水彩画家丸山晩霞の作風の変化と「荒廃した絵」の再評価

花岡 菖

1. 序論;時代背景と基本データ
明治以降,日本に西洋文化が急速に流入した.この時期に活躍した水彩画家丸山晩霞(1867-1942)は西洋文化の影響を受けながら,日本水彩洋画に発展に尽力した人物である.晩霞の作風は青年期の精緻な風景画から屏風絵,晩年期の掛軸に至るまで作風が大きく変化している.そこで本稿では晩霞の作風の変化,および日本水彩洋画への貢献の2点について考察する.
本研究の底本は陰里(著)(1989),佐藤(編)(2012),および信濃毎日新聞社開発局出版部(編)(1977)の3冊である.また主要現地調査先は丸山晩霞記念館,藤村記念館,小諸義塾記念館,晩霞親族(小諸市在住)である.

2. 本論;作風の変化とその評価
(1)晩霞を巡る人物像(注1)
明治初期の行き過ぎた西洋化に対抗して,日本の古美術復興運動が盛んになり,1887年に東京美術学校が設立された.一方,国粋保存主義に押された洋画は一時不振に陥ったが,1889年に浅井忠(1855-1907)らが最初の洋画団体として明治美術会(太平洋画会の前身)を組織した(元木,2014.pp.378-379).この頃晩霞は23歳,彰技堂(東京)で本多錦吉郎(1851-1921)に師事していた.
明治後期に至り大下藤次郎(1870-1911),三宅克巳(1874-1954),晩霞らの活躍により水彩画が急速に普及したが,その背景には「文学との関係,学校教育との関係,生活水準の向上,自然(風景)観の変化,あるいは交通網の発達など,美術史の枠を超えた複雑な要因」が絡んでいる(長野県信濃美術館,1998.pp.5-6).
晩霞の生涯に大きな影響を与えた三大要因は,群馬県での吉田博(1877-1907)の出会い,小諸義塾時代の木村熊二(1845-1927),島崎藤村(1872-1921)らとの知己を得たこと,および渡米中に作品販売で大成功を収めたことである.
晩霞28歳のとき9歳下の吉田と出会った.晩霞は吉田の緻密な絵に魅了され,意気投合,共に日本アルプス,飛騨を跋渉していた(陰里,1989,pp.39-40).この頃,晩霞はきわめて繊細緻密な絵を描いていた.大下,三宅,石井柏亭(1882-1953),藤村らの評価も高かった.晩霞の弟子である小山周次(1885-1967)は「三宅の重厚な自然観察と藤村の自然主義文学が田園画家としての晩霞に多大な影響をもたらしている」と指摘している(並木,1990,pp.118-119).
晩霞は34歳のときにワシントンで展示会を開催した.現地で晩霞が描いた椿や紫陽花の絵が大好評で,大量の作品を制作し頒布した.その結果,晩霞は経済的にも大いに潤った.これを契機に晩霞の作風は西洋草花に傾倒していった.三宅らはこの晩霞の作風の変化を嘆いた(並木,1990,p.119).その結果晩霞は次第に吉田や大下の画風とは異なる方向に向かっていった. 小山はこの時期の晩霞の作風が「荒廃していて,多作のお土産的な絵には感服できない」と評している(並木1990,p.128).
(2)晩霞の作風の変化とその評価(注2)
晩霞の画風の変化は吉田や大下らの影響を受けた初期作品(補足資料3),欧米旅行以後の中期作品(補足資料4),および50歳以降の掛軸や屏風に表装された「和製水彩」(補足資料5,6,7)に大別することができる.
初期作品の例として30歳頃の作品『上の滝』および『湯原風景1』(1897年)を取り上げる.この頃は吉田と蜜月の時代である.吉田が同時期に画いた作品『山村(兄弟)』および『朝霧』と比較してみよう.両者の作品は何れも精緻かつ繊細な写生画であり,二人が共感し互いに影響し合っていたことが推察される.陰里(1989,p.40)も「吉田の精緻な描写と三宅の画法が晩霞を驚嘆させた.また晩霞自身も吉田,大下と知己を得たことを大いに喜んだ」と分析している.
欧米旅行以降の晩霞の作品は,小山が「荒廃した」と評した土産品的な作品が数多くあるが,その一方で,太平洋画会や日本水彩画会創立に貢献したことから明らかなように,生来の精緻な作品も多く残している.補足資料4で晩霞本来の作風で画かれた4作品を例示した.『初冬の朝』は34歳.『布引の懸崖』は35歳,『高原の秋草』は38歳,そして『ユングフラウ山』は44歳の時の作品である.陰里(1989,図録14)はユングフラウ山の絵に対して「(晩霞の)欧米作には確かに土産絵的なものもあったに相違ないが,作者が本来の好んだ画因に接したときには,(たとえ欧米での作品であっても)画面がどこか充実感をもっている」と評している.この時期.晩霞は太平洋画会や日本水彩画会の設立,雑誌『俳画と俳句』の創刊に寄与するなど,社会的な活動も精力的に行っている.
後期の晩霞の作品について,石井(1977,pp.140-141)は「晩霞が日本アルプスのお花畑や石楠花を画くことに執心したが,植物学的趣味と画的趣味が混在してしまい,晩年に至るに従い次第に特性描写に欠けるようになった」と手厳しい.石井によれば「晩霞の作品が最も円熟していたのは晩霞が40歳前後の頃,つまり晩霞が「故郷の土に親しんでいた」時代」であると指摘する.一方,陰里(1989,pp.37-42)は「後期の晩霞が精緻な田園風景から世界の風景へ」移行したと評している. 『湯原風景』は晩霞38歳の作品で,精緻な作風が遺憾なく発揮されている.次の『千葉万紅の図』は晩霞50歳の作品だが,この作品から石井の指摘が正鵠を得ていることが分かる.『隅田河畔の猛火』は晩霞56歳の作品である.こちらは大胆でやや乱暴な筆致で画かれているが,これらが晩霞の評価が定まらない一因であることは否めない.
補足資料6は晩霞晩年の「荒廃した絵」の例である.石井は「いかにも手慣れている作品だ」と厳しい.一方,補足資料7の『信濃の山河』は晩霞末期の傑作である.陰里(1989.p.36)は「信州風景の情感表現で抜きんでていて,平地の畑の一枚一枚にも作者の愛情が塗り込まれている」とこの絵を評価した.

