思いを秘め、894年の遣唐使廃止以来、ほとんど行き来のなかった中国へ渡り、983年、当時建国されたばかりの宋に入った。
奝然は、宋の太宗皇帝への謁見を許され、当時宮中のあった、「優填王(うてんおう)所造栴檀(せんだん)釈迦瑞像」(以下、栴檀瑞像)を見ることができた。これは、釈迦が生前、母、麻耶夫人のために上界で法を説いていた時に、当時のインドの国王優填王が、釈迦の魂の不在を嘆き、仏師に生身像を造らせたものが中国に伝来したという。
実際には、釈迦の入滅後は、偶像崇拝という概念がなく初めて仏像が造られたのは、入滅後数百年が経過した紀元1世紀後半頃と言われているため、この話はあくまで伝説と思われる。この栴檀瑞像は、義和団事件(1900年)の戦火に消失したが、1597年に書かれた「栴檀瑞像来儀記」にその絵が描かれており、清凉寺本尊が本像を忠実に模刻したものと考えられている。両像の特徴は前述の三つの特徴を有しガンダーラ仏、後のグプタ仏(図3)にも相通じるものがある。
大乗仏教は、インドから西域を経て、紀元前2世紀ころ前漢時代に伝わったと言われているが、ガンダーラ仏の影響を受けた栴檀瑞像が239年に中央アジアのキジュール(亀茲)を経て、376年に長安に持ち込まれたとの記録がある。その後、1700年間、生身仏として重宝され、時の支配者が崇め、各所を転々することになる。その間、宋が起こり、本像が宋の首都である開封に至った時に奝然と遭遇するわけである。奝然が台州にて中国の二人の仏師(張延皎、張延襲)に、栴檀瑞像の模刻像を造らせ、986年に日本に持ち帰ったのが、現在の清凉寺本尊である。
3.生身仏の崇拝と模刻像の展開
奝然の没後に、五台山清凉寺が建立され、模刻像が本尊として迎え入れられた。栴檀瑞像が時の権力者の所有物となり中国各地を転々としたのと対照的に、清凉寺本尊は、所を変えず庶民の信仰の対象の生身仏として現在まで崇められ続けている。これを日本の別の場所でも共有できるように、清凉寺本尊の模刻像が、各地に広まった。
最も古いものが、平安時代の1089年に造立された、京都の三宝戸寺のものである。鎌倉時代に入ると、まず1188年に延暦寺、1193年に鎌倉杉本寺(現東京大円寺の本尊)にそれぞれの模刻像が配置された。その後、真言律宗の派閥が、この清凉寺本尊に着目し、1249年、西大寺に模刻像を安置する。その中心となった人物が、叡尊(えいそん)である。叡尊は、西大寺木工所の仏師、善慶(1197~1258)と組み、真言律宗の布教を目論んで釈迦如来の模刻を進めた。金沢北条氏は、この叡尊とつながりがあったため、鎌倉にも真言律宗の展開があった。
その例が、1297年の極楽寺像(善慶の子、善春の作とされる)、1309年の金沢称名寺像で、いずれも真言律宗の寺である。同じ神奈川県の真福寺も真言律宗であることから、像造立は、この時期と推定されている。
神奈川県文化財図鑑によると、神奈川県の清凉寺式像は、極楽寺、称名寺、真福寺の三体が確認されている。真福寺像は、極楽寺像、称名寺像の二体に比べ、作風が異なり、むしろ最も原像に近い模刻像であると評価されている(図4)。私もこの三体を見比べたが、顔の表情、衣紋の美しさ、全体のバランス、どれをとっても清凉寺の物に近く、その美術的な価値も高いと判断した。
4.模刻像の生身仏としての画像比較解析評価
現在、清凉寺式像は全国に70体ほどが確認されている。このうち造形的に価値が高いと評価された19体については、国の重要文化財に指定されている。前述の三宝戸寺、延暦寺、大円寺(杉本寺)、西大寺、極楽寺、称名寺、真福寺のものはいずれもこれに含まれる。
模刻像としては、信仰の対象としての価値を高めるために清凉寺のものをどれだけ忠実に再現しているかが問われる。19体いずれもが、清凉寺式の特徴である(1)波状頭髪、(2)通肩、(3)同心衣紋を有していることを確認した。残るは清凉寺本尊の身長や頭身、プロポーションをどれぐらい正確に再現しているかだ。これについて画像比較解析することにした。
