相模人形芝居とともに生きるひと・女流義太夫の日常から見る口承文芸ー未来へつなぐ想いー

會澤 香

はじめに
本稿は、神奈川県厚木市を中心に活動している女流義太夫[1]竹本土佐子師(以下、土佐子師匠と呼ぶ)の上演活動を通じて地域芸能と地域社会の関係を考察するものである。筆者は、郷に入りては郷に従うことを試みて、厚木市主催の郷土芸能学校[2]【5】に参加し、神奈川県の伝統民芸・相模人形芝居[3]と口承文芸・浄瑠璃[4-1]について土佐子師匠の芸談を通じ、伝承の変遷を学んだ『㊹』。そこで知りえた「共同体社会の中」で伝えられてきた芸談を考察し、文化資産として評価する。ご連中さん[5]たちの多数の優れた活動の中から、今回はあつぎひがし座[6]の活動を考察する『㊺』。また、比較対象としては、男性的であり国内外と活動範囲が広いことに注目し、勘緑師(以下、勘緑さんと呼ぶ・本人希望)と、その友人、カフェレストランShu[7]の森久保さんご夫妻にご協力を賜り、勘緑+木偶舎[8]を考察する『㊻』。

Ⅰ 基本データ『㊹』
土佐子師匠は、第二次世界大戦の最中、1942年、神奈川県厚木市下荻野【5】に生まれ、現在も変わらず、同じ土地に根ざし、芸能活動を続けている。
5歳の時【1】には、義太夫節を語りはじめ、9歳で三味線を習い、11歳で竹本土佐子を襲名【2】し、その2年後、睦合中学校時代には、プロとして活動を始めた。神奈川県立厚木東高校時代を経て、偉大な先人[9]【2】の庇護の元、娘義太夫[10]と呼ばれる時代を過ごした。のちに結婚、出産、育児を経て、職業としての女義太夫[11]の舞台を一時期離れた頃、義太夫界では画期的な出来事が起こり始める。
1950年[9]の功労により[10]、[11]の呼称はふさわしくないとし、女流義太夫[1]が誕生するも、その後20年もの時間を経て、1970年 社団法人義太夫協会が発足し[11]の地位が向上した。
1986年、3人の子育てが一段落した土佐子師匠も[1]として舞台に復帰した。理事就任を経て、2011年社団法人義太夫協会は、一般社団法人義太夫協会[12]として新たな出発を迎える。
女流義太夫演奏会[13]【3】を中心に、年12回活動する傍ら、普及部、研修部において後継者育成にも努め現在に至る。

Ⅱ 歴史的背景
江戸時代中期に生まれた、女義太夫[11]は、歌舞伎や人形浄瑠璃文楽で演奏される義太夫節に対し、役者や人形を伴わない、語りと三味線のみによる、素浄瑠璃[4-2]という形で芸が継承されてきた。[4-2]は物語の進行だけではなく、すべての登場人物の心理状態や感情を一人で語り分け、その語りは、幅広い音域や、様々な声を用い、極めて写実的に「情」を語ることが大切とされている。この義太夫節の語りに磨きをかけ、声量の豊かさ、すぐれた人間描写など、現在、男女を超えて最高峰の一人と称されたのが歴代の、前出の偉大な先人たちであり、人間国宝竹本駒之助師[14](以下、駒之助師匠と呼ぶ)も、先人に学び今があると語る『㉝』。土佐子師匠は駒之助師匠の至芸にふれる機会も多く、お二人で交わされる会話【4】の様子は、音の司の由を知る好機でもある『㊹』。次世代にと伝えられ土佐子師匠本人の口承でしか得られない至極の時として、ここに芸談の本髄を知る。

Ⅲ 地域社会への貢献
土佐子師匠は、地元厚木市での「個人の活動」として、厚木市教育委員会主催、郷土芸能学校、神奈川県立厚木東高校人形浄瑠璃部ひがし座、卒業生の、あつぎひがし座、相模人形五座にて、一つの芸事を通じて、義太夫と三味線の講師として演目指導にあたる。京都の都をどり[15]や八王子の車人形[16]、山梨の追分人形[17]、川崎の乙女文楽[18]など、地方公演の依頼も積極的に受け、後継者育成および、出演する舞台は自らプロデュースしている『㊹』。

