飯田市の松川入佐倉神社―信仰の移り変わりと継承のありかた―
はじめに
長野県飯田に日本で最古の佐倉神社がある。千葉県佐倉が由来の神社がなぜ飯田にあるのか。
飯田は筆者の夫の実家があり、先祖代々語られてきた事柄がいくつかある。ご先祖様の中村玄俊と佐倉様とのつながり、地域での信仰の変化や創建からどのように継承されてきたのか考察する。
1.基本データと歴史的背景
飯田市上飯田字實山に松川入佐倉神社(通称佐倉様)がある。飯田から大平峠を越え、木曽へ抜ける県道飯田―幸助線(大平街道)沿いの松川ダムの傍ら左岸の高山に祀られている。〈資料1〉
創建(伝承)万治3年(1660)~延宝5年(1677)の間とされ、日本最古の佐倉様である。佐倉様の由来は、江戸初期、下総国佐倉藩(千葉県成田市)の義民佐倉惣五郎(本名は木内惣五郎)の霊を祀った神社である。
佐倉藩の農民は凶作と重税に苦しみ、名主の木内惣五郎が佐倉藩に救済を訴えたが退けられ、将軍の徳川家綱に単独で直訴した。税は減免となったが、将軍直訴は重罪であり、承応2年(1653)佐倉藩主堀田正信は惣五郎を磔、惣五郎の息子4人も打ち首、処刑されたと伝えられる。その後正信は幕府を批判し、無断で江戸藩邸から佐倉へ帰ってしまった。この行為は狂気の沙汰と判断され、万治3年(1660)改易(領地没収)された。(1)(4)
正信は実弟、飯田藩主(長野県飯田市)脇坂安元の養嗣子となった脇坂安政に預けられた。城内に居住する13年間、正信の息女の具合が良くないことや惣五郎の事件を気に病み神経衰弱症の発作的狂暴が現れたと伝えられている。〈資料2〉正信を心配した夫人が脇坂の御典医中村玄俊に診察を受け相談し、城内に祠を建て惣五郎の霊を祀って祈念された。精神療法で信仰心の篤かった玄俊が夫人へ進言したと言われている。飯田城屋敷内に建てた祠が松川入佐倉神社の起源になる。(2)(5)〈資料4〉
寛文12年(1672)脇坂安政の播州龍野(兵庫県)へ転封により、正信は若狭小浜(福井県)に預け替えとなって去り、玄俊は藩の許しを得て松川沿岸を開拓し、職を弟に譲って土着した。そして祠の下げ渡しを許され、屋敷内に祀ったと中村家に先祖代々伝わる。(6)(14)土着した理由として、元和3年(1617)に伊予大洲(愛媛県)から安政の父安元侯についてきた中村家として、飯田で没した安元の地に残ると考えたと推測される。
中村家で佐倉様を祭祀すること43年後、玄俊の子源左衛門の時、正徳5年(1715)6月、松川大氾濫の未満水(15)で屋敷や開墾した田畑全財産を流失したが、一家は危難を免れ、奇跡的に佐倉様の祠のみ300m下流の中瀬の右岸に漂着して無事だった。その場所に安置され、以後この付近一帯をさくら瀬と呼ぶようになった。(3)(14)〈資料3〉松川入りから落とし木(16)を伐採して松川を川下げする山仕事の人々がさくら瀬を通る時に佐倉様としてお神酒を供えて川下げの無事を祈り、水難除けの神様として拝むことを慣習として100余年続けてきた。弘化2年(1845)頃は荒廃していたといわれる。40年後の明治16年(1883)、事実と伝承を知っていた落とし木仲間で相談し、当時の作業地である松川の押ノ沢山で落石が多かったため、朝夕遠くの作業小屋から佐倉様を拝むことができるよう対岸の高山の實山の地に祠を移した。(資料1)人々の危難は避けられ、無事が続いたことから年々祭祀が盛んになって神殿は立派になり、さくら瀬の佐倉様を松川入佐倉神社として復興した。(7)(10)
明治17年(1884)9月、落とし木大仲間の代表が千葉県の東勝寺宗吾霊堂へ参拝し、霊府(宗吾の戒名「徳満院涼風道閑居士」)を受けて帰った。その霊府を石に彫って竣工し、大仲間で遷霊祭を盛大に行われた。(8)佐倉惣五郎の真相を知るまで、どのような御神体が祀られているのか忘れさられていたが、信仰は集めていた。
