上田城跡公園ー市民とともに歩む公園ー 

穂谷 千春

上田城跡公園は、長野県上田市・JR北陸新幹線上田駅から徒歩15分ほどの場所に位置する公園である。
上田市は長野県東部に位置し、県内では長野市・松本市につぐ3番目の規模の都市である。そして上田は、戦国時代に活躍した真田氏発祥の地でもある。1585年、安土桃山時代に真田幸村の父・昌幸により完成した上田城は、徳川の大軍を2度も撃退した名城として知られている。
真田家の後に仙石氏三代・松平氏七代という歴代藩主が治めた上田城の跡地は、現在「上田城跡公園」として市民に親しまれている。園内には博物館や芝生公園、神社、運動場などがあり、桜や紅葉の季節にはイベントが催される。公園周辺には上田市役所や名門・長野県上田高等学校、城下町の名残りである「海野町」という商店街などがあり、上田市の中心的な場所となっている。

1.基本データ
所在地:長野県上田市二の丸6263番地イ
面 積:168,000 m2
運営者:上田市
設備・遊具:神社、博物館、野球場、陸上競技場、相撲場、体育館、テニスコート、弓道場、児童遊園地、記念碑

2.公園全体の歴史的背景
〈上田城築城から幕末まで〉
真田昌幸が1583年に築城開始し1585年に完成した上田城は、徳川軍によって1601年に破壊されたため、城が存在していたのはわずか15年ほどであった。しかしその後に上田藩主となった仙石忠政が上田城再興を計画し、幕府の許可を得て1626年に工事に着手した。現在見られる櫓・濠はほとんどがこの時代に築かれたものである。仙石氏の覚え書きや当時の記録から、真田氏の時代の姿に戻すことを基本にしていたと考えられている。櫓はほぼ同じ形のものが7棟あり、再建された後に建て直した記録はないので、明治維新までその姿を維持し、揃って建っていたとされている。
〈明治初期から戦後まで〉
明治の廃城の際、全国の城同様に上田城も払い下げられることとなった。建物や土地は旧上田藩士らの手に渡り、その後民間に転売された。その結果、唯一残った西櫓以外の櫓などの遺構は姿を消して土地の多くが畑となり、城跡の景観は大きく変わってしまった。
しかし、城跡と歴史が消えゆくことを惜しんだ旧藩主旧臣や住民らから、本丸に歴代松平藩主を祀る神社創建の動きが興った。そして本丸の土地を払い下げで一括取得していた丸山平八郎という人物が土地を寄付し、明治12年に松平神社(現在の眞田神社)が創建された。丸山氏は本丸の残りの土地も神社に寄付したため、この部分は破壊や市街化されることなく遺されることとなった。明治20年頃、神社が本丸を公園に転換するために上田市に土地を寄付したことで、城跡が公園化される土台が築かれた。
その後、大正〜昭和初期には市民会館、運動場、テニスコート、児童遊園地が建設され、市民への開放がいっそう進んだ。
昭和16年、市内に移築されていた櫓2棟が東京に転売されたことを知った市民から、これらを買い戻して城跡に復元しようという動きが始まった。市民の寄付金により無事買い戻すことができ、昭和18年から工事が開始。そして戦争による中断をはさんで昭和24年に現在の南櫓・北櫓として移築復元された。

3.評価する点ー歴史と景観
〈歴史〉
1)真田氏が1585年築城した上田城は、一度は破壊されたもののその後の仙石氏が同じ場所で史実に可能な限り忠実に再興し、その姿は松平氏の時代を経て明治時代になるまで保たれていた。上田城跡という文化遺産を後世まで残してくれた仙石氏・松平氏の功績を大きく評価する。
2)戦前から広く市民に親しまれ、今も多くの人々が訪れている上田城跡公園は、市民の要望が原点となり松平神社が創建されたところから始まった。そのための土地を提供した丸山平八郎の功績は大きい。また、現在の城跡公園のシンボル的存在である櫓は、太平洋戦争の只中において市民の寄付金により買い戻されたという点が特筆される。城の姿を取り戻そうという当時の人々の思いの強さがうかがえる。
3)昭和初期に完成した陸上競技場などの運動場や野球場、テニスコート、児童遊園地は、現在も多くの人々が訪れている。これらの場所に行き着くためには櫓・本丸の濠のまわり、または二の丸濠跡のけやき並木遊歩道を通る必要があるため、城跡公園として特徴的な景観が訪れる人々の目に自然と入るようになっている。

〈景観〉
1)櫓
上田城跡公園には現在3つの櫓があり、城跡公園としての特徴的な存在となっている。櫓とは、城郭で遠くの敵のようすをうかがったり、攻撃のために城壁などの上に設けた高い建築物を指す。現在の櫓は、1626年に仙石氏が再建したものが土台となっている。
2)本丸跡の濠と尼ヶ淵
本丸跡を囲むコの字形の濠のまわりは桜の木が植えられ、特に春は多くの人々が訪れているが、上田の中心地であることもあり一年を通して幅広い年代の人々の散歩コースとなっている。
濠の南側は現在は芝生公園となっているが、ここは上田城が築城された時代には千曲川の分流が流れていて「尼ヶ淵」と呼ばれる天然の濠であった。芝生公園からは、高さ約12mのところにある南櫓・西櫓を見上げることができる。真田時代の遺構はほとんどないとされている上田城跡公園であるが、ここからの櫓・空・山の景観は、その時代に近いものがあると推察される。