Ⅲ-1 あつぎひがし座
土佐子師匠の母校でもある、厚木東高校の卒業生により運営されている。
前出の駒之助師匠もゆかりのある人形座である。
1971年 古くから伝わる郷土芸能、相模人形芝居[3]林座の人形浄瑠璃に親しむため、座員から指導を受け、当時の沼田芳貞先生が顧問となり、林田洋子さん(現あつぎひがし座代表)とその仲間25人の生徒によって、人形浄瑠璃同好会が発足し、その後人形浄瑠璃部となる。
1975年 林田さんは、卒業後、引き続きあつぎひがし座を結成し、以後多くの卒業生が加わり、継続的に人形浄瑠璃部の指導と後進の育成と地域の伝統文化の継承・普及に尽力してきた。当時の沼田先生は義太夫節の語り【6】を、駒之助師匠に師事していた。
1981年 入部した入江敦子さん[19]【6】は、人形遣いのみならず、その語りに憧れ、この時土佐子師匠に師事したのがきっかけで、現在まで約30年間、土佐子師匠の傍で、ご連中さんとして神奈川県義太夫連盟[20]でも活躍している『㊺』。

厚木東高校では入学後、国語の古典の授業の一環で、人形浄瑠璃入門講座を受ける。人形にも触れ、初めて人形を学ぶことができる。
そんな学ぶ環境に恵まれている厚木東高校でも、立ち上げ当時は、衣装も、人形のカシラすらなく、手先の器用な沼田先生が、手作りで用意することから始め、練習を重ねていた。
そんな中、2003年 惜しくも沼田先生が逝去された。
そこで奮起した林田代表をはじめ、入江さんたち座員が、一丸となり新作を発表するために試行錯誤を重ね、不思議な縁[21]から、勘緑師匠【6】が参加してくれることになり、その後も年に数日間を共に過ごし、演目指導を受けながら、地域に欠かせない伝統芸能へと成長させてきた。今期も2018年6月に人形浄瑠璃自主公演が【6】行われた。駒之助師匠の地元、秦野市内の小学校においては、6年生を対象に、人形浄瑠璃講座を開催している。 神奈川県人形芝居では、あつぎひがし座以外、44回に及ぶ自主公演を開催している座は、他にない『㊷』。

土佐子師匠の「共同体社会の中」とは上記が現在の活動範囲である。約70年間、義太夫節を口承しながら過ぎていく日常を、当たり前の日々として生活している。
活字にすればこの通り、だがその苦労は、一般人の筆者の想像を簡単に超える。
約1年8か月の稽古の時間を振り返るも、土佐子師匠から聞く芸談に、恨み節がでることはなく、これこそが、筆者が知る、土佐子師匠の包容力の理由であり「娘時代に先代の師匠に大切に育てられてきたからそれを、伝えているだけ」という土佐子師匠の年代の人、特有の、女流義太夫が育んできた「共同体社会の中」の特徴だと推察し高く評価する『㊹』。

Ⅳ 比較対象 勘緑+木偶舎[8]の活動
大阪府を拠点に、文楽人形の可能性を追求して文楽座を辞し、国内外の交流を通じて創り上げる公演を続け、農村舞台復活などかつての芝居文化の再生を目指し、幅広いジャンルとの融合舞台を手掛け、新作の脚本・演出も行っている。
2011年以降、東北地方の震災被害より被災地復興支援に積極的な活動を展開している『㊻』。[22]【8】

Ⅴ 今後の展望との出逢い
アーティストが何故か集まるという地域、神奈川県相模原市藤野町[23]での、知る人ぞ知る、カフェレストランShu【7】の森久保夫妻と筆者の偶然の出逢いから、勘緑さんが、大石神社に浄瑠璃を奉納【7】していたことを知る。前出のあつぎひがし座との不思議な縁[21]【6】といい「勘緑さんは不思議な方だ」という入江さんとの会話の中、筆者も同一の印象をもつことになる。それは、勘緑さんが描く、オリジナルの浄瑠璃の世界【8】の登場人物マレビト【8】が一様ならざる心情の描写を遺憾なく発揮させていたからで、筆者が、初めて鑑賞した、女流義太夫演奏会【3】時の、土佐子師匠の気迫に迫る、舞台の様子に震撼したことを思い出させた。

