神奈川県横須賀市に伝わる「虎踊り」について

三好優子

神奈川県横須賀市に伝わる「虎踊り」について

1基本データ
名称:横須賀の虎踊り (浦賀の虎踊り)
所有者・管理者:浦賀虎踊り保存会 (横須賀市西浦賀町4丁目(浜町))
公開日:毎年6月中旬
公開地:「為朝神社」宵宮祭 特設ステージ
文化財の種別及び指定日:
国「記録作成等措置を講ずべき無形民俗文化財」(選択日2004年2月2日)
神奈川県「指定無形民俗文化財」(指定日1976年10月19日)
《概要》
虎の着ぐるみを用いた舞に、歌舞伎や唐人踊りを採り入れた民俗芸能。
虎は親子2体で、虎の頭は本邦880社の神符を貼って作られ、親虎には青年、子虎には子どもが2人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動く。踊りは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、和藤内(男児)唐子(女児)、太唐人(成人男子)たちによって踊られる。海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、虎の出現で子供が退散して虎が舞台上を自由に振舞い、それを和藤内が神符で押さえてみえを切り終わる。

2歴史的背景
享保5年(1720年)、幕府は伊豆の下田から浦賀に奉行所を移した。表向きの理由は、下田が港として不適当であるとされていたが、実は享保の改革の一環で、江戸の人口増大に伴う江戸流入の商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港に移されたと考えられている。下田から多くのひとが移り住み浦賀の町は1000戸以上にも達した。その後、嘉永6年(1853年)6月にアメリカ合衆国ペリー提督が、軍艦4隻を率いて浦賀沖に姿を現したことにより、近代日本の幕開けとなったのは有名な話である。
奉行所の移転と同時に移ってきた人達が、下田で行われていた「虎舞」を浦賀でもやりたいという思いから浦賀の「虎踊り」が始まったと伝えられている。下田に教えを請うていたが、実際に「虎踊りが伝承されたのはこれより70~80年の後になったようだ。浦賀の虎踊には「唐子踊り」が加えられたが、上方の芝居小屋で坂東三津五郎が踊っていたものを浦賀の人達が見覚えて、浦賀で振り付けをしたと言われている。それ以来、浦賀奉行所に於いて催されていた。西叶神社の例祭には伝授された長男だけにより奉納されたそうだ。なお、浜町(西浦賀4丁目)の鎮守である為朝神社の創建は、文政期(1820年代)といわれている。浜町の漁民が海に漂流していた鎮西八郎為朝(源為朝)の木像を引き上げ、地蔵堂に安置したことから始まった。

3他地域の事例との比較 ・ 特筆される点
「虎踊り(虎舞)」は、全国様々な地で継承されている。
まずは同じ横須賀市内で伝わる「野比の虎踊り」と見比べてみたい。全体的な構成はよく似ているが、歌や踊りにそれぞれの個性が見られる。また、浦賀では和藤内を5年生くらいの男児が演じるのに対し、野比では成人男性が演じている。また野比では虎を演じる人と芸を変えて数回繰り返される。さらに、登場する虎は一匹のみである。野比の虎踊りは、戦前と戦後しばらく、それぞれ中断しているが、昭和47年に再復活をした。現在では、隔年で白髭神社下広場に舞台を設けて催されている。浦賀の虎踊りと一緒に「横須賀の虎踊り」として、無形民俗文化財に選択されている。横須賀では久里浜の天神社にも「虎踊り」が伝えられていたが、虎を出すと天気が荒れるということで、大正末期に廃止となった。現在も神社内に虎の頭が保管されている。
続いて「横須賀の虎踊り」の原点である伊豆地域。琉球とも中国台湾とも言われる唐の人達が下田に上陸、滞在中にお世話になったお礼にと舞われて以来、伝承させてきたとのこと。現在、南伊豆町小稲の来宮神社において「虎舞」が伝えられている。毎年旧暦の8月14日の夜、来宮神社の祭典として行われる。「国姓爺合戦」の一部を舞にしたもので、漢人「和藤内」が竹薮に差し掛かった時に、大虎と出くわし、格闘の末、虎を生け捕りにし連れ帰るという筋書きである。豊年の年には竜も出て竜虎の舞が行われる。和藤内と虎以外の登場はいないが、クライマックスの両者が戦う場面は横須賀のものと比べて迫力がある構成だ。(静岡県の無形文化財指定)下田の黒船祭りで文化交流として「浦賀の虎踊り」と「小稲の虎舞」の共演を行い、264年ぶりの里帰りを果たした。
そのほか、岩手県釜石、大槌地域にも広く「虎舞」が伝承されている。由来については①鎮西八郎為朝の三男で、陸奥の国を領有していた閉伊頼基が、将士の士気を鼓舞するため虎の縫いぐるみを着けて踊らせたという説。②江戸時代中期、三陸随一の豪商として名高い前川善兵衛助友が近松門左衛門の浄瑠璃 国姓爺合戦の一節から「千里ケ竹」和唐内の大虎退治の場に感動した。当時、山田の大沢出身の船方衆がこれを故郷に帰って創作舞踊とし、笛や太鼓の囃子も賑やかに神に奉納した。③虎の習性にならい、遠方へ出る漁師が無事に戻るよう願った。など諸説ある。
それぞれ離れた地域で伝承されている「虎踊り(虎舞)」であるが、起源や由来についてはどれも確定的な文書もなく、口伝として代々伝えられ現在に至っている。しかし、「鎮西八郎為朝」「国姓爺合戦」などの共通するキーワードがあることから、下田から横須賀に伝わったのと同様に、他の地方へも伝わっていったのではないかということが想像される。
「浦賀の虎踊り」も「国姓爺合戦」を題材としている点では他と共通しているが、浦賀の虎踊りが特徴的なのは虎が舞うだけでなく、全体的な筋道立った物語に裏打ちされていることが挙げられる。また、全国の虎踊りの中で、全身を縫いぐるみ(着ぐるみ)で踊るものは横須賀以外に見られない。それらの点が他の虎踊り(虎舞)との違いであり、特筆されるところである。