3.結論;晩霞の活動要因と「荒廃した絵」の再評価
晩霞は実に多方面にわたって活躍した人物である.晩霞の活躍を可能にした誘因は,第1に晩霞本人の人柄にある.晩霞自身も自書で「絵画には新旧派があるがどうでもいい,要は自然に師し,伝統と模倣を避け,新しい道を開拓せよ」と主張する(晩霞,1922,pp.1-2).並木も晩霞が「負けず嫌いで自説を貫く」人物だと評している(並木,1990,p.119).第2は,晩霞特有のセレンディピティ(注3)により,吉田,大下,三宅,藤村などと互いに啓蒙し合ったことである.第3は,ワシントン展示会の成功による経済的なゆとりである.第4は交通手段の発達により容易に海外旅行が可能になったことである.晩霞の生涯と作品は,これらの4要因の相乗効果により形成されたと言えよう.
晩霞の残した主要業績は,第1に太平洋美術会,日本水彩画会の設立や,日本水彩画の発展と後進の指導育成に尽力し,その国際化に寄与したことである.第2に故郷の東信州地区で,晩霞の影響を受けた水彩画団体や愛好者が現在も活発に活動していることである.
晩霞の作品には「荒廃した絵」も多いが,一般庶民はこれらの「荒廃した絵」に共感し絵心が啓発された.また晩霞自身も「荒廃した絵」によって経済的基盤を確立(注4)したので,積極的な社会的活動や後進の育成が可能になった.このことから「荒廃した絵」こそ,晩霞のセレンディピティを高め,水彩画家として成功した最大の要因と言えよう.このことから,今後の研究課題は「荒廃した絵」の再評価にある(注5).