そんな勘緑さんが見せてくれる活動は、父なる想いとして、反戦・反核を目指し、子供たちを守れる世界へ、と発信してくれる存在である。土佐子師匠の活動範囲にはないことだが、土佐子師匠たち[1]が、日本語による「未来へつなぐ想い」を語ることで、勘緑さんと人形に通じ、それは多言語共通の表現となり、つぎつぎに芸術が世界共通であることを教えてくれた。

土佐子師匠たちが得意とする、相互扶助をもたらすであろうという予測とともに、この気づきは「慢心せずに芸の道を歩みたいという」土佐子師匠の言葉を胸に、日本の伝統芸能の基底に、子も親を想う相互の祈りがいつもあるかぎり、この芸事を続ける上で何より心強いことだと考察する。
以上、今後の希望とともにまとめとする。

  • %e3%80%901%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【1】竹本土佐子師匠 本名・林ミチヨさん

    1942年 神奈川県厚木市下荻野生まれ
    1948年 竹本土佐尾師に入門
    1960年 竹本綾之助・2代目の門人となる[9]
    1986年 竹本土佐廣師の門人となる[9]
    2000年 重要無形文化財義太夫節[26]総合指定保持者に認定
    2005年 豊竹嶋大夫師の門人となる[27]
    2012年 旭日双光章受章[28]
    2013年 厚木市文化彰受賞[29]
    現在、一般社団法人義太夫協会[12]義太夫節保存会に所属

  • %e3%80%902%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【2】偉大な先人とともに
    土佐尾師匠は土佐子師匠の実家に身を寄せて暮らしていた。
    2代目綾之助師匠と娘義太夫時代の土佐子師匠
  • %e3%80%903%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【3】女流義太夫演奏会とお江戸日本橋亭
  • %e3%80%904%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【4】長年の功労とともに
    後継者育成に努めた結果の表彰式にて。
    駒之助師匠とお二人で会話を交わされる様子。
  • %e3%80%905%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【5】厚木市
    厚木市文化受賞彰
    2018年度、厚木市主催の郷土芸能まつり(郷土芸能学校生徒参加)の様子。

    2005年あつぎ市制50周年記念誌『㉒』は入江敦子さんの提供による。
    当時を知る、貴重な資料から一部転載させて頂いた。
  • %e3%80%906%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【6】あつぎひがし座
    1981年 入部した入江敦子さん[19]
    不思議な縁[21]から、勘緑師匠の稽古が始まる。
  • %e3%80%907%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【7】カフェレストランShu
    神奈川県相模原市藤野町[23]での、知る人ぞ知る、カフェレストランShu。
    勘緑さんが、大石神社に浄瑠璃を奉納していた頃の様子。
  • %e3%80%908%e3%80%91_pages-to-jpg-0001 【8】勘緑+木偶舎
    2011年以降、東北地方の震災被害より被災地復興支援に積極的な活動を展開している『勿来なこその希望 鎮魂際』の舞台責任者として、コーディネート・演出・出演の担当。[22]
    Facebookとクチコミによる活動を基本としている。

    オリジナルの浄瑠璃の世界。登場人物マレビトは
    「勘緑 秋のツアー2018 この地球に生まれてこれから先どない生きんねん!」の
    登場人物である。『㊴』より

    ふくしま応援ツアー2019
    木偶舎 音楽人形芝居 この地球(ほし)に生まれてvol.Ⅱ
    「The Nest」
    上記、今後の活動予定をホームページより引用別途資料作成し添付。「勘緑師匠了承」

参考文献

[注釈]
[註1]女流義太夫
『③』P160 女流義太夫誕生より
『素女物語』の著者守義雄氏[9]が名付け親となって、[註10]娘義太夫[註11]女義太夫といった呼称を、女性蔑視にあたる言葉として見直し、女流義太夫という新たな呼称を提唱した。戦後の女義復興の父として記されている。