昭和16年~20年(1941~1945)太平洋戦争中は、飯田付近の出征軍人、遠方からも兵士の無事を祈願する人々が多く訪れ、奉納する旗で山は真白になったと伝わる。
昭和56年(1981)頃は松川ダムと共に遊覧地でもあり信仰のお社として有名だった。(9)
現在、神社の本殿には宗吾の戒名が刻まれた高さ1m余りの石塔と、祠に収められた宗吾霊像が安置されている。〈資料1〉〈資料4〉
2.評価している点
佐倉様を祀る最古の松川入佐倉神社は約360年の時の流れの中、数々の災難や途絶える危機があり、神様のかたちや信仰の移り変わりがあっても途絶えることなく継承されていることを評価する。
惣五郎の祟りを鎮めるための祠から始まり、中村玄俊の屋敷内に移ってから佐倉様と称えて祭祀し、やがて松川の未満水によって全財産を失ったが、奇跡的に祠のみ下流の中瀬に流れ着いたところで安置され、松川入りの山仕事に通う人々が危難水難避けの神様として崇めた。その後この付近一帯をさくら瀬と呼ばれるようになったことから佐倉様が知られていたことがわかる。祠自体は難を逃れ、危難水難の神、山の神として信仰され、戦時中は兵士の無事を祈り、かたちを変えながらさまざまな人々に信仰されている。
3.比較して特筆される点
佐倉神社、霊堂は全国にいくつかある。〈資料5〉
千葉県成田市の鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂は佐倉惣五郎が祀られ菩提寺であり、全国の宗吾信仰の中心である。起源や信仰を比較する。〈資料6〉
江戸初期、下総佐倉領の印旛沼群公津村の名主惣五郎は、領主の重税に苦しむ農民のために改革を働いた義民として世に知られるようになった。(7)惣五郎の史料は少なく不明なことが多い。江戸時代に全国で百姓一揆は多く発生し、農民を助けた一揆の象徴として伝説化した物語が多くつくられ、事実と物語の区別がつかずに継承されている。しかし、松川入佐倉神社の起源から惣五郎が実在したことは明確である。元禄3年(1690)写本『地蔵堂通夜物語』からはじまり『佐倉義民伝』など多くの惣五郎を扱った物語は歌舞伎、浄瑠璃、芝居の上演で全国に広まっていった。
惣五郎の処刑から100年後の宝暦2年(1752)、100回忌供養をしている。時の佐倉藩主堀田正亮(正信の弟の孫)は、堀田家が再び佐倉藩主になるにあたって過去の失政を悔い、惣五郎の処刑を免れている娘の子孫を探し手厚く保護して惣五郎の名誉回復をはかった。佐倉藩は、惣五郎「宗吾道閑居士」のちに「涼風道閑居士」の戒名を贈り、東勝寺に父子の宗吾塚をつくり、管理するように指示、宗吾様を祀るようになった。領民の佐倉信仰により多くの人が参拝した。将門山入口にある口ノ宮神社にも改めて宗吾霊を祀った。(11)(12)
戒名である宗吾を使われている神社・霊堂は全国に広まってから信仰されたと考えられる。東勝寺の宗吾霊堂も惣五郎を祀っているが、処刑から100年の空白後、再び堀田家が藩主になるため佐倉義民伝を名誉回復する指示を出し、政治的な意図がある。信仰の歴史に違いがあり、松川入の佐倉様が永く継承されていることは特筆するべきと考える。
4.今後の展望
中村玄俊末裔である筆者の義父から語られたことや、郷土史資料をもとに現地調査することで点と点がつながった。未満水で屋敷を流された後、高台に移動した中村家の敷地内には、宝永3年(1706)に没した玄俊の墓「中村玄佐功徳塔」(高さ115cm幅56cm)がある。〈資料3〉墓石に刻まれた消えゆく文字とともに記憶も薄らいでいる。ご先祖様が未満水の被害にあったことは不運だが、祠が流されたことで地域に佐倉様が広がり信仰され、玄俊の末裔になる筆者の夫まで継承されていることは運の強い神様なのだろう。
現在中村家の敷地内に氏神様の祠があり、祀られている6つの神様に佐倉霊堂も含まれている。(13)〈資料3〉祠はいつ頃つくられたかは不明だが、未満水で佐倉様の祠が流された後、ご先祖様が再び屋敷内につくって祀ったのだろう。神社の歴史を知るとともに先祖を知る意義があった。今後も佐倉様に感謝し、先祖が守り続けた祠を大切に継承する。