4事例の何について積極的に評価しようとしているのか
「民俗文化継承への取り組みと地域色」

一般的に民俗文化継承の現状と課題として、大きく以下の3点が挙げられる。
①少子化における後継者不足
②伝統文化に対する人々の意識の低下
③伝統文化継承にかかる費用の問題

事例の浦賀周辺は町内会の活動が大変盛んな地域である。中でも祭礼や神輿に対する意識が大変高く、この地に誕生した新生児はまず「神輿くぐり」という洗礼を受けることになる。仕事の都合などで普段は離れている者たちも、祭礼の時期にはその多くが帰省し、それぞれの地域の神輿をこぞって担ぐというのが恒例となっている。虎踊りについても、町内会の保存会が中心となってその継承への努力を重ねている。
では、上記のような課題にどのように取り組んでいるのだろうか?まず、子どもの減少については時代の流れとして致し方ないと言わざるをえない。だが、幼いころから祭礼の中で当たり前のように触れる機会が与えられることで、後継者としての素質や意識が育てられていくといえるだろう。また、地域住民の意識についても同様である。地域の大切な文化として尽力を注ごうという働きかけがなされていく。そういった流れから費用に関しても、町内会という組織力で寄付や会費も集まりやすくなっているのではないだろうか。ただ、よその地域から移ってきた者にとっては少々窮屈な印象もあるようだ。町内会入会と同時に揃いの法被と提灯を購入し、順に班長などの役割を任されていくことになる。俗に「浦賀とは、三代住まねば未熟者」とも言われているそうだ。だが、こういった浦賀の地域色が伝統文化の継承への取り組み方を後押ししており、評価出来る点であると言えるのではないだろうか。

5今後の展望について
「虎踊り」は、何百年という歴史を人々の努力で受け継がれてきた。今も町内会、保存会では新人育成に向けて様々な努力をしているとのことであった。また、地域の文化として継承するだけでなく、地域外のイベントにも参加し、その知名度を広げる活動も行っている。多くの人に「横須賀の虎踊り」を知ってもらい、将来に亘り継承されていくことを願いたい。

  • 987383_56c6fa67b62b4365ac0185fcf3509e6b.jpg 虎踊りの説明
  • 987383_cd2ba62991924806a649c123c45b2f4c 虎踊りの会場となる為朝神社
  • 987383_427dbbd7c52149e4849a376039cdad0c 虎踊りの様子
  • <WEBでは掲出せず>
    足まで着ぐるみ
  • <WEBでは掲出せず>
    昭和4年の出演者

参考文献

石井 昭著「ふるさと横須賀」
http://s2s.jp/furusato/furusato_p120.html
横須賀市ホームページ
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/index.html
南伊豆町観光協会
http://www.minami-izu.jp/entry.html?id=6856
釜石・大槌地域の伝統芸能
http://www2.pref.iwate.jp/~hp5501/geinou/indx/indx.htm
叶神社
http://kanoujinja.p1.bindsite.jp/