[註2]郷土芸能学校
『㉕』伝統芸能を語り継ぐより
郷土芸能の普及と継承を目的に2004年から実施し、延べ282人が学んでいます。
これまでに義太夫語り、三味線、相模人形芝居、伊勢十二座太神楽獅子舞、相模里神楽の後継者の育成に取り組んできました。
『㉜』2018年 第16回 厚木市郷土芸能まつり ホームページより (公開日:2018年11月11日)
https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/wadai/machi/d043305.html
筆者は、神奈川県厚木市主催【平成30年度 第16回 郷土芸能まつり 11月10日】に
義太夫節語り手として初舞台に参加。

[註3]相模人形芝居・相模人形五座
『13』P4 相模人形五座についてより
厚木市・林座、長谷座
小田原・下中座
平塚市・前鳥(さきとり)座
南足柄市・足柄座

[註4-1]浄瑠璃・じょうるり
『㉚』浄瑠璃・じょうるりより
三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。平曲、幸若、説経などの語り物の影響を受け、『浄瑠璃十二段草子』 (『浄瑠璃姫物語』ともいう) が 15世紀後半までに成立し、好評を博した。これにより浄瑠璃という新しい語り物が生れ、琉球から渡来した三絃、および傀儡師 (かいらいし) の人形と結びついて、16世紀末~17世紀初めに舞台芸術としての人形浄瑠璃が成立した。以後古浄瑠璃時代を経て、17世紀末、竹本義太夫と近松門左衛門により浄瑠璃の主流としての義太夫節が生れ、『曾根崎心中』『心中天の網島』など、近世庶民の生活を描く世話浄瑠璃に傑作が続出した。義太夫、近松の死後もその後継者により、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの時代物傑作が作られ、人形浄瑠璃は歌舞伎をしのぐほどの隆盛をきわめたが、18世紀中期以後は発展が止り、古典化した。このほか、豊後節の系統をひく常磐津、富本、清元、新内などは、歌舞伎の劇場音楽として、あるいは座敷浄瑠璃として近世後期、江戸で発達した。また、江戸の古浄瑠璃の系統をひく河東節や、京都における豊後節以前の浄瑠璃である一中節、あるいは豊後系の宮薗節などは、いずれも江戸においておもに座敷浄瑠璃として行われ、現在では古典として扱われている。
[4-2]素浄瑠璃・すじょうるり
太夫と三味線のみで、演技者・人形を伴わない浄瑠璃の演奏形式。義太夫節では元来、三味線なしに語ることを素語り、素浄瑠璃と呼んだが、元禄年間 (1688~1704) 頃から今日のような形式をいうようになり、しろうと浄瑠璃や女義太夫も含め広く行われた。演奏だけで戯曲のすべてを表現しなければならず、また聴衆の視線が集中するため、演者にとっては修業になる。第2次世界大戦以前は素浄瑠璃のみでの巡業も盛んに行われた。

[註5]ご連中さん
『㉞』れんじゅう【連中】より
歌舞伎用語。(1)俳優を後援する観劇団体。見連(けんれん),組,組見(くみけん)ともいう。上方では古くから手打連中というものがあり,顔見世のときには一座の俳優に進物を贈り,茶屋の軒には連中の印のある箱提灯をかけ,揃いの頭巾をかぶって奇妙な手を打った。なかでも享保から安永にかけて(18世紀),次々とできた大坂の〈笹瀬〉〈大手〉〈藤石〉〈花王(さくら)〉のいわゆる四連中が有名である。京都の〈笹木〉,名古屋の〈真蘇木(まそぎ)〉〈花岡〉〈大笹〉の三連中などはいずれも大坂の手打連の模倣であった。

[註6]あつぎひがし座
『㊷』『㊹』『㊺』より

[註7]カフェレストランShu
『㊺』『㊻』『㊼』より

[註8]勘緑+木偶舎
『㊺』『㊻』『㊼』より
本名・松浦英人さん
1955年 徳島県池田町に生まれ、徳島県立城北高校(民芸部人形遣)卒業。
早稲田大学文学部入学後演劇を専攻、中退。
1977年 人形浄瑠璃文楽座技芸員になる。
1979年 人間国宝・二世桐竹勘十郎に入門、同年7月、朝日座で初舞台。
1986年 人間国宝・三世吉田簑助の門下となり、各地で自然との融合や、他ジャンルの音楽 演劇との接点を文楽人形に可能性を求め活動する。

