ミャンマ-バゴ-の寝釈迦仏

稲葉 孝

1,はじめに
ミャンマーには多くの「寝釈迦仏」が見られる。この「寝釈迦仏」は釈迦が息抜きをしている姿を表現し目が開いており、足も不揃いになり、足の裏には108の煩悩が描かれている。同じように釈迦が横になる「涅槃仏」は、魂が肉体から離れた時の状態を表すもので目が閉じられ、足は揃い、足の裏は煩悩がなくなり何も描かれていない。このように仏像には立像や座像、涅槃のように横たわった臥像が存在する。ミャンマーの寝釈迦仏と仏涅槃図[1]、キリストの埋葬時が描かれる西洋絵画を取り上げ評価した。

2,基本データと歴史的背景
ミャンマ-南部の都市、旧首都ヤンゴンの北東約80キロに位置するバゴ-は古い都で、この街が開かれたのは573年、1500年以上の歴史が存在する場所である。9世紀モン族の二人の王子によって築かれた街は、やがてビルマ族により支配されビルマの首都となるが、何度か王朝が遷り変わり1757年の戦火によって壊滅する。現在のバゴ-は、かつての都としての華々しさとは無縁ののどかさが漂うが由緒あるパゴダや寺院、僧院が点在してゆかりのある街並みが整っている。ここには鳥の上に鳥が乗っている鳥のつがいの像が見受けられる。 バゴーが海の中の島であった時代、神話上の鳥である≪ヒンタ≫は1羽しか住めない広さだったのでオス鳥がメス鳥を背中に乗せていたのを通りかかった釈迦が、2羽の鳥を見てこの地に住む者は永遠の繁栄が約束されると予言した。仏教国ミャンマ-では各地に巨大な仏像があり、それぞれ人々の思いやりと親しみやすさを広めるさまが信仰の対象となっている[2]。

3,積極的評価点
ヤンゴンから車で2時間の街、バゴーには二つの寝釈迦仏がある。994年に建立されたと言われている≪シュエターリャウン≫とその近くに新しく作られた≪ミャッターリャウン≫である。二つの寝釈迦仏は建立年も違うせいか容貌が際立って異なっている。994年に作られたと言われる≪シュエターリャウン≫寝釈迦仏[3]は、ミャンマーの他の地域で見る寝釈迦仏と共通した白い肌、大きく開いた眼で微笑をたたえ慈悲深そうな穏やかな顔、両足の面が揃っておらず休憩している特徴がある[4] 。
古都バゴーはモン王朝の都ハンタ-ワディ-として13世紀から16世紀に栄え≪シュエタ―リャウン≫寝釈迦仏は、994年にモン族の王によって建設されミャンマー最古のものである。しかし王朝の衰退とともに忘れ去られ19世紀になって密林より発掘された。800年以上ジャングルに埋もれており、英国統治時代に鉄道建設の際に発見されたといわれている。映画『ビルマの竪琴』の中で登場する寝釈迦仏はこの≪シュエターリャウン≫の仏像である。その大きさに圧倒される。全長55メートル巨大な仏が横たわり、穏やかに微笑んでいるさまが印象的な像である。バンコクのワット・ポーにある寝釈迦仏(46メートル)より10メートル近く大きく、その美しさに圧倒され長い年月の間にうち捨てられていたとは思えない。この55メートルの大きな姿に参拝者は絶えず訪れており、バゴーには有名な寺院やパゴダがいくつも存在するがその中でも特に日本人になじみ深いのは≪シュエターリャウン≫寝釈迦仏である。
≪ミャッタ-リャウ≫寝釈迦仏[5]は、Kalyani Ordination Hallと≪シュエターリャウン≫寝釈迦仏を行き来する道路の交差点に存在する。兄弟であり、≪ミャッタ-リャウ≫が少し大きい兄なのだと言われている。≪シュエタ-リャウン≫寝釈迦仏より参拝をしている人の姿が少ないのは不思議な光景である。2001年に建てられ屋根はなく風と雨にさらされている状態であるが、大変シャ-プな造形でありミャンマ-の仏にはめずらしい肌色、瞳の色が薄く西洋人っぽい様相を呈している。足の裏は千輻輪で平面的な姿である。頭の向きは東向きで教えを説いている姿であり右の手で頭を支える姿は、≪シュエタ-リャウン≫寝釈迦仏とは異なる[2]。