4.今後の展望
上田市は「史跡上田城跡保存管理計画」「史跡上田城跡整備基本計画」を策定している。その中で公園内の建物等を以下の3つの要素に整理し、今後の保存管理方針を示している。

・史跡の本質的価値(櫓、濠、尼ヶ淵の景観など)
・近代の公園等形成に関する諸要素(神社、運動場など)
・現代の公園利用に関する諸要素(博物館、記念碑など)(1)

「上田城跡を史跡として適切な姿で後世に引き継ぐ」(2)という方針のもと、例えば櫓は計7棟あったが現在は3棟のみであるため、残りの4棟の復元にあたる予定だ。そのために必要な、外観が分かる写真や建物内部の図面等の収集調査を継続して行なっている。
今後は城跡復元に関するものを除き、原則として新たな建造物等の設置は認められていない。また運動場や博物館などの建物は、将来的には移転すると計画されている。その中には眞田神社も含まれているが、神社についてはその歴史的価値を考慮し、上田市と協力して史跡整備に取り組んでいくべきとしている。

5.他の事例との比較
比較対象として、愛知県の名古屋城を挙げる。名古屋城は、昭和20年に戦火で焼失するまでその姿を保っていた数少ない城である。設計図や写真などの資料が十分に残されており、戦後に復元された。火に強く頑丈であるということから鉄筋コンクリート(RC)が採用されたが、RCは耐用年数が限られていて、現在の名古屋城は建て直しが迫られている。名古屋市は木造での再建を目指しているが、木造となると現在名古屋城にあるエレベーターや非常階段などの設置は困難である。また莫大な予算が必要となるが、城再建よりも優先することがあるのではないかという市民の声もある。RCの寿命が迫る中、多くの問題が存在している。
対して上田城は、今後の発掘・調査を経て史実に忠実な復元を目指している。現在はそのための資料等が乏しいが、史実に忠実とは、木造での復元ということである。名古屋城のような外観の豪華さは少ない上田城であるが、文化財としての将来的な復元への期待は大きい。

6.まとめ
上田城跡公園には様々な施設が存在するが、それは公園の市民への開放という目的の中で育まれてきたものだ。しかしこれまで長く親しまれてきた施設が、移転対象であるということはあまり知られていないのが現状だ。「評価する点 歴史3)」に記した通り、多くの人が施設訪問を通じて史跡に触れているが、今後はそれらの移転と史跡の復元という課題に対し、時間と財源の確保そして施設に関連する人々がどのように関わっていくかが重要となってくるであろう。人々に開かれた公園としての歴史と、史跡としての歴史。それらの共存・発展が期待される。

  • 81191_011_32086006_1_1_img_20220411_054600_copy_2400x1801 画像1 尼ヶ淵から櫓を見上げる。右が南櫓、左奥が西櫓。
    2022年4月8日 筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_2_img_20220417_130343_copy_1479x1972 画像2 櫓の石垣は、仙石氏の時代から現在まで、度々補修されている。
    2022年4月17日 筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_3_img_20220410_074802_copy_2097x1573 画像3 西櫓より、尼ヶ淵を見下ろす。
    2022年4月10日筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_4_img_20220408_184342_copy_1870x2494 画像4 徳川によって埋められてしまった濠を、仙石忠政が掘り返して元の姿に復元した。
    2022年4月8日 筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_5_img_20220503_103525_copy_3456x4608 画像5 眞田神社管理の土地にある土蔵。松平家の家紋がある。眞田神社は上田市の城跡整備に協力、その上で解体・調査が行われる。
    2022年5月3日 筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_6_img_20220503_103345_copy_3456x4608 画像6 西櫓。仙石忠政が再興した建物のうち、現代まで残っている唯一の建築物。
    2022年5月3日 筆者撮影
  • 81191_011_32086006_1_8_img_20220718_180138_copy_1878x1408 画像7 平成6年3月、上田城跡の本丸に櫓門が復元された。門の奥には眞田神社が見える。
    2022年7月20日 筆者撮影

参考文献

上田市誌編さん委員会編『上田市誌 歴史編(6) 真田氏と上田城』、上田市誌刊行会、2002年
清水安雄撮影 佐々木勇志、及川健智原稿『真田六文銭 写真紀行』、(株)産業編集センター、2015年
加藤理文 著『日本から城が消える』、株式会社洋泉社、2016年

インターネット
特別史跡名古屋城 ホームページ
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/ (2022年5月17日閲覧)


(1)上田市『史跡上田城跡保存管理計画』4頁
(2)同 1頁
https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/3407.pdf

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