[註9]偉大な先人
『③』『④』『㉝』『㉟』『㊸』『㊹』より
守義雄氏
『素女物語』、蒼林社、1954年の著者。[1]にて前出。
竹本綾之助・2代目
https://kotobank.jp/word/竹本綾之助-1361183
竹本素女(もとめ)
https://kotobank.jp/word/竹本%20素女-1648808
竹本土佐廣
https://kotobank.jp/word/竹本%20土佐広-1648801
本牧亭
ほんもくてい
東京の上野にある演芸場。安政4 (1857) 年「軍談席本牧亭」として営業を始めた。 1876年鈴本演芸場と名を変え,色物席 (寄席) になった。 1950年鈴本演芸場の近くに講談定席「本牧亭」を復活。釈場と呼ばれる講談専門の演芸場として唯一の存在であったが,講談人口の減少とともに昼間は講談定席,夜は落語,義太夫,奇術などの貸席という形をとって興行を維持。 72年 11月に改築されたが,90年1月 10日を最後に閉場。名前だけが残されて,92年池之端の料理屋2階に貸席として復活した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/本牧亭
お江戸日本橋亭
http://www.ntgp.co.jp/engei/nihonbasi/index.html

[註12]一般社団法人義太夫協会
『㉞』より

[註13]年12回女流義太夫演奏会
『㉞』より

[註14]竹本駒之助
『㉝』より

[註15]都をどり 2018年4月14日筆者鑑賞
『㉘』『㉙』より
京都に春を呼ぶ風物詩「都をどり」は、京都最大の花街・祇園甲部の芸妓・舞妓による舞踊公演。
開催期間は4月1日から約1ヵ月。名高い「ヨーイヤサー」の掛け声とともに銀襖の前の総をどりで幕を開け、爛漫の春、夏、錦秋の秋、深雪の冬、そして再びの春の花見で幕を閉じる華やかな舞台は、明治5年の創始からの伝統です。
会場は祇園甲部歌舞練場を本拠地としていましたが、現在は耐震改修のため休館となり、舞台を移して開催しています。

[註16]八王子の車人形
『㉓』より
[註17]山梨の追分人形
『㊶』より
http://www14.plala.or.jp/sasanoko/sasago/ningyo/oiwakeningyo.htm

[註18]乙女文楽 公益財団法人現代人形劇センター
『㊵』より
http://www.puppet.or.jp/

[註19]入江敦子さん
『㊺』
2018年10月8日、11月10日、2019年1月13日、19日全4回筆者インタビューより

[註20]神奈川県義太夫連盟
『㊹』『㊺』
2018年10月8日、11月10日、2019年1月13日、19日全4回筆者インタビューより
土佐子師匠のご連中さんにより運営されている組織である。
相模人形5座の座員と、あつぎひがし座員により主に活動している。

[註21]不思議な縁
『㊺』1月19日筆者インタビューより
ある日、厚木市内の某大学の学生(徳島県立城北高校の卒業生)より、問い合わせがあり、人形芝居をやっているなら勘緑さんを紹介すると言われて以来の関係。その学生は偶然勘緑さんの後輩だったとのこと。

[註22]東北復興活動
『㊴』より

[註23]藤野町
『⑱』『⑲』『㉑』『㊼』『㊽』より
かつて画家の藤田嗣治たちが疎開していた町。
㊽樫 徹企画『藤野に疎開した画家たち』、映像プロ21、2000年は、当時を知る、貴重なドキュメンタリー動画資料である。