4, 他の事例と比較
仏教においてもキリスト教においても釈迦とイエスの死は、重要な意味合いがあり絵画や彫刻は題材としてとりあげられている。和歌山県、金剛峯寺の≪仏涅槃図≫は釈迦の入滅の姿を描いた絵である。画面の中央、宝台の上に目を閉じた安らかな姿で横になり、原始仏教の経典のひとつである『中阿含経』[6]によると入滅直前の釈迦は、「黄色の山のように光り輝き気品があって荘厳」と表現されている。その姿を現すために、釈迦の顔や胸は黄白色の中間色で用いられ、38名の菩薩、弟子たちが描かれ、枕元には観音、文殊、普賢などの菩薩たち、足元には富楼那、優婆離らの十大弟子をはじめとした姿が表現されている。また、涅槃図の右上には釈迦の生母である摩耶夫人が描かれ人々の性格や地位が描き分けられている。
≪キリストの哀悼≫ファン・デル・ウェイデンには、嘆く聖母マリアとヨハネに両腕を持たれたキリストが埋葬される場面が描かれている。≪死せるキリストへの哀悼≫ジョットには、十字架から降ろされたキリストを囲み聖母マリアやヨハネらがその死を嘆き悲しんでいる様相が描かれている。死の構図は人物ならびに悲痛な表情でイエスは傷ましく、キリストの顔を抱き寄せ悲嘆にくれる聖母マリアそして、空には10人の天使がさまざまなポーズで悲しみを表わしている。また≪十字架降下≫ルーベンスは、イエスの傷のなまなましさ、遺骸を十字架から降ろす様子を人々は絶望に浸り見守っている[7]。
しかし≪仏涅槃図≫の釈迦は和やかであり、イエスと比較すると死を迎え截金模様で装飾された衣をまとい威風堂々としている。損失あるいは不在の悲しみを感じる表現も、イエスの屍には聖母マリアと限られた人が立ち会うが、≪仏涅槃図≫には多くの菩薩や弟子が取り囲んでいる。イエスの死は復活を暗示するかのように枯れ木は芽吹く様子が描きだされているが、釈迦はインドのクシナガラの林で入滅したときに生えていたといわれている沙羅双樹が咲いている。釈迦は眠りにつくような穏やかな姿で描かれ、イエスの死は受難として描かれている。

5, 今後の展望
日本人は、ほぼ無宗教であるがミャンマーでは多くの民が仏教、キリスト教、イスラム教等を信心している。多くは敬虔な上座部仏教の仏教徒で、朝晩毎日お祈りをし、人に知られずとも良い行いを積み重ねることで徳を積むことにつながると言われている。寝釈迦仏を参拝するのは、生きている釈迦に対しての祈りであり、優しい顔つきをされ目を見開いている姿に対して崇める行為は永遠に続けられると看做す[2]。

6, まとめ
≪仏涅槃図≫は仏教を開いた釈迦が、教えを広めるためインドの各地を歩いて回り45年間布教という生活を続け、多くの人びとを幸せへと導いた[8]。熱心に布教活動した釈迦もやがて体力が衰え、80歳でこの世を去ってしまう、その亡くなったときの様子を描いたもので入滅時の様相である。ミャンマーの≪寝釈迦仏≫は、言い伝えによると13世紀にミガディパという王がいて、邪教を信仰していた。ある日、王子を狩に行かせたところ、森で美しい女性と出会い連れ帰り結婚することになった。妃は王の信仰する神像を拝まず仏陀の像ばかりを拝むので、王は妃を邪神へのいけにえにし仕留めようとする。そのとき、妃は3つの宝石を持って、邪神像が粉々になってしまうように願うと、そのとおりになる。それを見た王は恐ろしくなり仏教を信仰し、寝釈迦仏を作らせたという話がある[2]。休息し、目は開き、足の裏に煩悩があり不揃いである姿、そして肌が真っ白なのもミャンマ-仏の特徴であり、日本では寝釈迦というと涅槃仏を意味するが、ミャンマーでは必ずしも涅槃仏ではなく、横になって教えを説いている姿である。

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参考文献

[1] 著者名:秋山光和 他 『新潮世界美術辞典』  株式会社新潮社 1985年
[2] 聞き取り調査に協力してもらったYangon National Blood Center の医師(Dr.Thida Aung ・Dr.Nwe New Oo)
[3] ≪シュエターリャウン≫寝釈迦仏         撮影2018年7月19日筆者撮影
[4] ≪シュエターリャウン≫寝釈迦仏の足の裏     撮影2018年7月19日筆者撮影
[5] ≪ミャッタ-リャウ≫寝釈迦仏         撮影 2018年 7月19日筆者撮影
[6] 著者名:桐山康雄   『仏陀の真実の教えを説く』 平河出版社     2007年
[7] 著者名:杉全美帆子  『新約聖書の物語と絵画』  株式会社河出書房新社 2021年
[8] 著者名:手塚治虫   『ブッダ』        手塚プロダクション  2014年

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