5.まとめ
松川入佐倉神社創建から現在まで約360年経過の中、神社は祠の場所や信仰の変化、進化、衰退、復興を繰り返し継承されている。
神社の場所は山の中で地域の人でも簡単に参拝に行ける場所ではない。2023年元旦から3日間の芳名帳に記帳されていたのは7組で、現在は細々と信仰されている。
地域から遠くに住む筆者にできることは、義父から語られた内容を明確にし、文章に記すことで信仰を継承していく。
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〈資料1〉松川入佐倉神社
①松川入佐倉神社 本殿
②入口 佐倉神社石塔
③鳥居
④鳥居~本殿の間 山を登って鳥居を見下ろしたところ
⑤本殿
⑥向こう岸の山(押ノ沢山)、現在下は松川ダム
⑦山神様祀られている
⑧本殿(奥左)明治17年宗吾分霊
⑨本殿(奥右)伐採大仲間、中村玄俊末裔の中村源吾の名あり。(筆者夫の曾祖父)
⑩本殿 宗吾の戒名「徳満院涼風道閑士」高さ1m余りの石塔と祠に収められた宗吾霊像が安置されている。
①~⑩ 2023年1月3日 筆者撮影 -
〈資料2〉長久寺・正永寺
⑪神護山 長久寺、享禄3年(1530)創建
⑫史跡 飯田城主墓所
⑬脇坂安元侯の墓(安政の父)承応2年(1653)城内没
⑭脇坂安元の墓 五輪塔
⑮圜悟山 正永寺、応永15年(1408)創建、中村玄俊の菩提寺、
⑯堀田正信息女2人の墓 五輪塔
息女は体が不自由で正信が若狭につれて行くことができず、典医中村玄俊が預かったと伝わる。(14)
⑪~⑯ 2023年1月3日 筆者撮影 -
〈資料3〉中村家墓・祠
⑰羽場公園 曙の里・名所・旧跡マップ案内板
⑱羽場公園 佐倉神社案内版
⑲中村玄俊夫婦の墓石 活功徳塔(左)
戒名:嘉心玄佐居士 宝永3年(1706)没、寿林貞久寿位 正徳5年(1715)没
⑳氏神様 紙垂立て 宇加魂大神、佐倉霊神、三峰山、若宮、山神、水神
㉑中村家敷地内 氏神様の祠
㉒さくら瀬 未満水で祠が漂着して安置された場所
㉓飯田城跡地 赤門
⑰⑱2020年5月6日、⑲~㉓2023年1月3日筆者撮影 -
〈資料4〉飯田市地図
①松川入佐倉神社
②中村玄俊の墓
③さくら瀬 未満水で祠が漂着して安置された場所
④飯田城跡地
⑤曹洞宗 正永寺 堀田正信息女の墓
⑥臨済宗妙心寺派 長久寺 脇坂安元の墓
―佐倉神社の祠の形跡―
④飯田城内に祠を祀ったのが起源→②中村玄俊元屋敷の祠があった位置に近い→③未満水で漂着して安置された場所→①現在の松川入佐倉神社
地図:国土地理院 引用 番号筆者記入 2023年1月21日閲覧 -
〈資料5〉全国の佐倉神社・霊堂
表:惣五郎をまつる神社・霊堂・祠・石塔一覧
(17)滝口昭二著者・発行『惣五郎はいかに語られたか』2022年、8頁、引用 -
〈資料6〉東勝寺・宗吾霊堂
鳴鐘山東勝寺
㉔東勝寺 宗吾霊堂境内入口
㉕宗吾霊堂 本堂
㉖宗吾霊堂父子の墓、処刑された佐倉宗吾と4人の子供の墓
㉗宗吾御一代記館 宗吾の生涯を等身大人形で再現
㉘直訴の場(11景)佐倉騒動の発端から直訴、処刑までを等身大人形66体で13場面配置してある。
㉙東勝寺宗吾霊堂境内図
㉚将軍へ渡したとされる直訴状
㉛惣五郎の子孫宛て、木内家再興に付、堀田家よりの御墨
㉔~㉗ 2022年12月18日 筆者撮影
㉘㉚㉛宗吾御一代記館 絵葉書 引用
㉙東勝寺宗吾霊堂境内図 引用
参考文献
注釈
(1)(2)(3)『飯伊地区 産業経済動向No413』飯田信用金庫経営相談所、2013年、(1)8~9頁、(2)10頁、(3)11頁
(4)(5)(6)(7)羽場曙友会誌編集委員会編『羽場曙友会誌』羽場曙友会生産森林組合、1984年、(4)265頁、(5)266頁、(6)69頁、(7)262~263頁