評価したのは、(1)身長、(2)頭身、(3)身長/肩幅、(4)肩幅/頭部幅、(5)頭部長/頭部幅で、それぞれを仏画像より計測し、清凉寺本尊の値の比率を模刻度として指数化した。本尊に近ければ近いほど、1に近い指数になるようにした。最後にこの5つの指数をすべて掛け合わせて総合的な模刻度として評価した。
模刻度の比較表(表1)とその結果を図5に示す。真福寺像は、像の身長、各プロポーションなどが、清凉寺本尊と酷似していることがわかる。
また、国の重要文化財の19体以外にも全国に散らばる清凉寺式釈像の画像を集め、清凉寺式とその他の仏像の画像の深層学習(AI技術の一つ)による比較解析を行った結果、真福寺像は、99.5%の確率で清凉寺式と一致することがわかった(図6)。
5.まとめ―真福寺釈迦如来のルーツと今後の美術品評価の展望について―
以上、述べたように、真福寺像の日本のルーツは、清凉寺本尊であり、さらに栴檀瑞像にそのルーツがあった。美術史上も遠くガンダーラ仏の美術様式を継承し、伝説部分を切り離しても、1800年近くの歴史を持つ永年の至宝であることがわかった。清凉寺本尊を模した生身仏信仰の対象として、この地での役割を十分発揮してきたことが推察される。さらに、作者は不詳であるが、かなりレベルの高い鎌倉の仏師によるもので鎌倉彫刻の写実度の高さを発揮している作品と考えられ、美術品としての評価も高い。
今回経験した地元の文化財を探る研究は、現在の点を過去の点と結びつけるとともに、空間の広がりをも調べ、その線が面となり、鑑賞者にとっての文化財の価値を引き上げることを強く実感できた。また、今回試みたAIツールもその研究の一助になる可能性もある。多くの鑑賞者が、その地域の文化財の価値を知り、価値を高め、次世代に繋げる活動が、これから重要で持続可能なものになるだろう。以上の展望を以て卒業研究の結びにしたい。
参考文献
佐々木剛三:「清凉寺」、中央公論美術出版、2013年
今井浄圓ほか:「知っておきたい仏像と仏教」、宝島社、2017年
藤原崇人:「栴檀瑞像の座す都」、
(http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/18107/1/5_3-17.pdf)
戸倉栄太郎:「都筑の丘に拾う」、さつき、1955年
猪川和子「東国の清涼寺式釈迦如来像」『日本古彫刻史論』講談社、1975年
神奈川県教育委員会「神奈川県文化財図鑑 彫刻篇」、1975年
金子典正編「朝鮮半島・西アジア・中央アジア・インド アジアの芸術史 造形篇II」、芸術学舎、2013年
ヴィディア・デヘージア著「岩波 世界の美術 インド美術」、岩波書店、2002年
長岡龍作著、「日本の仏像」、 中公新書、1988年
文化庁監修:「重要文化財1 彫刻Ⅰ」、毎日新聞社、1972年
柴田良一著:「はじめてのSonyNNC」、工学社、2019年
図1(https://www.townnews.co.jp/0101/2014/04/24/233920.html)
図2(https://www.cyber-world.jp.net/seiryouji_syakanyorairyuzou/)
図3(http://yukkyworld.info/?attachment_id=3508)
図4(https://aobamuseum.city.yokohama.lg.jp/)
図4(https://twitter.com/narahaku_pr/status/760996398527606784?lang=el)
図4(http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-3256.html)
表1、図5、図6筆者作成