函館五稜郭の観光地化と市民利用―より市民に親しまれるためには―

佐々木 頌子

1.はじめに
函館は北海道有数の観光地であり、市内には歴史的建造物が多く点在している。
なかでも五稜郭は唯一の幕末期の建造物(註1)であり、観光スポットとしての知名度も高い。土方歳三や榎本武揚らが新政府軍と戦った箱館戦争の舞台としても知られるが、筆者が知り合った函館市民の人々に聞いたところによると、市民であれば必ず一度は行く馴染みのある公園だという。観光地のイメージが強い五稜郭が、どのような形で市民に親しまれ、観光地化によってどのような変化があったのか考察した。

2.基本概要
〈所在地〉
北海道函館市五稜郭町44番地

〈規模〉
史跡指定範囲:約250,800㎡(うち、半月堡含む郭内:約125,500㎡、堀:約69,100㎡)(資料1)
堀幅:最大約30m
堀の深さ:約4~5m
水堀の外周路:約1.8km

〈構造〉
16~17世紀頃ヨーロッパで発展した稜堡式城塞都市をモデルとした西洋式土塁である。特徴としては、①5つの稜堡を有する星形の形状、②土塁や石垣で築かれた城郭および半月堡の外周にめぐらされた水堀、③湿地帯に築造されたため北側から南側にかけ設けられた緩勾配による排水構造 が挙げられる。
築造時は5か所に橋が架かっていたが箱館戦争時に外されたため、現在は南西側(資料1①②)と搦手側(同③)の3か所に残るのみである。郭内の本塁は出入口や通用門等が一部石垣積みで武者返しがあり(同④)、長さ約14m、高さ約4mの石垣積みで造られた見隠塁(同⑤)が3か所ある。
また、築造当時から残存しているものは兵糧庫(同⑥)や小土塁(同⑦)、アカマツ(同⑧)のみであり箱館奉行所(以下、奉行所・同⑨)および板庫や土蔵(同⑩)は2006年に復元整備された(註2)。

3.五稜郭築造の歴史的背景
五稜郭は箱館戦争のために旧幕府軍が築いたものではない。1854年の日米和親条約締結により下田と箱館が開港したことを踏まえ、徳川幕府により開港に伴う外交・対外政策と箱館を中心とした蝦夷地統治を目的とする箱館奉行が設置されたことを発端とする。
五稜郭は奉行所の移転(註3)に際し、武田斐三郎(註4)が設計したものであり、1855年にフランス軍艦が入港した際、士官より贈呈された築城書を基にしていると言われている。当時の主戦兵器であった大砲からの防衛面を考慮し、移転地の選定や築造を計画したと考えられ(註5)、1857年に着工し1866年に完成した(註6)。
なお、初期設計では全稜堡間に半月堡が設けられていたが(図1)幕府の財政問題等から現在の形になった(図2)。

4.五稜郭の特色
(1)特別史跡指定
五稜郭は1922年に「洋式築城法により築造された幕府の重要な遺構」(註7)であるとして国の史跡に、1952年には国指定特別史跡に指定され、北海道では今なお唯一の特別史跡である。
大政奉還後は一時的に旧幕府軍による占領もあったが、政府や軍の管轄下にあった。原則一般人の立ち入りを禁じた管理体制によって保存状態が良好に保たれたことが、史跡として評価に繋がり、さらにこの特別史跡指定が観光地化の一助となったといっても過言ではないだろう。

(2)市民利用
市民には1914年に公園として一般開放され、堀ではプールやスケートが行われた(註8)。1954年に開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会の会場となって以降、市内小中学校の運動会が開催されるなど、市民に「公園」として親しまれるようになった。同時期から周辺の宅地化が徐々に進み、人口が増加したことも影響していると考えられる(註9)。
その後、旧五稜郭タワー(註10)建設や奉行所復元等による観光地化の機運の高まり、市民利用拡大による環境悪化の懸念などから、平成以降に五稜郭の保存整備・復元計画(註11)が策定され、良好な観光地として整備された。
反面、公園としての利用範囲は徐々に限定されていった(註12)。近年郭内の市民利用はほぼなく、奉行所前で毎日ラジオ体操(註13)が行われているほかは、ジョギングサークルの定例利用(註14)といった外周遊歩道での運動等が見られるのみである。

(3)その他の取り組み
現在はホスト国が決まらず休止中だが、五稜郭に関係する行政の取り組みとして、姉妹都市であるハリファクス市と連携開催した「世界星形城郭サミット」があり、2006年まで数回行われた(註15)。
本サミットは星形城郭を有する世界9か国10都市が参加し、各地域の星形城郭の歴史や活用等の情報が共有され、軍事目的で築造された星形城郭を有する地域同士で世界平和に向けたネットワークの構築と発展に努力するというコミュニケを採択した(註16)。
しかし、これは行政主導であったため市民の認知度は低く、現在でも姉妹都市以外の参加都市との交流がほぼ無いことから、サミット開催意義が薄れつつあるのではないか。

5.比較考察
星形城郭を有する地域における住民との関わりと観光の両立について、長野県佐久市の龍岡城とハリファクスのシタデルを一例に比較する。
龍岡城は松平乗謨が築造し、史跡総面積は約66,694㎡と五稜郭の約4分の1程度の大きさである。1864年に着工し1867年に竣工したが、廃藩後の1871年に石垣と御台所以外取り壊されている(註17)。国内で2例しかない五稜郭の一つであるが、知名度が低い大きな要因として郭内に小学校が建っていることが考えられる。
当校は残存していた御台所を1872年以来学校利用してきた歴史をもつ。1974年に移転予定だったが、最終的に同地で改築(註18)されたことで、長期にわたり地域住民に親しまれる環境を形成したと言えよう。龍岡城の案内等はボランティア団体(註19)が担っているが、立地面等を考慮すると観光地化は難しいだろう。しかし学校利用されることで地域社会の核となり、世代を超えて継承される地域活用の形を形成しているのではないか(資料2)。
一方、シタデルは英国によるアメリカからの北米防衛を目的として1856年に完成したもので、築造時期を含め五稜郭と類似点がある。大戦中までは軍事目的で利用されたが、1951年に国立歴史公園として指定され、1979年の政府によるシタデル再建・復興プロジェクトにより整備されたことで、今日ではハリファクスを代表する観光地となっている。市民にとって歴史を学ぶ場であることはもちろん、城郭や広場を利用したイベントや国際会議の開催など、観光地と市民の憩いの場という位置づけが共生している(註20)。
シタデルは2016年度において451,499人の訪問者があった(註21)とされるが、同年の五稜郭タワーは4月~1月までの期間で925,818人の訪問があったとされる(註22)。五稜郭自体は無料開放であるため、実際の園利用者数は不明だが、交流人口は五稜郭のほうが多いことが推測される。
以上のことから、上記2か所と比較すると現在の五稜郭は観光地として成立しているが、市民利用は低調であると考えられる。

6.今後の展望・課題
五稜郭が再び市民に親しまれるような場所となるためには、まず市民が楽しめるイベントを増やすことが考えられる。
現在主たるイベントとしては野外劇や箱館五稜郭祭があるが、毎年題材が同一のため市民の興味が低下し、現在は観光客向けになりつつあると感じられる。また、土方歳三や榎本武揚だけで五稜郭を語ろうとしている傾向が見られ、いつまでもそれでよいのかと疑問を感じざるを得ない。
五稜郭周辺には図書館や美術館、芸術ホール等の文化施設が立地していることを活用し、例えば野外劇等のイベントと連携した催し物等を開催してもよいだろう。市民向けに五稜郭タワーを1日無料開放したり、世界星形城郭サミット参加都市に呼びかけ、文化交流の場を設けてもよい。
その他にも冬季イルミネーションなど郭内を利用するイベントがないわけではなく、奉行所でも和の空間を活用したイベントや講座などを開催しているが(註23)、小規模なものは市民への周知が事後の新聞報道程度であり、事前周知が不十分である。周知方法を見直し、より気軽に利用されるような仕組みを構築すべきではないか。
観光地と地域住民のための場の両立は難しいが、史跡公園である以上、観光客だけでなく市民も利用してこその公園であり、後世に継承されると考える。また市民利用が増えれば市民向けの商業活動も増え、地域活性にも繋がるはずだ。対観光客だけでなく、対市民も視野にいれた官民連携による施策が今後は必要だろう。

  • Web 資料1 五稜郭(1)
    ※写真は全て筆者撮影による(各写真撮影日は図中に記載)。
    ※Googlemapおよび五稜郭公園内の案内図を参考に筆者が作図した。
  • Web 資料1 五稜郭(2)
    ※写真は全て筆者撮影による(各写真撮影日は図中に記載)。
  • Web 資料2 龍岡城(参考)
    ※写真は全て筆者撮影による(2019年11月16日撮影)。
  • 4_%e5%9b%b3%ef%bc%91%e3%80%80%e7%ae%b1%e9%a4%a8%e5%9f%8e%e5%9b%b3%ef%bc%88%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e4%b8%ad%e5%a4%ae%e5%9b%b3%e6%9b%b8%e9%a4%a8%e6%89%80%e8%94%b5%ef%bc%89 図1 箱館城図(函館市中央図書館所蔵)
    築造計画当初の五稜郭。計画当初は半月堡が全稜堡間に設けられていたが最終的には図2(現五稜郭)の形となった。
  • 5_%e5%9b%b3%ef%bc%92%e3%80%80%e4%ba%94%e7%a8%9c%e9%83%ad%e4%b8%89%e5%88%86%e5%8d%81%e9%96%93%e4%b9%8b%e7%b8%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e5%87%bd%e9%a4%a8%e5%b8%82%e4%b8%ad%e5%a4%ae%e5%9b%b3%e6%9b%b8%e9%a4%a8 図2 五稜郭三分十間之縮図(函館市中央図書館所蔵)

参考文献

【註】
(註1)函館市教育委員会『特別史跡五稜郭跡保存整備調査報告書―保存整備基本計画策定に向けて―』、p.34、1990年3月。
(註2)基本概要に記載のデータについては、以下のWebサイトおよび文献を参考にした。
・五稜郭タワー「特別史跡五稜郭を知る 2、箱館奉行の北方経営と『五稜郭』」、https://www.goryokaku-tower.co.jp/cms/wp-content/themes/gt_2019/resource/img/history/history02.pdf、2020年1月22日最終アクセス。
・函館市「五稜郭の歴史(築造から大政奉還)」、https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700352/、2020年1月22日最終アクセス。
・野村祐一ほか編著『特別史跡五稜郭跡 復元整備事業報告書』函館市教育委員会、p.2-3、2011年3月。
・一般財団法人函館市住宅都市施設公社「五稜郭公園」、https://www.hakodate-jts-kosya.jp/park/goryokaku/、2020年1月22日最終アクセス。
(註3)奉行所は当初函館山麓に置かれていたが、函館山への外国人遊歩を許可していたことや港湾の防衛面などの問題から現在地へ移転した。(函館市「五稜郭の歴史(築造から大政奉還)」、https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700352/、2020年1月22日最終アクセス。)
(註4)武田斐三郎成章。ペリーが函館に来航した際応接役の一員だった蘭学者であり、西洋の軍学にも長けた箱館諸術調所の教授だった。(五稜郭タワー「特別史跡五稜郭を知る 2、箱館奉行の北方経営と『五稜郭』」、p.1-2、https://www.goryokaku-tower.co.jp/cms/wp-content/themes/gt_2019/resource/img/history/history02.pdf、2020年1月22日最終アクセス。)
(註5)田原良信『日本の遺跡27 五稜郭』同成社、2008年5月。
(註6)箱館奉行所は1864年の竣工に伴い移転した。(野村祐一ほか編著『特別史跡五稜郭跡 復元整備事業報告書』函館市教育委員会、p.2-3、2011年3月。)
(註7)田原良信『日本の遺跡27 五稜郭』同成社、p.33、2008年5月。
(註8)これらの堀利用は、昭和に入ると水質環境悪化によって禁止となった。(五稜郭タワー「特別史跡五稜郭を知る 3、幕末の激動と、その後の五稜郭」、https://www.goryokaku-tower.co.jp/cms/wp-content/themes/gt_2019/resource/img/history/history03.pdf、2020年1月22日最終アクセス。)
(註9)田原良信『日本の遺跡27 五稜郭』同成社、2008年5月。
(註10)旧五稜郭タワーは五稜郭築城100周年記念によって建造され、60mの高さだった。現在の五稜郭タワーは2006年に旧五稜郭タワーの隣に作られたもので、高さは107mである。なお、旧五稜郭タワーは現五稜郭タワーの完成により解体されている。(五稜郭タワー「五稜郭タワーを知る」、https://www.goryokaku-tower.co.jp/facility/about/、2020年1月22日最終アクセス。)
(註11)1991年に五稜郭保存整備基本計画が、2001年に箱館奉行所復元計画が策定された。(田原良信『日本の遺跡27 五稜郭』同成社、p.35、2008年5月。)
(註12)函館市教育委員会『特別史跡五稜郭跡保存整備調査報告書―保存整備基本計画策定に向けて―』、1990年3月。なお、筆者の知人である30代男性によると、自身が園児の時に運動会の会場だったという。
(註13)昭和30年代に始まった活動で、毎朝奉行所前で午前6時ごろから行われている。花見シーズンは参加者も多く、酷い悪天候でも必ず参加者がいることから、地域住民の憩いや社交の場となっているといえよう。(堺麻那「五稜郭とわたし④仲間と集う」『みなみ風 第6173号』、北海道新聞社、2019年5月13日、1面)
(註14)ジョギングサークル「函館走ろう会」は1976年に始まった。現在所属している会員は240名程度であるが繋がりは緩やかであり、五稜郭公園外周を毎週日曜日に午前9時から自由に走っているという(堺麻那「五稜郭とわたし④仲間と集う」『みなみ風 第6173号』、北海道新聞社、2019年5月13日、1面)
(註15)箱館奉行所の館内スタッフの話による(2019年12月15日聞き取り)。
(註16)参加都市は下記のとおり:ハリファクス(カナダ)、ミュンスター(ドイツ)、カレー(フランス)、ヘレヴーツリュイス(オランダ)、ハミナ(フィンランド)、パルマノヴァ(イタリア)、サンクトペテルブルグ(ロシア)、フエ(ベトナム)、臼田町(現長野県佐久市)、函館市。(函館市『世界星形城郭サミット報告書』、1997年。)
(註17)下記の文献を参考とした。
・佐久市教育委員会『国史跡 龍岡城五稜郭』(五稜郭であいの館配布パンフレット)
・中村勝実『信州龍岡城 もう一つの五稜郭』櫟、p.145、1982年5月。
(註18)学校移転にあたっては、一部住民の不満を恐れた町が最終的に移転を撤回した。(中村勝実『もう一つの五稜郭〈新版〉』櫟、p.181-182、1997年。)
(註19)龍岡城五稜郭保存会。学校改築問題を発端に1974年に発足した。(中村勝実『もう一つの五稜郭〈新版〉』櫟、p.182-184、1997年。)
(註20)函館市『世界星形城郭サミット報告書』、1997年。
(註21)Amanda McKenzie ”Creating a Living Fortress: the development of the Halifax Citadel National Historic Site.”, https://pdfs.semanticscholar.org/f781/b8389c471f66c12dcf24f18659a68f401b77.pdf?_ga=2.252284366.676110955.1578802474-1472190620.1578802474, 2020年1月22日最終アクセス。
(註22)国土交通省「青函共用走行区間等高速化検討WG(第1回)配布資料」、https://www.mlit.go.jp/common/001181519.pdf、2020年1月22日最終アクセス。資料内では2016年4月~2017年1月までの実績であったため、2~3月を含むと約93万人程度であったことが推測される。なお、北海道新聞『みなみ風 第6169号』(北海道新聞社、2019年5月7日)1面によると来場者数の年間平均は86万人程度である。
(註23)箱館奉行所公式ウェブサイト「平成31年度 函館奉行所事業・講座等一覧」、https://www.hakodate-bugyosho.jp/course.html、2020年1月22日最終アクセス。

【参考文献】
・井出正義ほか編『定本・佐久の城』郷土出版社、1997年7月。
・長野県佐久市教育委員会編『史跡龍岡城跡 保存管理計画書』長野県佐久市教育委員会、2013年3月。
・箱館五稜郭祭協賛会『第50回記念箱館五稜郭祭』パンフレット、2019年5月。
・市民創作「函館野外劇」の会『野外劇 第32回市民創作函館野外劇』パンフレット、2019年7月。
・野長瀬郁美「五稜郭とわたし①タワーから、地上から」『みなみ風 第6169号』北海道新聞社、2019年5月7日、1面。
・内田晶子「五稜郭とわたし⑤これからも」『みなみ風 第6175号』北海道新聞社、2019年5月15日、1面。

【参考Webサイト】
・信州佐久旅の観光ガイド「龍岡城五稜郭」、http://www.sakukankou.jp/sightseeing/tatsuokajou-goryoukaku/、2020年1月22日最終アクセス。
・函館市「五稜郭の概要」、https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011601482/、2020年1月22日最終アクセス。
・函館市「五稜郭の歴史(箱館戦争から現在)」、https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700789/、2020年1月22日最終アクセス。
・函館市「五稜郭内施設案内」、https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012100380/、2020年1月22日最終アクセス。
・函館市公式観光情報はこぶら「箱館戦争終結から150年、五稜郭の見どころ徹底ご案内」、https://www.hakobura.jp/stock/database/150.html、2020年1月22日最終アクセス。

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