  • 1_%e8%a3%9c%e8%b6%b3%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%91%ef%bc%9b%e4%b8%b8%e5%b1%b1%e6%99%a9%e9%9c%9e%e3%81%a8%e9%96%a2%e4%bf%82%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%8b%e4%ba%ba%e7%89%a9%e4%b8%80%e8%a6%a7_page-0001 補足資料1;丸山晩霞関連の主要人物および団体(50音順)
  • 1_%e8%a3%9c%e8%b6%b3%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%91%ef%bc%9b%e4%b8%b8%e5%b1%b1%e6%99%a9%e9%9c%9e%e3%81%a8%e9%96%a2%e4%bf%82%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%8b%e4%ba%ba%e7%89%a9%e4%b8%80%e8%a6%a7_page-0002 補足資料1;丸山晩霞関連の主要人物および団体(50音順)
  • 2_%e8%a3%9c%e8%b6%b3%e8%b3%87%e6%96%992%ef%bc%9b%e4%b8%b8%e5%b1%b1%e6%99%a9%e9%9c%9e%e7%95%a5%e6%ad%b4_page-0001 補足資料2;丸山晩霞の略歴
  • 補足資料3~7 非掲載

参考文献

注および参考文献・資料
(1) 本研究に関連する晩霞の経歴は補足資料(1)でまとめた.
 なお,本文を記すにあたり,課題に示された5点を意識して,各所に入れ込んでいる.
(2)実地調査実施日と調査先は次の通りである.
 2015/8/26 丸山晩霞記念館現地調査(第1回);学芸員佐藤聡史氏
 20127/11/11      〃     (第2回);   〃
 2018/11/4       〃     (第3回);一般見学
 2019/3/21 藤村記念館・小諸義塾記念館・小山敬三美術館(小諸市懐古園)
 2019/11/18 満福寺欄間絵見学(鎌倉市)
(3)セレンディピティ(Serendipity);予期せぬ幸運に巡り合う能力のこと.求められていない,意図的でない,思いもよらない,幸運な,偶発的に起こった出来事や経験に出会う才のこと.(参考URL; https://gimon-sukkiri.jp/serendipity/)
(4)市川(1992,pp.34-35)によれば,当時晩霞は「先妻の子2人,後妻の子5人,合計7人の子供,書生3人,妻とあわせて14人の口」を養っていた.市川葉は晩霞先妻くに江の長女(晩霞の孫)
(5)本稿では論じなかったが,晩霞の作品の評価が定まらない理由のひとつに贋作がきわめて多いことがあげられる.それだけ晩霞の絵は人気があったという証拠だろう.市川(1992,p.41)は,贋作が多い理由として,挽歌晩年の作品には「単純な線の運びと.淡い色づかいが簡単に真似できるもの」が多い.しかし「偽物には筆の運びに迷いがある.早さがない.そして豪放さに欠ける」と指摘している.

参考文献
市川葉(著)『私の晩霞』花神社,1992年
石井泊亭(著)「丸山晩霞の芸術」『丸山晩霞画集』信濃毎日新聞社,(980部限定版),1977年
陰里鉄郎(編)『日本の水彩画11 丸山晩霞』,第一法規出版,1989年
陰里鉄郎(著)「評伝精緻な田園風景から世界の風景へ」『日本の水彩画11 丸山晩霞』,第一法規出版,1989年
鎌田恵理子・西まどか(編)『水彩画みずゑの魅力;明治から現代まで』, 青幻社,2023年
佐藤聰史(編)『日本水彩画会創立100年記念水彩画家丸山晩霞展』,東御市,2012年
太平洋美術会(編)『第115回記念太平洋展-明治美術会130周年』太平洋美術会,2019年
並木張(著)「島崎藤村と三宅克巳と丸山晩霞」『島崎藤村と小諸-髙津猛の友情をめぐって』,櫟,1990年
東御市丸山晩霞記念館(編)『丸山晩霞その真の力シリーズ水彩秀作展』,東御市,2013年
林誠(著)「水彩画家・丸山晩霞の芸術」『日本水彩画会創立100周年記念水彩画家丸山晩霞展』,東御市,2013年
丸山晩霞(著)『水彩画の描き方』,実業之日本社,1923年
元木泰雄;伊藤之雄(共著)『理解しやすい日本史B』,文英社,2014年
信濃毎日新聞社開発局出版部(編)『丸山晩霞画集』,信濃毎日新聞社(980部限定版),1977年
花岡菖(著)「水彩画家丸山晩霞の足跡に関する一考察」芸術教養演習1レポート,2019