(8)(15)羽場公民館建設30周年記念事業 羽場の昔を学ぶ会編『私たちの曙の里』羽場まちづくり委員会、2010年、(8)104頁、(15)113頁
(9)(10)羽場公民館高齢者教室運営委員会編集・発行、『曙の里 第1号』1981年(9)19頁、(10)21頁
(11)(16)滝口昭二編『惣五郎研究』1~20号、船橋地名研究、2017~2019年、(11)11号、7頁、(16)9号、2頁
(12)(17)滝口昭二著者・発行『惣五郎はいかに語られたか』2022年、(12)36、37頁(17)
8頁
(13)羽場の昔を学ぶ会編集・発行『羽場の石造文化財』2012年、24頁
(14)語り:中村玄俊末裔 中村和市(筆者の義父)
(15)未満水:正徳5年(1715)長野県伊那地方の大水害。飯田藩7800石余の田畑が流され、死者32人、流失家屋118軒、流死馬6匹。伊那谷では「あばれ天龍未年の満水」と言われ、過去の大洪水の多くは未年にみられ、未年には必ず大水害があると言い伝えられている。
(16)落とし木:職人が材木をいかだに組んで下流方面に運ぶ河川交通路として利用していた。松川は天竜川の支流で急流なため、危難水難除けを祈った。
参考資料・参考文献
『飯伊地区 産業経済動向No413』飯田信用金庫経営相談、2013、http:www.iidashinkin,co,jp 2022/1/17閲覧
宗吾霊堂・宗吾御一代記館パンフレット
鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂境内図
羽場曙友会誌編集委員会編『羽場曙友会誌』羽場曙友会生産森林組合、1984年
羽場公民館建設30周年記念事業 羽場の昔を学ぶ会編『私たちの曙の里』羽場まちづくり委員会、2010年
羽場の昔を学ぶ会編集・発行『羽場の石造文化財』2012年
原田島村編 郷土誌『伊那』伊那史学会、1968年
村沢武夫編『脇坂候と伊那谷文化』伊那郷土史刊行会、1972年
羽場公民館高齢者教室運営委員会編集・発行、『曙の里 第1号』1981年
長田牛狂著『実説 佐倉宗吾伝』宗吾御一代記館、1967年
滝口昭二編『惣五郎研究』1~20号、船橋地名研究、2017~2019年
滝口昭二著者・発行『惣五郎はいかに語られたか』2022年
飯田市美術博物館編集・発行『飯田城ガイドブックー飯田城とその城下町を探ろうー』2010年
飯田市美術博物館編集・発行、特別展『城下町飯田と飯田藩』2022年
飯田市美術博物館 柳田國男記念伊那民俗研究所編集・発行『飯田市地域史研究事業・民俗報告書6 飯田・上飯田の民俗1』2013年
飯田市美術博物館 柳田國男記念伊那民俗研究所編集・発行『飯田市地域史研究事業・民俗報告書7 飯田・上飯田の民俗2』2018年
飯田市歴史研究所編『描かれた上飯田―明治初期の地引絵図をよむー』飯田市教育委員会、2014年
飯田市歴史研究所編『飯田・上飯田の歴史 上巻』飯田市教育委員会、2014年
飯田市歴史研究所編『飯田市歴史研究所 年報19号』飯田市教育委員会、2021年
児玉幸多著、日本歴史学会編『佐倉惣五郎』吉川弘文館、1985年
西野辰吉著『地蔵堂通夜物語』勉誠社、1996年
藤沢衛彦著『日本の伝記』河出書房新社、2019年
海音寺潮五郎著者代表『日本史探訪 第12集』角川書店、1974年
山路愛山著『明治文学全集 山路愛山集』筑摩書房、1989年
組本社編『江戸時代 人づくり風土記』社団法人 農山漁村文化協会、1990年
佐藤和彦監修、小桜浩子編『ポプラディア情報館 日本の歴史人物』ポプラ社、2006年
古川清行著『読む日本の歴史―日本をつくった人びとと文化遺産6 江戸時代の町人と農民[江戸時代中期~後期]』あすなろ書房、2009年
笹沢左保著『徳川幕閣盛衰記 失脚2―大老・酒井忠清と掘田正俊の闘い』祥伝社、1994年
小川和也著『儒学殺人事件―堀田正俊と徳川綱吉』講談社、2014年