[註24]大石神社奉納
『⑱』『⑲』『㉑』『㊼』『㊽』より

[註25]マレビト
『㊴』より

[註26]重要無形文化財義太夫節総合指定保持者
『㊲』より

[註27]豊竹嶋大夫師匠
『㊳』より

[註28]旭日双光章(きょくじつそうこうしょう)
『㊳』より
日本の勲章の一つで、旭日章(きょくじつしょう)6つのなかで5番目に位置する。2002年(平成14)8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲五等双光旭日章」から勲五等が省かれ現在の名称になった。翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、対象者は、公職では政令指定都市以外の市長、特別区の区長、町村長、都道府県議会議員、市議会議員、特別区の議員、町村議会議員、公益団体では都道府県区域を活動範囲としている団体の長、全国または都道府県の区域を活動範囲としている団体の役員、市町村の区域を活動範囲としている団体の長、企業経営者では国際的に高い評価を得た企業や技術がとくに優秀な企業の最高責任者である。伝達は所管大臣が行うが、総務省および厚生労働省関係は都道府県知事が行う。◇英訳名はThe Order of the Rising Sun, Gold and Silver Rays。

[註29]厚木市文化受賞彰
『㉖』より
厚木市表彰条例の文化分野における最高表彰。学術、化学、教育、芸術、体育などで市民文化の向上発展に大きく貢献し、その功績が卓絶した方に贈られます。


『参考文献/参考URL』
①矢内賢二編『日本の芸術史 文学上演篇Ⅰ 歌、舞、物語の豊かな世界』、藝術学舎、2014年
②矢内賢二編『日本の芸術史 文学上演篇Ⅱ 近世からの開化期の芸能と文学』、藝術学舎、2014年
③水野悠子著『知られざる芸能史 娘義太夫 スキャンダルと文化のあいだ』、中公新書、1998年
④林芳樹著『女義太夫一代 豊竹団司じょうるり人生』、神戸新聞出版センター、1988年
⑤七海友信著『歌舞伎・文楽の 見方が面白いほどわかる本 たちまち通になる!』、中経出版、2003年
⑥藤田洋編『文楽ハンドブック』、三省堂、2003年
⑦神田由築著『江戸の浄瑠璃文化』、山川出版社、2009年
⑧高木秀樹著『あらすじで読む文楽50選』、世界文化社、2015年
⑨後藤淑監修『マイウェイNO.23相模人形芝居物語』、はまぎん産業文化振興財団、1996年
⑩松田礼子著『あつぎひがし座 おんなたちの人形浄瑠璃松田礼子写真集』、東京印書館、2004年
⑪神奈川県県民部文化室企画『かながわ舞台芸術工房 NO.2』、神奈川芸術文化財団、1997年
⑫あつぎひがし座編『あつぎひがし座創立四十周年祈念このあしあとが未来を拓く』、あつぎひがし座、2015年
⑬昭和女子大学光葉博物館、武田昭子、小泉玲子、有路素子、佐藤紘子、大谷津早苗編『相模人形芝居の世界』、昭和女子大学光葉博物館、2016年
⑭大谷津早苗著『相模人形芝居五座聞書き戦後の様子と鉄砲ざし』、昭和女子大学文化史学会、2017年
⑮藤田洋監修『学科百科・はじめてみる伝統芸能③文楽』、クロスロード、1989年
⑯後藤静夫著『人形芝居と文楽 日本の伝統芸能4』、小峰書店、1995年
⑰土門拳著『土門拳全集6 文楽』、小学館、1985年
⑱藤野町文化財保護委員会編『ふじ乃町の芸能』、藤野町教育委員会、1987年
⑲藤野町企画課編『DearFUJINO藤野町50周年記念誌50年めの 手紙あたらしい春を待って』、藤野町企画課、2005年
⑳土田衛校注『新潮日本古典集成 浄瑠璃集』、新潮社、1985年
㉑近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』、講談社、2006年
㉒市政企画部広報課編『時の贈り物 未来へのメッセージ 2005厚木市制50周年記念誌』、厚木市、2005年
㉓八王子市市史編集専門部会民俗部会編『新八王子市史民俗調査報告書 第1集 八王子市西部地域 恩方の民俗』、八王子市総合政策部市史編さん室、2012年
㉔廣瀬久也著『人形浄瑠璃の歴史』、戎光祥出版、2001年
㉕厚木市教育委員会編『厚木市教育委員会だより Edu Navi』、厚木市教育委員会、2018年
㉖厚木市編『平成25年厚木市市民文化表彰式アルバム』、厚木市、2013年
㉗神田由築著『江戸の浄瑠璃文化』、山川出版社、2009年
㉘祇園甲部歌舞会発行『都をどりin春秋座パンフレット』、2018年
㉙『都をどり』、
http://miyako-odori.jp/
㉚『コトバンク ブリタニカ国際大百科事典小項目事典』、
浄瑠璃