参考資料(パンフレット類)
「丸山晩霞記念館」,長野県東御市
「小海町高原美術館」,長野県南佐久郡小海町
「丸山晩霞習作展」,丸山晩霞記念館
「私立小諸高原美術館」長野県小諸市
「風景画の巨匠;吉田博と丸山晩霞展」丸山晩霞記念館,2010/7/31~9/5
「掛軸,屏風展覧会(丸山晩霞記念館開館3周年記念展)」,2009/10/31~2010/1/31
「山岳に焦がれた男たち」丸山晩霞記念館,2011/7/31~9/4

参考新聞記事
「晩霞111年ぶり「帰郷」」『信濃毎日新聞』,2011/7/31
「丸山晩霞の作品70人から情報」『信濃毎日新聞』,2011/7/29
「東御市祢津出資の水彩画家・丸山晩霞の作品 米国から111年ぶりに里帰り31日から公開」『信州民報』2011/7/27
「米国から111年ぶり里帰り3作品を初公開」『東信ジャーナル』2011/7/28
「晩霞救助犬の掛け軸」『読売新聞』2011/7/31
武井清(著)「登山の喜び絵筆に込めて」『日本経済新聞』2011/8/30
 
参考URL(出現順)
(1)「丸山晩霞年譜」『丸山晩霞記念館ホームページ』
http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub23.html
(2)彰技堂(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%BD%B0%E6%8A%80%E5%A0%82-1338744
(3)本多錦吉郎(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%8C%A6%E5%90%89%E9%83%8E-1108722
(4)浅井忠(20世紀日本人名辞典)
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E4%BA%95%20%E5%BF%A0-1637039
(5)吉田博(美術人名辞典)
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%8D%9A-22155
(6)三宅克巳(デジタル大辞典)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%85%8B%E5%B7%B1-16772
(7)大下藤次郎(和歌山県立美術館ホームページ)
http://www.momaw.jp/exhibit/after/2017oshita.php
(8)日本水彩画会ホームページ
http://www.nihonsuisai.or.jp/profile.html
(9)東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館ホームページ
https://www.sjnk-museum.org/program/past/4778.html
(10)朝日日本歴史人物事典
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%86%8A%E4%BA%8C-1070311
(11)小諸市・小諸義塾ホームページ
https://www.nagareki.com/komoro/gijyuku.html
(12)美術人名辞典
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%85%8B%E5%B7%B1-16772
(13)ブリタニカ国際大百科事典
https://kotobank.jp/word/%E5%85%89%E9%A2%A8%E4%BC%9A-63079
(14)太平洋美術会ホームページ
https://www.taiheiyobijutu.or.jp/history
(15)明治美術会(art scape Japan)
https://artscape.jp/artword/index.php/%e6%98%8e%e6%b2%bb%e7%be%8e%e8%a1%93%e4%bc%9a
(16)石井柏亭プロフィール
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/hakutei/profile.html
(17)日本水彩画会ホームページ
http://www.nihonsuisai.or.jp/profile.html
(18)20世紀日本人名事典
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%20%E6%B3%B0%E8%88%92-1636878
(19)大町山岳博物館ホームページ
https://www.omachi-sanpaku.com/display/archives/special/entry-211.php
(20)東御市丸山晩霞記念館ホームページ
http://www.city.tomi.nagano.jp/category/kankou_kouen/130473.html
(21)吉田博『川のある風景』(府中市美術館所蔵)
http://rasensuisha.cocolog-nifty.com/kingetsureikou/2017/08/120-ee41.html
(22)吉田博作品集(府中市美術館所蔵)
https://www.bing.com/images/search?q=%E5%90%89%E7%94%B0%E5%8D%9A+site%3Acity.fuchu.tokyo.jp&qpvt=%e5%90%89%e7%94%b0%e5%8d%9a+site%3acity.fuchu.tokyo.jp&form=IGRE&first=1&cw=1117&ch=630
(23)小山周次(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%91%A8%E6%AC%A1-1076091
(24)藤村記念館(小諸)ホームページ
http://www.kanko.komoro.org/midokoro/touson.html
(25)小諸義塾記念館ホームページ
http://www.kanko.komoro.org/midokoro/gijyuku.html
(26)本多錦吉郎(20世紀日本人名辞典)
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%20%E9%8C%A6%E5%90%89%E9%83%8E-1654679
(27)島崎藤村(美術人名辞典)
https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91-18449

年月と地域
タグ: