ピエロ・デッラ・フランチェスカ  サン・フランチェスコ聖堂壁画連作 『聖十字架伝説』

望月 由理

1. 基本データ
イタリア中部のコムーネ、アレッツォはローマを起源とした中世都市でフィレンツェから南東へ約60kmに位置する。この町の中心に建つサン・フランチェスコ聖堂にルネサンスを代表する壁画のひとつ、ピエロ・デッラ・フランチェスカの『聖十字架伝説』が残る。
聖堂は13世紀末にサン・フランチェスコ会によって基礎が築かれギルドや商人らによって支えられていた。この聖堂の主祭壇を飾る壁画を注文したのはアレッツォの薬種商バッチ家であり1440年代に制作が始まったとみられる。
最初にこれを手掛けたのはフィレンツェの画家ビッチ・ディ・ロレンツォであった。しかし1452年のビッチの死によってボルゴ・サン・セポルクロの画家ピエロ・デッラ・フランチェスカにこの仕事が引き継がれた。
古いゴシックの伝統の後を引き継ぎピエロは15世紀において最も斬新な壁画を手掛けることになる。

2.歴史的背景
ピエロは1410年から1420年頃アレッツォからほど近いボルゴ・サンセポルクロに靴職人兼革鞣し職人の子として生まれた。ピエロについて残る史料は少なく、1430年代にサン・セポルクロで画家として活動を始め、国際ゴシック様式にコルトーナ地方の伝統が融合した画風であったとされるアントーニオ・ダンギアーリのもとで修行をしたとみられる。1439年、フィレンツェのサン・テジディオ聖堂でドメニコ・ヴェネツィアーノの助手を務め壁画制作に関わったことが文献上明らかである。初期の画風にはシエナ派的な特徴(穏やかな色階、デリケートな肌、若者像の多さ、豪華な衣装と繊細な文様等)が見られることからシエナとの関わりも指摘される。1458年から59年の間にローマに滞在し北方絵画の研究を更に進めたと思われる。この壁画は1452年頃から恐らく1466年迄に制作されたとみられる。
ピエロの芸術が形成されつつあった1430年代のフィレンツェは、ゴシックの伝統的な様式に北方と西方の絵画の要素が浸透した豊かな時期であった。建築、彫刻、絵画においては遠近法の研究が進み、壮麗で繊細・優美なものが好まれていた。
建築家で理論・評論家のアルベルティが1436年に著した『絵画論』は、フィレンツェの初期人文主義の優れた人々による芸術や科学を巡る豊かな議論から生まれたもので、ピエロもその影響を受けたと考えられるが、このルネサンスを象徴する人文主義のみに傾倒せず、ピエロは独自の画風を完成した。

『聖十字架伝説』は13世紀のジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ヴォラギネが記した聖書外伝『黄金伝説』を出典とする十字架の奇跡譚で、伝説と史実が複雑に融合した物語である。この主題は、サン・フランチェスコ会が十字架に対する信仰を重視していたことやアレッツォがコンスタンティヌス帝の治世下での最初のキリスト教へ改宗した共同体であったことも関連していると推測される。
物語の概要は次のとおりである。
始祖アダムは死に臨んで息子セツを大天使ミカエルのもとに送る。ミカエルはセツに原罪の木の種を渡しセツは死んだ父の口元に植え込む。墓の上に生えた樹は成木となりソロモン王によって伐採されて橋にされた。ソロモン王に謁見しに来たシバの女王がその橋を渡ろうとした時、啓示によって将来救世主が磔にされることを知る。シバの女王からその話をきいたソロモン王は橋を取り除かせ木を埋めさせた。しかし木は再び発見され受難の具となった。時を経た4世紀、皇帝コンステンティヌスはローマ帝国全土の支配を決定することとなるマクセンティウスとの戦いの前、夢で十字架の印の下に身を置くようにというお告げを受ける。戦いに勝利した後、母后ヘレナは奇跡の木を取り戻しにエルサレムへ赴く。そこではユダという男が木の在処を知っていたが所在を教えないため拷問にかける。その後ユダは十字架はウェヌス神殿にあることを告白し、ヘレナは神殿を打ち壊させ十字架を発見した。更に時を経た7世紀、ペルシア王コスロエスはローマ帝国から成木を奪い崇拝した。しかしビザンティン皇帝ヘラクリウスは王から木を奪い返しエルサレムへ持ち帰ったところ神聖な力が働きエルサレム入城を拒んだため、皇帝は衣服を脱ぎ十字架を賞揚して入城した。

ピエロはこの物語の中から次の十の場面を描いた。(物語は祭壇向かって右壁上段手前から奥へ、中段左から右へ、次は右壁から奥壁へ、そして左壁へと続き最後は左壁上段で幕を閉じるという変則的な進行である。)
1 アダムの死 2 シバの女王の聖木への礼拝とソロモン王との会見 3 聖木の運送 4 受胎告知 5 コンスタンティヌスの夢 6 コンスタンティヌスの勝利 7 ユダの拷問 8 聖十字架の発見と検証 9 ヘラクリウスとコスロエスの戦い 10 聖十字架の賞揚

5.同様の事例との相違点 4.特筆すべき点
ピエロより30年早く同題材をフィレンツェのサンタクローチェ聖堂で手掛けたアニョロ・ガッディは、十字架発見の二つの祝日を左右の壁に図解して描いた。一方ピエロは物語全体を一つのものとして捉え、右壁面を旧約の世界、左壁面を新約の世界とし、予型的に両世界を関連付け対称的な対比構成で描いた。
また当時の壁画の多くがそうであったように、この壁画も半乾きの漆喰に水で溶いた顔料を塗るブオン・フレスコ技法で描かれたと考えられていた。しかし近年の洗浄で、卵と顔料を混ぜて絵具とするテンペラ技法やそれに油を混ぜたテンペラ・グラッサ技法で描かれたことが明らかになった。この鮮やかで豊潤な色彩はピエロが顔料や技法を熟知し技法の上でも革新者であったことを語っている。
ピエロはフィレンツェの伝統に北方の新しい試みを加え、新しい技法でこの壁画を制作したのである。

3.積極的に評価しようとしている点
ピエロはマザッチョのブランカッチ礼拝堂の豊かな色彩に学び、光輝く背景と敬虔な静けさを持つフラ・アンジェリコを規範としていた。そして線遠近法、前縮法など当時のフィレンツェの画風を充分に研究・吸収したとみられるがそれに倣うだけではなかった。
晩年『算術論』を出版するほど数学の研究に熱心であり、ここでも数学・幾何学によって分析した画面構成に消失点と遠近法を加えている。女王の聖木礼拝の場面では、女性の卵型の頭部には幾何学的表現が、彫刻のような襞のある衣装や画面を仕切る柱には建築的要素が見られる。
その一方でコスロエスの戦いの場面でラッパを吹く人物の感情を抑制させたり、斬首されようとするコスロエスには尊厳表情を与えるなど細やかな描写も見られる。またコンスタンティヌスの夢の場面では光の陰影を明確にするなど、随所に新しい試みがみられる。そしてこの静止したような画面構成に相反して、時に人物には人間の素朴さや面白さ、温かみも与えられている。
このように冷静沈着で理性的な画面構成や光の陰影に加え繊細な風景などの北方的要素や技法を取り入れこの壁画を完成させたことは、絵画に新たな一歩を与えたといえよう。ピエロの作品は後のラファエロやカラヴァッジョにも影響を与えたと推察できることからも、ピエロがルネサンス初期に果たした役割は見過ごすことができない。
私はこの壁画を目の前にし、宗教性に加え、豊かな空間の広がりと美しい色彩によって表現された伸びやかなトスカーナの空気、寛ぎのようなものを感じた。

5.展望
20世紀に入りロベルト・ロンギにより再評価がされ、レーヴィンやアンリ・フォション他、多くの美術史家によって研究がなされている。残る史料の少なさから調査は困難であるが今後は科学による新たな解明が期待される。
また近現代の画家にもピエロは影響を与えていることから、ピエロの持つ普遍的な美についての研究が数学、幾何学、美学的見地からなされることが今後更に望まれる。

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    ピエロ・デッラ・フランチェスカ「聖十字架伝説」、アレッツォ、イタリア
    2015年11月20日 筆者撮影
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    ピエロ・デッラ・フランチェスカ「聖十字架伝説」、アレッツォ、イタリア
    2015年11月20日 筆者撮影
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    ピエロ・デッラ・フランチェスカ「聖十字架伝説」、アレッツォ、イタリア
    2015年11月20日 筆者撮影
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    ピエロ・デッラ・フランチェスカ「聖十字架伝説」、アレッツォ、イタリア
    2015年11月20日 筆者撮影
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    2015年11月20日 筆者撮影

参考文献

アンリ・フォション著 原章二 訳 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』、白水社、1997年
アレッサンドロ・アンジェリーニ著 池上公平訳 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』、東京書籍、1993年
マリリン・アロンバーグ・レーヴィン著 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』、岩波書店、2001年
石鍋真澄著 『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』、平凡社、2005年
高階秀爾著 『フィレンツェ』、中公新書、1996年
ジョルジォ・ヴァザーリ著 平川佑弘、小谷年司訳 『芸術家列伝』、白水社、2011年  

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