https://kotobank.jp/word/浄瑠璃-79997
素浄瑠璃
https://kotobank.jp/word/素浄瑠璃-171119
㉛『一般社団法人義太夫協会』、
https://www.gidayu.or.jp/
㉜『厚木市広報』、
https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/wadai/machi/d043305.html
㉝『神奈川芸術劇場KAAT 竹本駒之助 女流義太夫一代記』、
ttp://www.kaat.jp/
http://www.kaat.jp/d/komanosuke10
㉞『コトバンク 世界大百科事典 第2版の解説』、
ご連中
https://kotobank.jp/dictionary/sekaidaihyakka/
㉟『コトバンク 新撰芸能人物事典』、
2代目竹本綾之助、
https://kotobank.jp/word/竹本%20綾之助%282代目%29-1648778
竹本素女、
https://kotobank.jp/word/竹本%20素女-1648808
竹本土佐廣、
https://kotobank.jp/word/竹本%20土佐広-1648801
㊱『神奈川新聞』2013.10.30、
http://www.kanaloco.jp/sp/article/62207
㊲『独立行政法人日本芸術文化振興会デジタルライブラリー 』、
https://www.ntj.jac.go.jp/bunraku.html
㊳『文化庁』、
http://www.bunka.go.jp/index.html
㊴『木偶舎』、
http://www.mokugusha.com/
『勘緑+木偶舎フェイスブック』、
https://www.facebook.com/木偶舎-1446221355596835/
https://www.facebook.com/100002187751297/posts/1925919387490968/
㊵『公益財団法人現代人形劇センター乙女文楽』、
http://www.puppet.or.jp/puppetArchives/catarchive/001/120/121/
㊶『山梨の追分人形』、
http://www14.plala.or.jp/sasanoko/sasago/ningyo/oiwakeningyo.html
㊷『厚木東高校 校長たより』、
http://www.atsugihigashi-h.pen-kanagawa.ed.jp/06_ko-cho-letter/ko-cho-2.html
㊸仲野マリ著『「女流義太夫」を知っていますか?』、
http://www.nakanomari.net
㊹『土佐子師匠インタビュー』、
2017年6月10日~2019年1月20日、全44回
㊺『入江さんインタビュー』、
2018年10月8日、11月10日、2019年1月13日、19日全4回
㊻『勘緑さんインタビュー』、
2019年1月4日電話にてインタビュー、1月8日、22日メールにてインタビュー全2回
㊼『カフェレストランShu』、
http://cafe-shu.com/
『森久保夫妻インタビュー』、2018年12月27日、30日、2019年1月3日、5日全3回。
㊽樫 徹企画『藤野に疎開した画家たち』、映像プロ21、2000年

凡例
◎年号は西暦表記にて記載する。
◎カッコの使用目的と表記内容については以下の通りとする。
 [注釈]、『参考文献』、【キャプション】
◎人形浄瑠璃・文楽が発生・成立した時代背景や、古典芸能の芸術性といった側面を鑑みて、今日では人権を守る立場から好ましくない表現の一部を、削除・訂正を行わず、採用した箇所もある。
◎太夫・三味線・人形遣いの名前については、平成31年1月現在の名前で示している。
◎古典芸能の、各呼称の表記は『参考文献』②③㉛㊲の表記を基準に引用している。
◎添付写真については、竹本土佐子師匠と入江敦子さんが、自ら貸し出してくださったアルバムから筆者が転写したものを「土佐子師匠提供」、「入江さん提供」、と表記して転載している。
◎勘緑師匠からメールにて送付頂いた資料および、ホームページ、Facebook掲載写真・資料は転載の許可をもって、「勘緑師匠了承」、と表記して転載している。

◎末筆をもって、本稿取材のために御協力頂きました、関係者へのお礼の言葉として、この場をもちまして厚く御礼申し上げます。このたびは誠にありがとうございました。

年月と地域
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